26 歪み始めた舞台
期末試験が終わり、学園内は期末パーティーの話題で満ち溢れていた。
開放感と高揚感が生徒たちを包み込み、誰もがドレスの準備やパートナー選びに浮足立つ。あちこちで楽しそうな声が弾け、華やいだ雰囲気が漂っていた。
そんな喧騒の中、あたしはヘンドリック様に中庭に呼び出されていた。
彼の顔はいつになく真剣で、その視線には、周囲の賑わいとはかけ離れた、張り詰めた緊張が宿っていた。
「あの……ヘンドリック様、どうかされましたか?」
彼のただならぬ様子に、あたしの声は自然とひそめられた。
ヘンドリック様は一呼吸置くと、あたしの目をまっすぐに見つめた。
「学内パーティーのことなんだが……もし、君の予定が空いているなら、私の、パートナーになってくれないか?」
彼の言葉は、以前の夜会への誘いとは比べ物にならないほど、真剣な響きを持っていた。そのエメラルドの瞳には、確かな決意と、わずかな不安が揺らめいている。
彼の差し出す手が、ただの形式ではない、あたしを守ろうとする強い意志を宿しているのが見て取れた。
先日ヘンドリック様から明かされた『生まれ戻り』の事実、そしてルイーズ様が『前の世界』でこの国を地獄に変えたという告白を思い出していた。
あの夜以来、あたしの中で世界の景色は一変した。
ここは、もう、ゲームの世界などではなかった。
あたしの中で、これまであたしが接してきたルイーズ様と、ヘンドリック様が語る彼女の姿は、いまだに乖離したままだった。ルイーズ様の冷たい美しさの奥に、彼が語る『地獄』を結びつけることはできない。
それでも、彼は本心からルイーズ様のことを恐れ、あたしを心から守ろうとしてくれている。
その気持ちを無下にはできなかった。
「はい……喜んで。ヘンドリック様のパートナーを務めさせていただきます」
あたしは迷いなく、彼の決意を受け止めるように、真っ直ぐに彼の瞳を見返した。
ヘンドリック様の顔に、安堵の表情が広がった。
パーティー当日。あたしはフィオナの部屋にいた。
「ほら、コレット、これがあなたのために誂えたドレスよ!」
フィオナの声が弾む。
彼女が誇らしげに差し出したのは、ヘンドリック様の金色の髪によく似た、薄黄色のドレスだった。
繊細なレースが動くたびに上品な光を放ち、まるで陽光を閉じ込めたかのようだった。以前の約束通り、フィオナはあたしにこんな夢のようなドレスを誂えてくれたのだ。
「フィオナ……こんなに素敵なドレス、本当にありがとう」
「いいのよ、コレットのためだもの! さあ、早く着替えて! あなたがこのドレスを着て、ヘンドリック様と並ぶ姿を見たら……コレット派の完全勝利ね!」
フィオナは目を輝かせながら、楽しそうにからかった。
あたしは少し照れたが、フィオナの優しさに胸が温かくなった。
フィオナの手を借りてドレスに袖を通し、髪を整えてもらう。
鏡に映った自分の姿は、いつものあたしとはまるで別人だ。
最後に、あの日ヘンドリック様からいただいた夜空色のペンダントを胸に飾った。
部屋まで迎えに来てくれたヘンドリック様は、あたしのドレス姿を見て、一瞬、息を呑んだようだった。
それから、ゆっくりと視線を巡らせ、「綺麗だ」と、はっきりと褒めてくれた。
あたしはただ、微笑みを返した。
緊張しながらも、あたしはヘンドリック様とパーティー会場へと向かった。
パーティー会場は、すでに華やかな喧騒に包まれていた。煌びやかなシャンデリアの光が、ドレスや宝飾品に反射し、会場全体が眩い輝きに満ちている。
生徒たちは思い思いに談笑し、ダンスを踊っていた。
会場の入り口から、ヘンドリック様がエスコートし、あたしの腰にそっと手を添え、優雅な足取りで中へと進む。
二人並んだ姿に、それまで和やかだった会場のざわめきが、一瞬にして水を打ったように静まり返った。 そして、すぐにさざ波のように、ひそひそとした囁き声が広がり始めた。
「見て、ヘンドリック殿下よ! パートナーは……まさかコレット嬢!?」
「本当だわ! 王弟殿下があの田舎貴族の子を連れてくるなんて……」
周囲の視線が、あたしたちに集中する。
賛嘆の眼差しもあれば、驚き、そして明らかに不満や軽蔑を含んだものもある。
あたしは衆目の下に晒されたような居心地の悪さを感じたが、ヘンドリック様は動じることなく、あたしを気遣うようにそっと微笑んでくれた。その静かな微笑みが、あたしの不安をわずかに和らげた。
彼の表情は、表面上は穏やかだったけれど、そのエメラルドの瞳の奥には、落ち着きなく揺らめく、抑えきれない焦燥感が燻っていたのを、あたしは感じていた。
ヘンドリック様は、ゆっくりと会場の中心へと歩みを進める。
その視線の先に、あたしは「それ」を捉えた。会場の隅、窓辺に立つルイーズ様の姿だ。
彼女は、まるで夜の闇そのものを纏ったかのような漆黒のドレスを身につけていた。
その生地は、シャンデリアの光すら吸い込むかのように深淵な黒だった。一切の装飾を排しているにもかかわらず、彼女の完璧な肢体と相まって、他のどの貴婦人の華美な装いよりも圧倒的な存在感を放っていた。
そして、その黒の中で、彼女の深紅の瞳だけが、まるで夜空に浮かぶ二つの血の月のように妖しく、しかし抗いがたい引力を持つ光を宿していた。
その美しさは、ただ「綺麗」という言葉では言い表せない、畏怖すら覚えるほどの、完璧で、同時に近寄りがたい異質な輝きだった。
彼女の周囲へは、誰も近づこうとしない。
冷たい美しさを纏った孤高の存在。
まるで、この華やかな夜会とは隔絶された、別の世界の法則が支配する場所から現れた異物のように、彼女はそこに立っていた。
ただそこにいるだけで、あたしの視界の全てを塗り替えるような、絶対的な存在感を放ち、ヘンドリック様には得体の知れない不穏な影として映っているようだった。
あたしたちが人垣を縫って進むうち、ルイーズ様との距離が少しずつ縮まる。
その途中で、ヘンドリック様が何人かの貴族に挨拶を交わすため、あたしたちの歩みが止まった。その間、あたしは周囲を見回した。
会場の一角では、ヘンドリック様の側近であるジルベール様が、隅の柱に寄りかかり、腕を組んで、静かに周囲を見渡していた。彼の視線は、時折ヘンドリック様とあたし、そしてルイーズ様のいる方へと向けられている。その表情は硬く、明確な警戒の色が浮かんでいた。
彼は誰とも言葉を交わさず、その場のわずかな空気の変化にも注意を払うように、不穏な空気への警戒を示しているようだった。
少し離れた場所では、いつも通り自信に満ちた笑みを浮かべるマクシム様が、華やかな貴婦人たちに囲まれて楽しそうに談笑していた。
彼に群がる貴婦人たちの中から、マクシム様があたしたちを見つけて軽く手を上げた。
「こんばんは、ヘンドリック殿下、そしてコレット嬢。今日は一段とご機嫌麗しい」
マクシム様の褒め言葉に、あたしは少し照れて俯いた。
ヘンドリック様が「マクシム殿も楽しんでいるようだな」と声をかけると、マクシム様は肩をすくめた。
「ええ、おかげさまで。しかし、正直なところ、このまま平穏に終えられるかと、少しばかり不安でした。今のところ、何のざわめきもないようで何よりです」
彼の言葉には、学園のイベントが無事に終わることを安堵するような響きがあった。
あたしには、それが単なる世間話ではなく、ヘンドリック様の反応を探る、計算された問いかけのように聞こえた。
ヘンドリック様も、その言葉の裏を探るように、マクシム様をじっと見つめ返していた。
その隣では、普段から彼に寄り添うようにしているミシュリーヌ様が、不安げな表情であたしとヘンドリック様を見つめていた。
彼女は手元のグラスをぎゅっと握りしめ、まるでひどく怯えているかのように不安げに思案しているように見えた。
ミシュリーヌ様はあたしと目が合うと、小さく、しかし深く頭を下げた。その顔には、どこかやつれたような疲労の色が見て取れた。
さらに視線を移すと、会場の中央付近で、誰彼構わず話しかけては笑いを誘っているアレクシス様がいた。彼は、どんな相手とでもすぐに打ち解けてしまう才能があるらしい。今も、見知らぬ令嬢と楽しそうにダンスに誘う話をしていた。
アレクシス様はあたしたちに気づくと、大きく手を振って近づいてきた。
「やあ、ヘンドリック殿、コレット嬢! 今日も最高に楽しそうだね! 君たちもダンスはもう踊ったのかい? 今夜は僕がパートナーを探している令嬢を全員踊らせるつもりだよ、ははは!」
彼の周りだけ、いつも陽気な空気が流れている。
ヘンドリック様が軽く会釈すると、アレクシス様は特に気にすることなく、また別の知り合いを見つけて話しかけに行った。
あたしが『知っているはず』なのに、まったく違う顔を見せる『登場人物』たちが、異なる表情で夜会に参加し、あたしたちと短いながらも言葉を交わす。
そして、彼らの視線もまた時折、あたしたちや、あるいはルイーズ様のいる方へと向けられているのが、あたしには見て取れた。
あたしたちが人垣を縫って進むうち、偶然、ルイーズ様の立つ位置の近くまで来た。
ヘンドリック様が周囲の生徒たちと談笑しているその隙に、ルイーズ様の視線があたしたちのペアに、まるで磁石に引かれるようにあたしたちのペアへと向けられた。
彼女の深紅の瞳が、あたしの胸元で光るペンダントに吸い寄せられるかのように止まる。
ルイーズ様の表情は完璧な無表情。しかし、その視線には、全てを凍てつかせるような冷たさがあった。
そして、その静寂を切り裂くように、ルイーズ様の声が響いた。
普段の感情のない声だが、周囲にもはっきりと聞こえるほどの明瞭さだった。
「そのペンダント……趣味が悪いわね」
ルイーズ様が放ったその一言が、会場のざわめきを、まるで誰かに呼吸を止められたかのようにぴたりと止めた。
華やかな空気を切り裂く氷の刃のような声。ルイーズ様の言葉だけが、場の時間を歪ませたかのように、全てを支配した。
「……貴様、今何と言った」
ヘンドリック様が怒りをにじませた声で問いかけた。
ルイーズ様は鬱陶し気に息を吐いた。
「趣味が悪いと言ったのよ」
「貴様!」
ヘンドリック様の顔色が一変した。
彼の瞳のエメラルドが、一瞬にして燃えるような怒りの炎を宿す。その全身からは、周囲の空気を歪ませるほどの、これまでに感じたことのない激しい殺気が放たれた。
ルイーズ様の言葉は、ヘンドリック様にとって、あたしに贈った大切な贈り物を公衆の面前で侮辱された個人的な怒りだけではなかった。
それは、ルイーズ様が再び悪夢を繰り返すのではないかという彼の根深い恐怖が、あたしと過ごした穏やかな日々という唯一の希望を踏みにじられたことで、ついに爆発した瞬間だった。
彼の理性は完全に限界を超えた。顔を紅潮させ、震える声で、抑えきれない感情を爆発させるかのように、衝動的に、彼の脳裏に焼き付いた悪夢を叫び始めた。
「王女ルイーズ! 貴様は再び、禁忌の術に手を染めたな! 我々は知っているぞ、貴様が魔女の森へと密かに足を踏み入れ、あの暗き者と通じていたことを! 魔女と結託し、暗き力で人々を惑わし、この国を意のままにしようと企んでいると聞く! 前世の愚行を繰り返すつもりか! そのような卑劣な行い、断じて許されるものではない!」
ヘンドリック様の憎しみに満ちた叫びに、生徒たちは呆然と立ち尽くしていた。
彼の秘密を知らない者には、何を語られているか要領を得ないだろう。
あたしは、ヘンドリック様の必死な形相を見て、改めて彼の抱える絶望的な秘密の重さを感じていた。
ルイーズ様はただただ静かに佇んでいた。
その表情は、感情を一切読み取れないほどに貼り付いた仮面のようだった。