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28 憎悪の根

 私の生は、祝福されたものではなかった。


 王族として生まれたはずなのに、与えられたのは王宮の片隅にある、埃っぽい冷たい部屋だった。

 窓はいつも薄汚れて陽光を遮り、破れたカーテンが僅かな隙間風を招き入れる。夜ごと、分厚い毛布もないままその寒さに身を丸め、凍える体を抱きしめるだけだった。


 食事は、下級の女中たちが無言で置いていく残飯のようなものばかりで、まともとは言えない。遠くの広間からは、腹違いの兄弟たちが温かい食卓を囲み、笑い合う声がかすかに届いた。

 その声が、私の冷えた皿の上の僅かなカビたパンを、一層惨めなものに感じさせた。


 王女であるにも関わらず、空腹と寒さ、そして何よりも愛情の飢えに震える夜を知っていた。

 豪華絢爛な宮殿のどこかに、私という存在のための場所があるはずだと、幼い頃は夢想したものだが、それはすぐに打ち砕かれた。


 私に向けられるのは、侮蔑か、あるいは哀れみすら含まれない無関心ばかりだった。

 使用人たちは、私に声をかける際も決して目を合わせず、まるで汚れた物でも扱うかのように、最低限の義務を果たすだけだった。

 彼らの冷たい視線が、私自身の価値のなさを、幼い私にまざまざと突きつけた。


 父王は、私の存在を顧みなかった。

 私は、王宮の華やかな行事からも疎外され、父王の顔を直接見る機会さえほとんどなかった。まるで、最初から存在しないかのように扱われる日々。

 その日々の全てが、私を蝕み、心の奥底に澱のように溜まっていった。



 そして、その最も忌まわしい記憶は、母親の姿だった。

 私の母親は、元は王宮の下働きに過ぎない女だった。父王の手つきとなり、私を産んだが、その頃には父王は母親に関心を失っていた。

 父王には何人もの妾がおり、母親はそのうちの一人に過ぎなかった。興味を失われた身分もない妾は、もはや王宮の塵も同然だった。


 何の後ろ盾もない母親は、父王の寵愛を失ったことで、心の拠り所をなくし、日々ただ嘆き悲しむばかりだった。


「陛下……陛下……」


 母親は死の瞬間まで、私の顔を一瞥することもなく、ひたすら父王の名を呼び続けた。


 病の床で痩せ細っていく母の手を握っても、その視線は虚空を彷徨うばかり。

 幼い私は、母からの愛情を切望する一方で、自らの境遇を変えようともせず、ただ父王の寵愛だけを求める母の姿に、深い失望を抱いた。まるで、自分自身が母の苦しみを引き継いだかのように感じられ、その無力な姿が、私の心に澱のように溜まっていった。


(この母は、なぜ自ら立ち上がらない? なぜ、他者に依存し、ただ嘆くだけなのか)


 幼い私の心は、飢えと孤独、そして満たされない愛情の中で、次第に硬く、冷たくなっていった。

 やがて、その冷たさは深淵へと繋がり、私の中の人間らしい感情を全て凍てつかせた。

 残されたのは、世界への凍てつく憎悪と、全てを計算し尽くす冷徹な知性のみ。私は、自らの意思で、人の形をした『悪』となる道を選んだ。


 私には他者にはない知性があった。それは、物事の本質を見抜く、冷徹なまでの洞察力だった。

 与えられたわずかな書物や、耳にする王宮の噂話から、そして王都の貧しい地区から漏れ聞こえる人々の嘆きを、私はただの情報として受け取るのではなく、この国の病巣、腐敗した構造として正確に分析した。

 民衆は税に苦しみ、スラム街は肥大化し、一部の貴族は私腹を肥やすばかり。

 そして、最も忌むべきは、その現状を「仕方がない」と甘受し、あるいは見て見ぬふりをする、他の王族や貴族たちの無関心と傲慢さだった。


(彼らは、この国の真の姿を知ろうともしない。知っていても、自分たちの贅沢を守るために、民の苦しみを踏みつける。その無関心と傲慢さこそが、この国を内側から食い潰す真の毒なのだ。私の母のように、ただ嘆くだけの愚かさで、この国を蝕んでいる)


 私の心に、深い憎悪が芽生えた。それは、自分を虐げた個人への恨みだけではなかった。

 この国を、そして自分を「忘れられた存在」にした、腐敗したシステムそのものへの怒り。

 そして、自立せず、ただ他者に依存して朽ちていった母親の姿が、その憎悪の奥底に常にあった。



 母親は間もなく死んだ。

 当然のように父王は一度も見舞わなかったし、葬儀にすら来なかった。私の心には、その行いを薪として、激しい怒りが燃え上がっていた。


 父王の中の私の価値は、王宮に棲む鼠と同価値だった。


 惨めな棲家に、僅かな食料。そして微かに耳に入る雑音だけが、私の知恵を伸ばした。

 あの狭い牢獄のような部屋で、私はひたすら考え続けた。

 どうすれば、この無様で腐りきった世界を変えられるのか。どうすれば、あの男に、そしてこの国全体に、私と同じ絶望を味合わせてやれるのか。


 その答えは、絶望の淵にあった私にしか見つけられなかった。

 この病んだ世界を根こそぎ変えるには、私自身がその『病原』となり、一度全てを焼き尽くすことでしか、新たな、より公正な世界は生まれないのだと。


 誰かの囁き声を拾うことは、もはや癖になっていた。王宮の隅で、私は耳を澄ませ続けた。

 あの日もそうだった。開け放たれた窓から、兵士たちの他愛ない噂話が風に乗って聞こえてきた。


「聞いたか?魔女の噂」

「聞いた聞いた。あの街外れの森に住んでるってやつだろ?魔女の呪いで関門のやつらがことごとくぶっ倒れたってやつ」

「そうそう。どこもその、『人に不幸をばらまく魔女』の噂で持ちきりだよな」


 私はあの日盗み聞いた噂話を、鮮明に思い出した。

  父王のことは殺してやりたくて堪らない。だが、こんな鼠のような小娘一匹、ナイフを持ったままでは近寄れもしない。城の護衛は厳重で、私のような存在が近づくことなど、夢のまた夢だ。


 だから、『呪う』ことにしたのだ。

 それが、唯一の道だった。私に残された、唯一の復讐の手段。

  王宮の冷たい石壁に囲まれながら、私は胸の内で冷たくほくそ笑んだ。


 私は迷わなかった。元より存在しないものとして扱われる私だ。城の者たちが私の部屋に目を向けることなど皆無だった。

 夜闇に紛れて城を抜け出すことなど、私にとっては息を吸うよりも容易いことだった。

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