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33 血と愛の終焉

 燃え尽きた灰色の午後だった。

 国の崩壊は、もう間近だった。城壁の外から聞こえる群衆の怒号は、まるで地を這う獣の唸り声のよう。

 ようやく全ての復讐が果たされるというのに、私の心は高揚することも、悲しむこともなく、ただ凪いだままだった。


 愚王である私に怒りを抱いた民衆は、反逆の旗を掲げ、革命軍と化していた。その混沌の波は、ついに城内へと押し寄せている。

 かつて私に媚びへつらった愚鈍な家臣たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出したが、いずれ彼らも新たな波に放逐されるだろうことは明らかだった。


 加えて革命軍を指揮しているのは、あの、私が斬首を命じた憎き宰相の息子だという。

 復讐の連鎖が、こうも皮肉な形で巡ってくるとは。戯曲の題材にでも相応しい歴史の一端にでもなることだろう。

 そこにあの男の醜聞を含められないというのは、少々悔しい。



 城内に残っているのはもう私と召使い、エディーのただ二人だけだった。

 私は玉座に座し、刻一刻と国が滅びていく音を聞いていた。

 遠くで響く人々の叫び、剣の交わる音、そして崩れ落ちる瓦礫の轟き。


 昔、それこそ母を失ったばかりの頃の私であれば、喜々としてこの終焉を鑑賞していたやもしれない。

 だが今となっては、喜ぶべきものなのか、悲しむべきものなのか、その境界線はあまりにも曖昧になっていた。


 エディーが、私の顔を窺うように、しかし決意を秘めた声で口を開いた。


「女王様。逃げましょう」


 彼の言葉に、私は静かに問い返した。


「どこへ逃げると言うの」

「どこへでも。僕が女王様をどこまでもお連れします」


 私はまるで愚かな戯言を聞いたかのように、嘲るように笑った。


「馬鹿なことを言うものね。逃げるなら一人でお逃げなさい」


 エディーには、もうどこへでも登用されるに値する十分な教養がある。私の庇護がなくとも彼は生き延びる方法がある。

 私は、彼を私のもとから遠ざけるべく、冷徹に告げた。


「何を言うのですか。僕は女王様のためにあるのです」

「私のためでなくとも、お前はもう一人で生きるに十分な素養を持っているではないの。私のためと言いながら、お前はすでに私のために存在する理由も意味もないのよ」


 突き放した私の言葉に、エディーの顔は悲痛に歪んだ。


「なぜそう仰るのです! 僕はっ……僕は女王様を愛しておりますのに! だから!」

 エディーの唇から絞り出された言葉は、私の心を深く抉った。

 その瞬間、私は全てを忘れて、この身を覆う高価な衣装も、玉座の冷たさも、崩壊していく国も、何もかも顧みずに、大泣きしながらエディーを抱き締めたいと、そう強く願った。


 私の心を乱すものは、すでに彼ただ一つだった。

 それほどまでに、彼の存在は私の魂に深く食い込んでいた。


 懇願すれば、きっとエディーは私と運命を共にしてくれる。この呪いに塗れた身を、一心に抱きしめてくれるだろう。


 だから、私は復讐の渇望さえも打倒しうる、唯一の光を退ける選択を選んだ。

 この感情を、私自身の汚れた血で穢すことだけは許せなかった。


「わからないようね」


 エディーを振り払うよう、私はピシャリと手のひらに扇を打って鳴らした。


「命じればいいのかしら。ならば命令よ。今すぐ私の前から去りなさい。そして二度と私の前に現れるのでないわ」

「そんな……っ」


 エディーの声は、喉の奥で潰れた。


 私の冷たい拒絶の眼差しに、とうとうエディーは謁見の間から立ち去って行った。


(……それでいい)


 目を閉じて、彼の行く末を案じた。

 それでいい。彼は私とは違う。

 この血に塗れた泥沼から、彼だけは抜け出すことができる。私の庇護がなくとも、彼は自らの力で生き、きっとこの国に必要な存在となるだろう。


 どうか、私のことなど忘れて、彼自身の輝かしい未来を築いてほしい。私のことなど忘れて、きっと幸せになってほしい。


 それは、まるで復讐の刃で、私自身の心臓を貫いた心地だった。


 そうしてみると私の心はもう何に対してでも動かず、革命軍が玉座の間に乗り込んできた時も、私は動じなかった。彼らの瞳に燃える憎悪も、汚れた手で剣を握る姿も、私には取るに足らないものに見えた。


「私を捕らえるつもりかしら?」


 微笑む私を見て、革命軍の指揮者は恐れおののいたようだった。

 呆気ない。最早私の心から水分という水分は全て枯れ果てたらしい。


 復讐が完遂された今、何の喜びも湧いてこなかった。ただ、何も感じない。


 私にはこれまで多くの者に強いてきたように、斬首が言い渡された。私に抵抗の意思はなかった。



 夜の闇が帳を下ろし始めた頃、牢の鉄格子が軋む音が聞こえた。

 革靴の硬質な足音が近づき、やがて目の前に止まる。そこに立っていたのは、見慣れた顔だった。革命軍を指揮する、あの憎き宰相の息子――マクシム。

 彼の瞳には、父親の復讐を遂げた者特有の、冷たい炎が宿っていた。


「……革命軍の指揮官殿が、何の用かしら」


 私の声は、牢の冷気にも負けず、穏やかな響きを持っていた。

 彼が私を見下ろす視線には、勝利者の傲慢と、囚人への侮蔑が入り混じっている。


 マクシムは不遜な笑みを浮かべた。


「この国の未来を見に来ただけだ。崩壊寸前の貴女の治世が、ようやく終わりを告げるのだからな」


 私は興味本位で、ふと尋ねた。

「それで、この腐敗しきった国を、これからどうするつもりかしら?」


 マクシムの顔から笑みが消え、彼は胸を張った。


「王政は廃止する。この国は、新たな道を歩むのだ。もはや貴様のような血にまみれた王族が、民を苦しめることは二度とない。」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心にまるで冷たい水を注がれたかのような、二度目の復讐が果たされた感覚が走った。

 父王の血にまみれた、あの忌まわしい王政が、ついに終わりを告げるのだ。

 私の復讐は、この国の崩壊と共に完遂される。


「私の召使いはどうなるの?」

「彼は優秀な人材だ。これから設立される議会の議員として、立派に務めを果たしてくれることだろう。貴女の案じるようなことではない」


 私は心の中でほくそ笑んだ。

 私が亡くなるこれから、この国の現状を最も理解しているのは彼だと、私は確信していたからだ。

 そして、彼ならば私が望むことを、いや、私が望むはずであったことを、必ず果たしてくれるだろうと信じていた。



 処刑日まで、そう長くはかからなかった。


 かつてエディーと出会った、あの薄汚れた広場に、大層立派な断頭台が設置された。

 処刑を望む民衆が、波のように広場を埋め尽くしている。彼らの憎悪に満ちた視線、呪詛を吐き出す唇。

 だが、その全てが、私が抱いた復讐心に比べれば取るに足りないもので、恐れようもなかった。

 私の心は、ただ空っぽだった。


 空は快晴で、雲一つなかった。

 清々しいと言うよりむしろ、私の心が何もなく空っぽである様を表しているようだった。皮肉なものだった。


 断頭台に首を固定され、冷たい木材が肌に食い込む。

 死はもう目の前なのに、それでも私は何も感じられなくなっていた。

 あらゆる感情が、私の内側から枯れ果てたかのようだった。



 ふと、視線を巡らす。

 憎悪に溢れる無数の視線の中、ただ一対だけ、嘆き悲しむ瞳を見つけた。


 エディーだった。

 二度と私の前に現れるなと命じたのに、彼はその命令に背いて、私の最期の場へと駆けつけてくれたのだ。


 その途端、私の脳裏にエディーとの日々だけが、走馬灯のように鮮やかに思い返された。

 彼が淹れてくれたハーブティーの香り。彼が飾ってくれた花の色。私だけに向けられた純粋な忠誠。


 彼は本当に私の望みを叶えてくれる。それが何よりも嬉しくて堪らなかった。


 この期に及んで、私は、愛する者の安否を案じ、ただその存在を待ち焦がれていた。愚かで醜い母と同じ情念に囚われていたのだ。

 私も所詮、愛に溺れる、哀れな女の一人に過ぎなかったのだ。



 母の幻影が、また見えた。

 歓喜か、嫌悪か。私の口元に笑みが浮かんだ。



「お母様。今、そちらに」

 ――ヒュッ。グシャ。

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