29 玉座の血と、黒き王女
噂の森は、街の外れに広がっていた。王宮の庭園とは比べ物にならないほど、手入れもされていない、荒々しい森だった。
鬱蒼と茂る木々、絡み合う蔦、足元に広がる泥濘。迷わないはずがなかった。
しかし、私の心には、迷うことなど一片もなかった。あの男への復讐という、灼熱の炎だけが私を突き動かしていたからだ。
どれほどの時間が経っただろうか。日が昇り、そしてまた傾く。
腹は減り、喉は渇き、足は鉛のように重かった。それでも、私は歩き続けた。
魔女のいる場所は、私の牢獄よりもましだという、漠然とした確信だけが私を支えていた。
そして、薄暗い森の奥、朽ちかけた木々の間に、簡素な小屋を見つけた時、私の足は自然と速まった。
小屋の入り口には、いかにも年老いた老婆が立っていた。しわだらけの顔に、見る者を射抜くような鋭い目。
いかにも魔女といった風貌で、私を見つけると、彼女は気味の悪い笑みを浮かべた。
「イッヒッヒ。お嬢ちゃんが、この魔女に用があるのかい?」
わざと私を怖がらせる口振りだった。並みの人間であれば、その声に竦み上がり、逃げ出したくなるだろう。
だが、私には怖れるものなど何もなかった。命を捨てる覚悟で、私はここまで来たのだから。
私の内には、恐怖を凌駕するほどの憎悪が燃え盛っていた。
怯える気配がないどころか、表情を微塵も変えない私に、魔女は気味の悪い笑みを引っ込めた。
「……訳ありのようだね。お入り」
魔女の言葉に、私は迷わず小屋へと足を踏み入れた。
中は薄暗く、薬草と古木の匂いが混じり合っていたが、それでも、あの王宮の牢獄のような部屋よりは、はるかに居心地が良く感じられた。
魔女は私に背を向け、薬草の束をかき混ぜながら、不意に低い声で呟いた。
「それで? その棒切れのような足で、こんな森の奥までやってくるとは余程の覚悟なんだろう。一体何用だい?」
「誰かを『呪う』方法を知りたいわ」
私の冷淡な声に、魔女はその瞳に驚きの色を携え、私に振り向いた。
一瞬の静寂の後、再びあの気味の悪い笑みを浮かべた。
「呪う? お前みたいな小娘が、一体誰を呪いたいって言うってんだい?」
彼女の声には、心底から信じていない、あるいは私を試すような響きがあった。
私は動じることなく、まっすぐ彼女の目を見据えた。
「王を殺すのよ」
魔女の笑みが、その顔に張り付いたまま硬直した。
そして、堰を切ったように腹を抱えて大笑いした。小屋全体が振動するほどのけたたましい声だった。
「こいつはたまげた! 反逆でもしようってのかい!? お前のような小娘一匹、王を殺して何になる!?」
彼女は笑いながら、私を嘲るように問いかけた。
その嘲笑は、私が王宮で何度も向けられてきた、無力な存在への侮蔑の視線と何ら変わらなかった。
だが、私はそこで終わらせるつもりはなかった。
「あなたは、憎くはないのか」
魔女は何も言わない。しかし、その沈黙は肯定以上の何かを物語っていた。
彼女もまた、私と同じような境遇を辿り、そして、何かを諦めたのだろう。
「こんなところに追いやった連中に復讐しようとは思わないのか。ただ、己の境遇を慰めて終わる人生にするのか」
「……」
「私は違う。寵愛を求めるばかりで、自分の足で生きない者にはならない。己が王宮に生み落とした鼠の声も聞き取れないような、そんな王にはならない」
私の言葉に、魔女はゆっくりと私を見つめ直した。
私の正体を察したのだろう。彼女は、再び笑った。だけど、その笑みには先ほどと違って、嘲笑の色はなかった。むしろ、興味と、わずかな挑戦的な光が宿っていた。
「呪いはね、お嬢ちゃん。単なる言葉や道具で成り立つものじゃない。呪いの真の原料は、術者の深い憎悪と、対象への絶対的な執着だよ」
魔女はそう言うと、私の心を射抜くような視線を送った。
「必要なのは、ただそれだけだ。一切の媒介は不要。あんたの魂の底から湧き上がる怒りを、寸分の迷いもなく叩きつける。そうすれば、呪いは必ず届く」
彼女の言葉は淡々としていながら、確かな力を帯びていた。
媒介は不要だと? そんな馬鹿な。
しかし、私の憎悪の深さ、この執着の強さ。王宮の誰にも、この魔女にさえ、決して理解できないほどの、純粋で、狂おしいまでの憎しみ。もし、呪いが本当に『思い』だけで成し遂げられるものならば、この私にこそ、それができるはずだ。
私の心を蝕んでいたはずの感情が、今、私を救うための武器になり得る。その可能性に、私の胸は密かに高鳴った。
しかし、魔女の目は、依然として私を試すような色を宿していた。
「だがな、お嬢ちゃん。呪いは、誰にでも成就できるものではない。私ですらそれはできない。果たしてお嬢ちゃんにそれを成し遂げられるか」
どうせできまい、と魔女の瞳は語っていた。
だが、その言葉は、私にとっては最高の燃料だった。
この憎悪の深さ、この執着の強さ。誰にも理解できないと、誰にも敵わないと、私は知っている。
魔女の教えを受けた私は、王宮へと戻ると、早速あの男……父王に対し呪いをかけた。
魔女の言葉が脳裏に蘇る。「必要なのは、思いだけ」。
私は、全身の血液が煮えたぎるほどの憎悪を滾らせ、父王の存在そのものへ向けて解き放った。私の内なる怒りが、具体的な形を持たず、しかし確かな力となって、父王へと流れ込んでいくのを感じた。
その瞬間、私は理解した。
この身を焦がす憎悪そのものが、私にとっての最も強靭な武器であり、尽きることのない呪いの薪なのだと。この自覚を得た時、私の怒りと憎しみの炎は、もはや制御不能なまでに燃え盛った。
その日から、あの男の生気は、まるで枯れる花弁のように急速に失われていった。日を追うごとに肌には土気色が差し、かつて傲慢に響いた声は、意味のない呻きへと変わっていく。
侍従たちが慌ただしく医者を呼び、病が重いと騒ぎ立てる声が遠く聞こえたが、私には何の意味も持たなかった。
ただ憎悪の炎が、ゆっくりと、しかし確実に、その男の命を焼き尽くしていく様を、冷めた目で観察するだけだった。
そしてある日、王宮に鳴り響いた悲痛な鐘の音が、父王の死を告げた。
呆気ない幕切れだった。あれほどまで憎み、復讐を誓った男が、私の『思い』一つで、こんなにも簡単に、塵となって消え去る。
憎しみの対象が、自らの手で、こんなにも容易く消え去る。
父王が死んだ時、私は誰にも聞かれることのない部屋の隅で、声もなく高笑いした。私の心には、歓喜の波が押し寄せた。
だが、これで終わりではない。
あの男のもの全てが憎いのだ。あの汚れた血も、あの男が築き上げたものも、何もかも全て。私は呪いをかけ続けた。
まずはあの男の一番の宝とやらだった後継、傲慢なまでに己の血筋を絶対と信じていた第一王子だ。彼にも、私はためらうことなく呪いをかけた。呪いは再び成功し、父王と同じく、生気を吸い取られるように衰弱し、息絶えた。
愉快だった。
私は、まるで毒に侵された蟲を眺めるかのような冷徹さで、彼らが崩れ落ちる様を見守った。
なんて素敵なのか。私はすっかり復讐とやらの味を占めてしまった。
私の手にかかれば、この世の秩序など簡単に歪められる。
第二王子、すなわちアレクシスは戦場で死んでいった。世間は彼の無能が招いた不運だと囁いたが、その影で彼を確実に蝕んでいたのが私の呪いだと知っているのは、私一人だけだった。
その次に可愛がられていた王女にも、私は容赦なく呪いをかけた。彼女は熱病に倒れ、見る間に衰弱して命を落とした。
第三王子は、私が呪いをかけるまでもなく、権力争いの泥沼で勝手に死んでくれたではないか! 王位を巡る貴族たちの陰謀に巻き込まれ、毒殺されたのだ。まるで、私の復讐劇に合わせるかのように、この国の王族たちは自滅していった。それは私にとって、この上ない喜劇だった。
私は狂喜で震えた。私の心は、燃え盛る炎のように熱く、充足感に満ちていた。
私には何もないと、この世界で最も無力な存在だと、そう思い込まされていた。誰からも見向きもされず、ただ捨て置かれるだけの存在だと。
だが、私の中に確かにあったのは、誰にも消し去ることのできない、業火のような憎悪だけだった。
そして、それこそが、私の全てだったのだ。
けれど、私はあの男から奪うことができた。母と私から全てを奪ったあの男に報復できたのだ。
笑いが止まらなかった。私の手のひらの上で、全てが崩れ落ちていく感覚は、何物にも代えがたい快感だった。
気づけば、私は父王の血族を、余すことなく、私以外全て絶やしていた。それは、決して偶然などではなかった。
この手で、この『思い』で、確実に彼らの命を奪い尽くしたのだ。あの汚れた男のものは何一つ残すつもりはなかったから、当然の結末だ。
だが、そうすると国としては困ったものらしい。
王位継承者がいなくなり、このままでは国の存続が危ういと、貴族たちが騒ぎ立てる声が聞こえてくる。幾度も城に貴族の馬車が慌ただしく往復しているのを見かけた。その様子は、まるで迷い込んだ蟻の群れのようだった。
王がなくては国が成り立たないとは笑わせてくれる。
腐りきった秩序と、無能な血筋が、この国をここまで歪めたのだ。
私は窓から数々の馬車を見下ろして嘲笑った。彼らは、目の前の事態に慌てふためき、誰か「王」という記号を欲しているだけだ。
そうしてあくる日、私の部屋の扉が叩かれた。
そこに現れたのは、国の宰相だった。残った王族は最早私のみであるから、私に即位を促しに来たのだ。彼の顔には、必死な懇願の色が浮かんでいた。
その時、私は胸中でほくそ笑んだ。
そうだ。私はまだあの男から奪い損ねたものがある。この国を、私はまだ手にしていない。
この腐りきった国を、私の支配下に置く。血族を殺し尽くした次は、あの男が築き上げたこの腐敗した国そのものだ。このすべてを私の支配下に置き、私の理想とする秩序を構築する。
これこそが、私の復讐の、真の成就となるのだ。