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32 魔女の秘薬

 翌日、私は再び森の奥深く、あの魔女の隠れ家を訪れた。

 朝靄が立ち込める薄暗い森は、相変わらず不気味な静寂に包まれていたが、もはや私を怯ませることはない。


 小枝が擦れる音を立てて戸を開けると、薬草の匂いがむっと鼻腔を突く。

 炉端では、相変わらず年老いた魔女が、何やら怪しげな薬草を指でより分けていた。


「また来たのかい」


 魔女は顔を上げずに言った。そのくぐもった声にはうんざりとした響きがある。

 しかし、私の足元からゆっくりと視線を上げた瞬間、その老いた瞳が見開かれた。


「…おや、あんた、その身なりは…」


 彼女は言葉を詰まらせ、手元から薬草を落とした。

 初めて会った時、私は惨めな浮浪児同然の姿で、ただ復讐の炎だけを燃やしていた。あの時、無理だと嘲笑った王族への復讐を、私が本当に成就させたのだと、魔女は確信したのだろう。

 まさか、と驚きと疑念が混じった視線が、私の装いを、そして私自身を射抜く。


 この魔女は、いつだって私に対し親身になろうとする。

 その魔女らしからぬ奇妙な振る舞いが、逆に私の気に障らなかった。利用しやすい、とさえ思っていた。


「それで、今度は一体何の用なんだい? また別の呪いが知りたいのかい?」


 魔女の手が、薬草の動きを止めた。


「魔女の秘薬が欲しいの」


  私の言葉に、魔女はハラリと手に持っていた薬草を床に落とした。

 乾いた葉が音もなく散らばり、静かな部屋に不自然な沈黙が広がった。


「何だって!?」


 その声は、今までの諦めにも似た穏やかさとは打って変わり、驚愕と、わずかな恐怖を含んでいた。


「あれが何なのか知っているのかい!?」


 魔女の視線が、初めて私を真っ直ぐに捉えた。

 その瞳には、長年の知恵と、そして懸念の色がにじんでいる。


「知っているわ。女の胎を、永久に枯らす薬でしょう?」


 私は平然と答えた。

 それが、いかに恐ろしい選択であるか、全てを理解した上でここにいる。


「知っていて……誰に使うつもりだ!?」


 声がわずかに震えている。魔女がここまで動揺する姿を見るのは、初めてだった。



「私が飲むのよ」



 そう告げると、魔女は絶句した。

 その老いた顔から、みるみる血の気が失せていく。


 魔女は、まるで目の前の私が自滅しようとしている幼子であるかのように、必死に首を振った。


「だめだだめだ。あんなものは渡せない」

「どうしても欲しいのよ、私は」


 私の声には、一切の揺らぎがなかった。

 昨日、私を奈落へと突き落とした感情から逃れるために、これしかないと決めていた。


「あんたはまだ若い。やり直せるチャンスがあるんじゃないのか? 何もあの薬を使わずとも」


 優しく諭す魔女の姿は、私にとってはおかしなものだった。魔女が、何の利もなしに人を気に掛けるだなんて、変なものだ。

 けれど、私の決意もまた、揺るがぬ岩のように固い。


「やり直す?  この忌まわしい血脈を、これ以上繋ぐというの? エディーに、母の二の舞を踏ませろ、と?」


 私は冷酷に言い放った。


(この身に抱いている感情が、どれほど汚らわしいか、魔女にはわかるまい。私は、あの父王の血が引き起こす肉欲にまみれた醜態を、私自身がエディーにぶつけることを恐れている。そして、その結果生まれた子が、あの呪われた王家の血を宿すことなど、断じて許せない)


  私の声は、もはや感情を含まない、冷たい鋼鉄のようだった。

 目の前の魔女が、私の真の目的を理解しているのかは知らない。


 だが、私が命令すれば、あの従順な召使いは、身も心も私に差し出すだろう。その先に待ち構えているものは、私にとって空虚なものでしかないと、昨日、私は嫌というほど知った。

 空虚なままでいい。二度と、あの忌まわしい血の鎖に囚われるものか。


「だからこそ、私にはこれが必要なのよ。どうしてもくれないと言うのなら、この森を焼き払うわ。私の軍は、この城の周囲を常に警戒している。私の命令一つで、この木々も、あなたの隠れ家も、全てが灰燼に帰すでしょう」

「なんてことだ」


 魔女は呆然と呟いた。

 その目に宿っていた知恵の光が、絶望に掻き消されていく。

 彼女は、私がここまで感情の底に沈んでいるとは思っていなかったのだろう。


「早く」


 私は苛立ちに、机を指で叩いて催促した。乾いた音が、ひび割れた心をさらに苛む。

 魔女はのろのろとした動きで、作業台の奥から、小さな薬瓶を取り出した。

 日の光を吸い込んだかのように、深紅にきらめく液体。その色だけは、見る者を魅了するほどに美しかったが、それがどれほど危険なものかを、私には雄弁に語っていた。


「やっぱり考え直した方が……」


 ここまで来てまだ説得しようとする魔女の手から、私は有無を言わさず薬瓶を奪い取った。冷たいガラスが指に触れる。


 躊躇など、どこにもなかった。

 私はそれを、まるで水を飲むかのように、一気に喉の奥へ流し込んだ。

 灼熱の痛みが食道を駆け下り、腹の底で燃え上がる。全身の細胞が、歓喜するように、あるいは悲鳴を上げるように、熱を帯びていく。


「ああ、もう取り返しがつかない……!」


  魔女の声が、遠くで響く。もう、私には聞こえない。

 その瞬間、私は知った。

 私は、生涯子供を孕めぬ体になった。そして、私を蝕んでいた血の呪縛から、ようやく解放されたのだと。



 魔女の秘薬を飲み干した後、私の心はどこか透明になったようだった。

 あれほど激しく私を苛んだ自己嫌悪の嵐が、嘘のように鎮まったのだ。

 これで、あの父王から受け継いだ醜悪な血が、エディーという純粋な存在を穢すことはない。その確信が、私に穏やかな安堵をもたらした。


 決して私の心をエディーに明かすことができなくとも、エディーは唯一私のものであることに違いなかった。


 私はこれまでと同じように日々を過ごした。

 朝、目覚めれば彼の立てる微かな足音が聞こえ、執務中は常に視界の端に彼の姿があった。彼が淹れるハーブティーの香りに包まれ、彼が選んだ花に彩られた書斎で書物を読む。

 その何気ない瞬間こそが、私にとっての至福の時間となっていた。


 もし私に幸せというものが存在するのならば、それは彼の隣にあるのだろう、と馬鹿げたことまで考えるほどに、私はエディーに深く、そして静かに心を寄せていた。



 そうして幾数ヶ月が過ぎた、ある晴れた日のこと。

 玉座の間には、午後の光がステンドグラスを通して差し込み、色とりどりの模様を床に描いていた。その穏やかな光とは裏腹に、私の心は凍てついていた。

 そこへ現れた宰相は、油で磨き上げたかのような滑らかな笑みを貼り付け、恭しく頭を垂れた。


「今日は何用か、宰相」


  私の声は、感情の読めない平坦な響きを持っていた。

 宰相は、慣れたように顔を上げ、手に持っていた古びた絵姿を私に見えるように傾けた。


「は。本日は、陛下に喜ばしきご縁談がございましたので、ご報告に参じました」


 彼の言葉は、まるで長年染みついた土埃のように、私の耳にまとわりつく。


「こちらは隣国の王弟殿下でいらっしゃいます。眉目も麗しゅう、女王様のお眼鏡に敵うでしょう。いかがですかな?」


 宰相の声は、依然として油断のように滑らかだった。

 絵姿には、整った顔立ちの若き男が描かれている。私からすれば、ただの取るに足らない男だ。

 しかし、その顔立ちを目にした途端、私は腰のナイフの柄を、無意識のうちに強く握りしめていた。刃が指に食い込む感覚だけが、私の中にくすぶる怒りの存在を教えてくれる。


 私の前でにんまり笑う宰相の顔が、憎悪をかき立てた。


 この貴族どもは知っていたのだ。あの「賢王」と持て囃された父が、その実、どれほど醜い色欲の獣であったかを!

 全てを知りながら、己の保身のためだけに沈黙を守り、腐敗に加担した下劣な輩どもめ。その唾液で汚されたような顔が、私の目の前で、再び王家の血を汚そうとしている!


 私の胸の奥では、まるで溶岩のように熱い塊が膨れ上がっていた。

 私の心は、既に他の誰のものでもない。

 あの日、浮浪児だったエディーを拾い上げて以来、彼の純粋な忠誠と、私だけに見せる柔和な瞳が、私の全てを絡め取ってしまった。


 父王のような醜悪な存在とは違う。私は、エディー、ただ彼だけに心を誓っている。


 この縁談は、私への侮辱だ。

 だが、それ以上に、私の内側に深く沈んでいた復讐の炎が、再び猛り狂う業火となって燃え盛った。

 この者たちは、私を父王と同じ「血」で縛りつけようとしている。あの忌まわしい血の鎖を、再び私の首に巻き付けようとしているのだ。


 私の喉から絞り出された声は、私自身が驚くほどに凍てついていた。


「愚弄するか、宰相! その汚らわしい絵姿を、今すぐ目の前から消せ!」


 私の咆哮に、宰相は青ざめて絵姿を落とし、慌てて後ずさった。

 玉座の間の空気は、私の怒りで一瞬にして凍り付く。


「二度と、私の前にその醜い面を見せるな! 失せろ!」


 私は、もはや彼を見るのも嫌で、顔を背けた。

 宰相は命からがら玉座の間から逃げ去るように駆けていった。


 扉が閉まる音を聞くと、全身から力が抜け、私は玉座の背にもたれかかった。

 肩で大きく息をする。胸の激しい動悸が、まだ怒りが収まっていないことを告げていた。額には冷たい汗が滲んでいる。



 どれほどの時間がそうして過ぎたか、私には分からなかった。

 ただ、全身の震えがようやく落ち着き始めた頃、私はゆっくりと顔を上げた。


「……誰か」


 私の声は、先ほどの怒鳴り声とは打って変わり、酷く静かだった。

 謁見の間には、すぐに新たな兵士の足音が響く。


「宰相の首を斬りなさい。口答えは許さなくてよ」


 私の言葉に、兵士たちは無言で、しかし確固たる忠誠を瞳に宿し、玉座の間を後にした。

 その背を見送りながら、私の心は再び凍てつく静寂を取り戻していた。

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