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38 密談と観察

 翌日。夜会での別れの挨拶の際、ミシュリーヌ嬢が見せた懇願めいた視線に従い、私は彼女との対話の場を設けた。

 ミシュリーヌ嬢は学園の奥の奥にある、東屋を指定してきた。

 人目につきにくい場所を彼女が選んだのは、公然と聞かれるべきではないと判断したからだろう。


 東屋は手入れの行き届いた生垣に囲まれ、朝露に濡れた薔薇が甘く香っていた。

 しかし、その静寂は私の心に何の安らぎももたらさなかった。


 ミシュリーヌ嬢は私の前のベンチに腰掛けると、固い面持ちで口を開いた。


「恐れながら、ルイーズ様。あのご令嬢に、いつまでもあのような真似を許すべきではございません」


 彼女の声には貴族としての矜持と、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。


「あのような真似、とは?」


 私はあえて問い返した。

 彼女が何を言いたいのかは明白だったが、彼女の言葉を最後まで聞くことで、その本質を探ろうとした。


「ヘンドリック殿下とのことですわ。あのお方も、あなた様のことを侮り、蔑ろにし続けている。それを黙認することは、我が国の権威にも関わるのです」


 ミシュリーヌ嬢は生粋の貴族だ。面子と権力を重視する。

 前世では彼女のような令嬢の言動など、私の記憶の片隅にも残っていなかった。その程度の存在だった。


 だがしかし、今やどうだ。彼女はあの灰色の治世の記憶を持つというのに、こうして正面から忠言してくる。

 まるで仔犬が精一杯吠えているようで、どこか愉快な画だった。その滑稽さに口元に僅かな笑みが浮かぶのを禁じ得なかった。


「別によいではないの。そもそも私にとって、この婚約など、どうでもよいものだから」


 私は興味なさげに答えた。

 私の婚約者としての立場、未来の妃としての責任など、私には何の価値もない。


「お心がないから、という意味でございますか。あなた様に情がおありの方が別にいらっしゃるなら、その方は別に囲えばよろしいではございませんか! あなた様にはそれがおできになるでしょう!?」


 ミシュリーヌ嬢の言葉に、私は内心で舌打ちした。

 彼女のその説得は、私に対して悪手であった。私の心が、既に前世でどれほど深く傷つけられたかを知らず、軽率に情事について語る無知さに、僅かな苛立ちを覚えた。


「ミシュリーヌ嬢。あなたは何か思い違いをしている」


 私の声には、冷たい響きが混じっていた。

 彼女は、私もまた『生まれ戻った者』であるとは認識していない。その事実が、彼女の言葉の軽さを際立たせていた。



「お前も、あの宰相のように首を斬られたいのかしら」



 私の言葉を聞いた瞬間、ミシュリーヌ嬢の顔色は一気に青白くなった。彼女は息を呑み、私の言葉をもう一度飲み込んだ。

 そして、その言葉が持つ本当の意味を理解した途端、青白さは恐怖と絶望の色へと変わった。その瞳は、深淵を覗き込んだかのように揺れ動いた。


「へ、陛下……も、申し訳ございません。わたくしは、ただ……」


 彼女が震える声で言葉を紡ごうとした、その時だった。私の視線が、小道の奥に向けられた。

 そこに、一人の侍女に連れられて、おずおずと近づいてくるコレット嬢の姿が見えた。


「ほら、コレット嬢がいらしたわよ」


 私の言葉に、ミシュリーヌ嬢の体がビクリと震えた。その瞳にはまだ恐怖が宿っていたが、私の視線の先を追うと、瞬時に貴族としての仮面を被り直した。

 彼女にとって人前で感情を晒すことなど、決して許されないことなのだ。その顔には、先ほどの恐怖の痕跡は微塵もない。

 私への絶対的な服従と、貴族としての義務感が、彼女をそうさせているのだろう。


 コレット嬢は私の姿を見つけると、さらに顔色を失った。まるで逃げ場のない小動物のように、その場に立ちすくむ。

 ミシュリーヌ嬢はコレット嬢を値踏みするように一瞥すると、冷ややかな声で言葉を始めた。

 彼女は夜会の件でコレットを責め立て、制裁を下すつもりなのだろう。コレット嬢は身動きもできず、ただ震えるばかりだ。


「ミシュリーヌ様。ここは、私と彼女の二人きりにしてくださる?」


 私は静かに、しかし確固たる響きを持つ声で問いかけた。

 ミシュリーヌ嬢は一瞬怯んだが、最後にコレット嬢を睨みつけると、音もなく立ち上がった。

 私に一礼した時にわずかに震えた肩は、よほど私の警告が恐ろしかったと見える。東屋を後にする彼女の背中は、普段の自信に満ちたそれとは異なり、どこか小さく見えた。



 ミシュリーヌ嬢が去り、東屋に残されたのは私とコレット嬢だけ。


 卓上に置かれた紅茶のカップに手を伸ばし、コレット嬢へと差し出す。

 彼女の手は、差し出した紅茶のカップもまともに持てず震えていた。湯気からはわずかに甘い香りが漂うが、場の張り詰めた空気にはそぐわなかった


 そして、不意に、核心を突くような問いを投げかけた。


「ヘンドリック様が、好きなのね。」


 コレット嬢の心臓が跳ねたのが見て取れた。

 その怯えきった視線が私に向けられる。彼女は謝罪の言葉を紡ごうとするが、私は遮る。


「あの方と、結ばれたい?」

「そんなことっ!」


 コレット嬢は椅子から立ち上がった。

 その顔には身分違いの恋に踏み込んだことへの後悔と、私への謝罪の気持ちが入り混じっていた。


 私はコレット嬢の動揺を静かに見つめた。

 私の瞳には、憐れみも、嘲りも、何も宿らせない。ただ、目の前の存在が、これからどのような感情を吐き出すのか、それを観察するだけだ。

 彼女の震える指先、必死に言葉を絞り出そうとする唇。全てが、私には興味深い対象だった。



 この令嬢にはおかしなところが多い。

 突飛な発想もそうだが、まるで、私を通して別の誰かを見ているように思える。だが不思議なことに、その『誰か』も私なのだ。


 不可解で、謎が深く正体が読めないのに、その一方で迷子の少女のように感情を取り乱す。

 私との問答で泣き出したコレット嬢の涙を、私はただ冷静に観察した。頬を伝う透明な雫が彼女の純粋さを際立たせるようだった。


「コレットに何をしているっ!」


 突然の割り込みに、私はもう一つの確信を得た。怒りに満ちた声が東屋に響き渡る。


 ヘンドリックはコレット嬢に真実、情を寄せている。

 愚かな男だ。私を陥れるための駒が、いつの間にか彼の心を捕らえた。まさに、ミイラ取りがミイラになったのだ。


 怒りに狂ったあの男はそのまま、コレット嬢を立ち上がらせて去っていった。その足音は東屋から遠ざかるまで、苛立ちを隠せないまま響いていた。


 ミシュリーヌ嬢もあの有り様を自らの目で見ればいいのに。そうすればあの短慮で傲慢さを耐えきれなくなった時、私があの男を呪い殺しかねないと、すぐにわかるだろう。


(それにしても)


 私は温くなったカップを傾けた。紅茶はすっかり冷めていたが、その苦味が妙に心地よかった。


 コレット嬢が呪いの存在に気づき、それを探り始めた。私も探りを入れなければ。

 私の耳の奥に、あの魔女の甲高い笑い声が木霊した。

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