37 盤上の異変
ある日の午後、私は学園の渡り廊下を進んでいた。
中庭に面した一角で、私は足を止めた。
ここから訓練場が覗けることを、私は知っていたからだ。
私が求めるのは、やはり彼の姿だった。訓練場の一角に、見慣れた後ろ姿を見つける。
エディーだ。
彼は訓練の合間だろうか。仲間と話しながら、顔の汗を拭っている。
その仕草、その佇まい……全てが、私の知る彼と何一つ変わっていなかった。特待生としての評判も良いと聞いている。
(変わらないのね、そのひたむきさも)
私の胸に、穏やかな、しかしどこか切ない感情が広がる。
あの時、「二度と私の前に姿を現すな」と、私が自ら突き放した彼が、今、目の前にいる。近寄ることは許されない。
彼がただ、このまま無事に、平穏に過ごしてほしい。それだけを願う、静かな祈りのような思いだった。
私は彼に気づかれぬよう、そっと視線を外し、何事もなかったかのように歩き続けた。
数日後、私のもとにマクシム宰相子息のタウンハウスで開催される夜会の招待状が届いた。形式的なものだ。
私はそれを一瞥し、机の端に置いた。
出席するつもりなど毛頭ない。退屈な社交の場で、下らない世辞を交わすことに何の価値もない。
しかしその日の放課後、再びミシュリーヌ嬢が私の前に現れた。
彼女は私の返事を待ち構えていたかのように、丁寧な口調で切り出した。
「ルイーズ様、夜会の欠席を決められたと聞きました。ですが、それはあまりに賢明なご判断と思えませんわ」
私は眉を上げた。
「なぜかしら。私には興味のない催しよ」
「その夜会には当然、ヘンドリック殿下も出席なさるのです。もしあなた様が欠席なされば、ヘンドリック殿下は間違いなく、あの男爵令嬢を伴って夜会に現れるでしょう。彼らは街で二人きりだったとも噂されています」
(コレット嬢が来る?)
その瞬間、私の退屈していた心が、微かに高揚するのを感じた。
あの奇妙な発想を持つコレット。彼女が貴族が集まる夜会の場で、どのような振る舞いを見せるのか。
ヘンドリックが彼女をどう利用しようと、ミシュリーヌが何を企んでいようと、それはコレットという変数がこの世界に何をもたらすのかを観察する絶好の機会になる。
「そう。ならば、気が向いたら顔を出すかもしれないわ。」
私はミシュリーヌに淡く微笑んだ。
彼女の顔に、私の真意が読めない困惑の色が浮かぶのが見て取れた。私の言葉は彼女にとって予想外だったのだろう。
だが、それで構わない。私が何を考えているのか、彼らには決して理解できないだろうから。
夜会当日。私は最低限の社交辞令を交わしながら、会場に目を凝らした。煌びやかな貴族たちの間で、私の視線は常に一つの存在を探していた。
そして、すぐに私は彼らを見つけた。
ヘンドリックは満面の笑みを浮かべ、エスコートする女性と談笑している。その女性こそ、コレットだった。
彼女は豪華なドレスに身を包み、戸惑いながらもヘンドリックの隣で笑顔を浮かべている。その姿は、学園の討論で見せる稚拙さとは異なり、まるで別人のようだった。
ヘンドリックは彼女の隣で終始楽しげに振る舞っている。その瞳には、私が当初見抜いた冷徹な計算だけでなく、確かに熱のようなものが宿っているのを感じた。
(まさか、本当に惹かれているとでもいうのか?)
彼らの仲は、私の予想を裏切る形で進展したのか。
彼がコレットの特殊性を利用しようとしているのは間違いないが、同時に彼女の純粋さ、あるいは独創性に、彼自身もまた惹かれているのだ。
その時、ミシュリーヌ嬢が私に近づいてきた。
「ご覧になりましたか、ルイーズ様。私の申し上げたとおり、ヘンドリック殿下はあの男爵令嬢をパートナーになさりました。ルイーズ様がいらっしゃるというのに……」
ミシュリーヌ嬢は勘違いをしている。ヘンドリックは最初から、私に対してこの夜会の話など持ちかけていない。あの様子を見るに、最初からコレット嬢を誘う算段だったのだろう。
「ええ。それで、何か目的があって話しかけてきたのでしょう?」
ミシュリーヌは一瞬ひるんだが、すぐに顔を引き締めた。
「あの男爵令嬢、最近、奇妙な『呪い』についての情報を集めているようですわ。ヘンドリック殿下の周りをうろつくだけに飽き足らず、噂話に興じるとは随分なことと思います」
(呪い……?)
なぜ、コレット嬢が『呪い』について知り得ているのか。彼女は生まれ戻りをしていないはず。
彼女の『奇妙な発想』が、まさか『呪い』に繋がっているというのか。私の思考は『呪い』のことについてで埋め尽くされた。
「ミシュリーヌ嬢。私は、今夜はこのあたりでお暇するわ」
「え? なぜですか。あの二人の蛮行を、見逃すおつもりですか?」
私はミシュリーヌの言葉を遮り、彼女に冷徹な視線を向けた。
彼女にこれ以上返答することなく、私は歩き始めた。
「お、お待ちを! せめて明日、学園でお話の機会をくださいませ!」
縋るミシュリーヌ嬢の声が追いかけてくる。私は振り返り、告げた。
「気分が乗れば、ね」
私の言葉に、彼女は息を呑んだ。
私が何を企んでいるのか、彼らには決して理解できないだろう。
夜会の収穫は十分。
残るは、彼らに私の存在を深く意識させ、小さな波紋を投げかけることだ。
私は会場の中央、アレクシス、ヘンドリック、そしてコレットが談笑している一角へと、躊躇なく歩みを進めた。
一歩一歩、磨き上げられた床にヒールが静かに音を立てるたび、周囲の視線が私たちに集まるのが分かった。
「お兄様」
彼らは私の姿に気づくと、一瞬にして談笑を止め、表情を硬くした。
特にヘンドリックの顔には、予測不能な私の行動に対する困惑と、驚愕が滲んでいた。
コレット嬢はまるで金縛りにでもあったかのように微動だにせず、私を見上げている。その瞳には恐怖と、僅かながら好奇心の色が混じっていた。
「ああ、ルイーズ。どこにいるのかと思った。何か用か?」
「退席の前に一言挨拶を申し上げようかと」
能天気な兄はいつもの調子で、呑気に問いかけてきた。その呑気さが、この場をより一層滑稽なものにしていた。
私は形式的な笑みを浮かべ、彼の顔を見据えた。周囲のざわめきが止み、全ての視線がこの小さな舞台に注がれているのが肌で感じられる。
彼らも、この状況がただの社交辞令ではないことを察しているのだろう
「ヘンドリック殿下におかれても、大してお話はできておりませんが、私は今夜はここで失礼いたします。本日はありがとうございました。それでは御機嫌よう」
私の声は場に響き渡るほどでもなく、かといって聞き取れないほど小さくもない。完璧な社交のトーンで、しかしそこには明確な「終わり」の意思が込められていた。
私はそう言い残すと、彼らから視線を外し、振り返りもせず、出口へと歩き出した。
この夜会で蒔いた種が、いずれどのような芽を出し、花を咲かせるのか。静かに、その時を待つだけだ。