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34 灰色の再生

 あれは確かに、灰が降ったような午後だった。


 断頭台の冷たい木材が首に食い込み、刃が振り下ろされる直前のあの絶望的な視線と、遠くで響くエディーの悲鳴が、まだ鼓膜の奥に焼き付いている。

 死は、確かにそこにあったはずだ。


 しかし次に目覚めた時、私の目に映ったのは、煤けた天井と冷たい石壁に囲まれた、あの小さな部屋だった。

 身体を起こそうとすると、軋んだのは豪華なベッドではなく、硬い板に襤褸の綿のシーツが敷かれただけの簡素な寝台だった。微かに漂うカビと埃の匂いが、嫌なほどに現実を突きつける。


(これは、一体……?)


 私は荒れた手で自分の頬に触れた。

 そこに感じたのは、かつての女王としての滑らかな肌ではなく、わずかにざらついた、幼い頃の記憶にある感触だった。


 小さく開かれた窓から差し込む光はまだか細かった。

 国の現状が気になって仕方なかった。恐る恐る外の世界を確かめようと窓に近づき、そして再度驚愕した。

 窓を覗こうとした私の視線は異常に低かった。窓枠に届くか、届かないかという高さだった。


 慌てて鏡に駆け寄り、驚きの正体を確かめた。

 私が口を手で覆えば、鏡の中の少女も同じく手を口にやった。


 ――そう、少女だ。

 私の身を包むのは、みすぼらしい生成りのドレス。鼠のように生きていた、あの頃の最もみじめな衣装だ。



 あの死は、夢だったというのか? しかしあまりにも鮮明だ。父王へのあの憎悪も、民衆の怒りも、そしてエディーの思いも……。


 全てが、まるでつい昨日のことのように脳裏に蘇る。

 私はあの悲劇的な結末を、確かに生きたはずだ。

 なのに、なぜ私は、再びこの王宮の片隅で、朝を迎えているのか?



 信じられない現実の連続に疲れ果てた私は窓辺の椅子にふらふらと腰掛けた。

 現状を整理するため、私は小さな手で頭を抱えながら思案した。


 混乱はすぐに終わった。

 次に襲ってくるのは、ある種の達成感にも似た虚無感。

 その全てを、もう一度繰り返す気にはなれなかった。もはや、心を動かすものは何一つなかった。私の心は完全に燃え尽きていた。



 数週間後、母親は静かに息を引き取った。

 あの記憶を『前世』と呼んでよいのか。いずれにせよ、母親は前世と同様、私を顧みることなく死んだ。


 かつての私ならば、その不条理に泣き叫び、怒り狂っただろう。

 だが今の私の目には、ただ、繰り返される過去の断片が映るだけだった。


 母の痩せ細った顔を、私は何の感情もなく見つめていた。まるで遠い昔に読んだ物語の登場人物を見るかのように。

 そしてその死を、誰よりも早く自身が父王に伝えに行くべきだと、冷静に判断した。


 玉座の間へ向かう廊下は、幼い私には長く感じられた。

 すれ違う侍女や兵士たちが訝しげな視線を寄越す。冷遇され、影のように扱われていたはずの私が、感情の欠片も見せずまっすぐに玉座へ向かう姿は、彼らにとって異常だったのだろう。


 彼らの囁き声が聞こえる。

「公女が……」

「何事だろう?」

 しかしその動揺は私の耳には届かなかった。


 玉座の間は今日も豪華絢爛だ。父王が傲慢な笑みを浮かべてそこに座している。

 私は彼のもとへ進み出ると、ひざまずき、簡潔に告げた。


「母が、今、息を引き取りました。」


 私の声はひどく冷静だった。


 予想通りの父王の反応は、表向きはわずかな驚きと、どこか芝居がかった悲しみの表情。


 だがその一瞬、彼の瞳の奥に私と同じ「既知」の色が宿るのを、私は見逃さなかった。


 まるで水面に一滴の油を落としたかのような、微かな歪み。

 その視線は、瞬時に私を値踏みし、理解しようとする、探るような光を放った。


(まさか、この男も、私と同じ……?)


 私の心臓が微かに震えた。

 それは燃え尽きたはずの心に、予測不能な火種が投じられたかのような感覚だった。



 その後、私の王宮での待遇は驚くほど改善された。

 かつての薄暗い部屋ではなく、陽光が差し込む広い一室が与えられ、新しい侍女たちが身の回りの世話をするようになった。

 食事も豪華になり、粗末なドレスは上質な絹の衣装へと変わる。冷遇されていた日々の全てが、一夜にしてまるで嘘だったかのように。


(なぜ今になってこのような真似を?)


 私は父王の意図を測りかねていた。

 しかし私への突然の厚遇は、ある一つの可能性を強く示唆していた。


 あの男は呪いを恐れているのだ。


 前世で彼の身を蝕んだ病が私から放たれた呪いによるものと、彼は勘づいている。だからこそ、過去の自分とは違う振る舞いをし、私に良い顔をすることで、その運命を変えようとしている。


 私の心に冷たい嘲笑が浮かんだ。

 愚かな男。その程度のことで、私の憎悪を、復讐を、止められるとでも思っているのか。


 ならば、他の者たちはどうだ?

 私は父王以外の王族たち――傲慢な皇太子や、無邪気に見えるアレクシス王子にも目を光らせた。

 彼らが私と同じ「既知」の目を持っているか、その行動に不審な点はないか、注意深く観察を続けた。


 しかし、彼らは相変わらず、前世で見た通りの愚かさと傲慢さに満ちていた。特別な変化は見られない。

 どうやら逆行しているのは私と父王、この二人だけのようだ。



 そんなある日、私は父王の命により、謁見の間へ呼び出された。

 そこにいたのは予想通りの顔ぶれ。宰相と、その息子――マクシム。前世で、私がその父の処刑を命じ、私の首を落とした男。

 その光景が、鮮やかに脳裏に蘇った。


 宰相は油で磨き上げたかのような滑らかな笑みを貼り付けている。

 そして、その隣に立つあの若造、マクシムの顔は明らかに青ざめていた。私を目の前にして、彼の体は微かに震え、視線は宙を彷徨っている。


(これは……何だ?)


 私の心に新たな疑問が湧き上がった。

 マクシムはまだ私の処刑を命じる前の、何の後ろ暗さも持たないはずの若造だ。なのに、なぜこれほどまでに私を恐れる?


 その時、マクシムの視線が一瞬、私と、そして父王の間を、稲妻のように行き来した。

 彼の瞳の奥に、私と同じ、そして父王と同じ「既知」の色が明確に、しかし怯えと共に宿っているのを、私は見逃さなかった。


(なるほど。そういうことか)


 私は心の中で冷たい笑みを浮かべた。


 マクシムも、『生まれ戻った者』だ。


 あの宰相の息子が、私を処刑したマクシムが、ここにいる。そして、彼は、その時の記憶を持っている。


 逆行しているのは、私と父王だけではなかった。もっと、複数いる。


 私の燃え尽きていたはずの心に、また一つ、新たな火種が投じられた。

 それは絶望ではなく、ある種の冷たい興奮だった。

 この世界は、私が知る前世とは違う。


 そして、この新たな変数は、私の目的を、あるいは新たな復讐の形を、どう導いていくのだろうか。

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