表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/44

31 歪んだ福音

 私はあの浮浪児を王宮へと連れ帰った。

 御者は狼狽していたが、私の絶対的な命令に逆らえる者はこの城にはいない。私は彼を、私の召使いとした。


 彼に名前はなかったので、エディーと、私が名付けた。


 エディーは実によく働いた。物覚えが早く、教えられたことはすぐにこなした。


 私は彼に、召使いに必要と思われる以上の読み書きや教養を与え、その知性を伸ばさせた。政治の手腕も、食事のマナーも。

 私が学び得ているものと同等のものを与えた。



 私は彼を、自身の復讐計画の「駒」として育て上げるつもりだった。彼の純粋な勤勉さは、疑いを持たずに命令に従う「道具」として、この上なく都合が良い。そう思っていた。


 エディーは私の指示をいつも完璧に理解した。

 他の使用人たちが私に近づくことすら躊躇う中で、彼は臆することなく私の側にいた。

 彼の動きには無駄がなく、常に私の視線を追い、私が何を求めているかを瞬時に察した。

 私が言葉にする前に、私の求めるものが差し出されることさえあった。


「女王様、本日は少しお疲れのご様子とお見受けいたします」


 ある日、私が書物を読み終え、軽くため息をついた時、エディーがそう尋ねてきた。

 その声は静かで、私の心を正確に読んでいるかのようだった。


「……そう見える?」


 私は思わず、微かに顔を上げた。

 これほどまでに私の状態を言い当てた者はいなかった。


「はい。もしよろしければ、このお茶はいかがでしょうか」


 彼は、私が好むハーブティーを差し出した。湯気からは甘く心地よい香りが立ち上っている。

 私は無言でエディーを見上げた。

 なぜわかったのか。無言の問いかけに、エディーは澄んだ目で私を見つめた。


「いつもお側にお仕えしておりますから。女王様のお考えも、お気持ちも、僕にはわかります」


 エディーの真っ直ぐな忠誠心は、私の予想をわずかに超えていた。

 彼の瞳は、私を、疑う余地のない絶対的な存在として映しているようだった。


 彼は私の望んだように、私にだけ従順だった。私の命じるままに動き、私の言葉をただ信じた。

 他の者には見せない、警戒心を潜めた表情も、私に向ける時には柔和に緩んだ。

 私を怖れるどころか、その瞳には純粋な忠誠と、私への深い信頼が宿っているように見えた。それは、これまで誰からも向けられたことのない感情だった。

 いい拾い物をしたものだと思った。これこそ、私が求めていた絶対の味方なのだと。



 私は常にエディーを側に置くようになった。朝の目覚めから夜の就寝まで、彼は私の影のように付き従った。

 食事の給仕、書物の準備、散策の付き添い……私の身の回りの世話の全てを、彼が担った。これまで持ち得なかった真の従者を手に入れて、私は歪んだ喜びに深く酔いしれていた。

 私にとって彼は、最高の玩具であり、完璧な道具だった。


 時折、エディーが部屋に飾る花の香りが、私は好きだった。

 彼はいつも、私の気分を察してか、心地よい香りの花を選んでくる。その香りに包まれて読書をすることが私の習慣となっていた。

 それは、殺伐とした私の心にとって、唯一の平穏をもたらす、心が落ち着く時間だった。

 彼が選び、飾る花。その香りさえも、私にとって心地よいものだった。



 ある日、私は一冊の書物を読み終えた。

 もうこれ以上、その内容を読み込む必要はない。


 ふと視線を上げると、そこにはいつものようにエディーがいた。

 彼は何も言わず、ただ静かに私の隣に控えている。


 気紛れだった。

 私は読み終えたばかりのその本を、彼に与えた。


「読んでおくといいわ。私の下僕なのだもの。それに相応しい教養でも身につけなさい」


 エディーは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに恭しく本を受け取った。


 次の日から、エディーはまるで飢えた獣のようにその本を読み耽った。

 夜遅くまで灯りがついているのを知っていたし、書物を開く音が聞こえてくることもあった。わずかな休憩時間も惜しんで勉強したことは、日に日に濃くなる彼の目の下のクマから容易にわかった。

 そして、彼は私が意図的に進めるこの国の腐敗、すなわち私の「悪政」の真の意味を、驚くべき速さで理解していった。


「何か、疑問にでも思ったかしら?」


 私の問いかけに、エディーははっと顔を上げ、すぐに姿勢を正した。


「……いいえ、女王様。ただ、女王様のなされていることが、まるで……」


 彼の瞳の奥には、困惑と、しかしそれを乗り越えようとする知的な光が宿っていた。

 彼は、私が何をしているのか、その本質に触れ始めている。

 私は、口元に薄い笑みを浮かべた。


「それでいいのよ」


 私の言葉に、エディーの顔からは疑惑の念が消え、さらなる忠誠の色が浮かんだ。

 彼は、私の全てを受け入れた。

 この時、私は、彼が単なる「道具」ではない、私の魂の片割れとなり得る存在であると、漠然と感じ始めていた。



 エディーはそれからも、私の要求にことごとく応え続けた。

 私の命令は、神の啓示とでも取られているようであった。


「必死なものね」


 嘲るような響きを込めて言った。

 もちろん、その言葉の裏に、わずかな称賛が隠されていたことに、彼が気づくはずもない。


  エディーは、はにかんだように微笑んだ。

 その表情は、私が見慣れた彼の従順な顔とは少し違って、どこか幼く、純粋だった。


「女王様のお役に立ちたいですから。僕は女王様のためだけにありますから」


 その言葉が、私の耳に、そして心の奥底に、雷鳴のように響いた。

 その瞬間の衝撃に、私の思考は停止した。


 次に視界に飛び込んできたのは、憎悪の底に沈んでいたはずの、あの顔だった。――母親の幻影。


 あの惨めな女のようにはなるまいと、私は誓ったはずだった。他人に、ましてや男に、決してすがらないと。

 父王の無謀な要求に、ただ従順に応じ続け、最後は心を病んで朽ちた母の姿が、純粋に私を慕い、自ら「私のためだけに」と語るエディーと重なって見えたのだ。


 父は、私の母のような弱い人間を、自身の欲望のままに操り、食い潰した。

 そして今、私の心に湧き上がるこの感情は、私が憎んだ父と同じ、目の前の自分より弱い存在を、自身の思うがままにしたいという醜い欲望なのか? 父王の血が流れる私の、根深い汚らわしい本性なのか?  エディーを、私が母と同じ悲劇に引きずり込もうとしているのではないか?


「下がってちょうだい……」


 私の声は、ひどく震えていた。

 感情が、喉の奥にせり上がってくるようだった。


「え?」


 エディーは困惑の声を漏らした。

 彼は、私の突然の感情の爆発に、どう反応すべきか戸惑っているようだった。


「一人になりたいのよ。早く下がって」


 私は、自分でも制御できないほど震える声で、彼を部屋から追い出した。

 狼狽しながらも、エディーは素直に部屋から退出した。


 扉が閉まる鈍い音が、私の内側で鳴り響く混沌と呼応する。


 私はふらふらと寝台に歩み寄り、今朝彼が整えたばかりのシーツに力なく身を投げ出した。

 肌に触れる柔らかな感触。シーツに残る微かな人の温もり。埃一つない清潔さ。

 その全てが、彼の手によるものだと、私の全身が拒絶する。


 寝台の傍らには、エディーが飾ったばかりの瑞々しい花々が、甘く優しい香りをあたりに満たしていた。

 数刻前まで飲んでいたアフタヌーンティーの残り香も、微かに鼻腔をくすぐる。

 城のどこにいても、私の身の回りには彼の「痕跡」がある。

 それはもはや、ただの召使いの仕業ではない。私の日常の、隅々にまで彼が浸透している。


 その全てが、私を縛り付ける鎖のように思えた。

 嫌悪ではない。むしろ、もっと、もっとと、魂の底から湧き上がるような、底なしの渇望を生み出す。


 けれど、同時に、彼の存在が、私の内に蠢く醜悪な血の呼び声を、これ以上ないほど鮮明に突きつけるのだ。



 私は天井の闇を見上げた。

 視界の端に、かつて私が閉じ込められていた、埃っぽい冷たい部屋の残像がよぎる。


 あの時、私は自由と力を渇望した。復讐のために、全てを手に入れると誓った。

 だが、その力の果てに、私は何を掴もうとしている? 憎んだ父と同じように、誰かを支配し、食い潰すことなのか? そして、母がそうであったように、誰かに縋り、惨めに愛を乞うことなのか?


「うわぁあああああ!!」


 私は枕に顔を押し付けて泣いた。

 声は枯れ、喉は引き裂かれるようだった。

 母を亡くし、世界を憎んだあの日でさえ、これほどまでにみっともなく、情けない声を上げたことはない。

 こうして私が嘆き悲しむ時、慰め、寄り添うのはエディーの役目であるはずなのに、今、その存在が何よりも私を苦しめる。


 彼の純粋な瞳に、この醜悪で、制御不能な感情を見せることなど、私にはできなかった。私が彼を欲するこの感情は、あまりにも穢れており、彼を汚すに足るものだと、全身で理解していたからだ。


 私はこの世を恨んだ。

 あの男に復讐を誓った時以上の、言いようのない絶望が私の心を蝕んだ。

 それは、ただ復讐を誓っただけでは癒えぬ、血に根差した呪いのように感じられた。


 喉の奥は、泣きすぎてガラガラに枯れていた。

 全身の震えが止まらない。それでも、その震える唇が、私自身の耳元で、誰も聞くことのない呪詛のように、あるいは懺悔のように、真実を囁いた。


 そして、その絶望の淵で、私は震える声で独りごちた。



「……エディーを、愛してしまったのだわ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ