25 覆された運命の夜
ルイーズ様とのペア実習を終えて数日。
演習室でのあのやり取りは、あたしの心を深く揺さぶり続けていた。
ルイーズ様が、あたしの「別の常識」を見抜いたことに戦慄を覚えたのはもちろんのこと。あの冷徹な瞳の奥に、ほんのわずかとはいえ見えた動揺や、マドレーヌを口にした時の微かな変化が、あたしの中で彼女の印象を塗り替え始めていた。
彼女は、ただ冷たいだけの王女ではないのかもしれない。
そんな風にルイーズ様への認識が変わりつつあった、ある日の夕食後だった。
「コレット、少し、話せるか?」
声をかけてきたのはヘンドリック様だった。
いつになく真剣な面持ちで、そのエメラルドの瞳には、強い焦燥が宿っているように見えた。
「はい、構いませんが……どうかされましたか?」
あたしは、彼のただならぬ様子に、自然と声のトーンを落とした。
「……ルイーズのことだ」
ヘンドリック様は、そう切り出すと、周囲を気にするようにちらりと視線を巡らせた。
夕食後の食堂は、まだ多くの生徒で賑わっている。
「ここでは、まずい。夜、寮の裏にある小さな庭園で会えないか? 誰にも知られずに、二人きりで話したいことがある」
彼の言葉は、まるで秘密の取引を持ちかけるかのようだった。その顔には、隠しきれないほどの深刻さが刻まれている。
「二人きり、ですか……?」
あたしは一瞬躊躇した。
夜に、二人きりで会うなど、学園の規則に反する行為だ。それに、もし誰かに見られでもしたら……。
「頼む、コレット。これは、君の身の安全にも関わる、非常に重要なことなんだ」
ヘンドリック様は、あたしの手を強く握りしめた。その手が微かに震えているのが分かった。
彼の真剣さに、あたしは断ることができなかった。
「……分かりました。では、夜、十時に」
「ありがとう、コレット」
寮の部屋に戻ってからも、ヘンドリック様のただならぬ様子が頭から離れなかった。
ルイーズ様のこと、あたしの身の安全、そして「非常に重要なこと」。
一体、彼が何を話したいのか、不安と、わずかな好奇心が胸の中で渦巻いた。
夜、学園を包む闇がさらに深まる頃だった。
あたしは、寮の自室からこっそりと抜け出し、指定された裏庭園へと向かった。夜の闇に包まれた庭園は、昼間とは全く異なる顔を見せていた。
木々の影が長く伸び、風に揺れる葉の音が、まるで誰かの囁き声のように聞こえる。
「コレット」
暗闇の中から、ヘンドリック様の声がした。
彼はすでに、庭園の奥、人目につきにくい大きな木の下に立っていた。
月明かりが、彼の金色の髪を淡く照らしている。
あたしは彼の元へと近づくと、周囲に誰もいないことを確認した。
「お待たせいたしました、ヘンドリック様」
「来てくれてありがとう。本当に、誰にも会わなかったか?」
ヘンドリック様は、あたしの肩に手を置き、真剣な眼差しで確認するように尋ねてきた。その瞳は、暗闇の中でも強く輝いている。
「はい、大丈夫です。それで、一体、私に何を……」
ヘンドリック様は、あたしから少し距離を取ると、深く息を吸い込んだ。
そのエメラルドの瞳は、揺れる月明かりに映し出され、まるで戸惑いや、そしてあたしに拒絶されることへの強い不安を宿しているように見えた。
彼は口を開こうとしては閉じ、喉の奥で何かを押し殺しているかのようだった。
「コレット、単刀直入に言う。ルイーズに、これ以上近づいてはいけない。彼女とは、関わらない方がいい」
彼の言葉に、あたしは驚いて目を見開いた。
「え……どうしてですか? ルイーズ様は……」
あたしは、ルイーズ様との実習での出来事を思い出した。
彼女はあたしの秘密を見抜いたけれど、それ以上の追及はせず、むしろあたしの意見に興味を示していた。
マドレーヌだって、美味しいと褒めてくれた。
あの冷徹な王女の仮面の下に、何か別の顔があるように感じ始めていたのだ。
「確かにルイーズ様は厳しくて、少し怖いところもありますけれど、そこまで恐怖を覚えるような、悪い人ではないと……あたし、思っています」
あたしの反論に、ヘンドリック様の表情はさらに険しくなった。
「君はまだ、彼女の本当の恐ろしさを知らないだけだ。コレット、私の言うことを聞いてくれ。彼女は……非常に危険な存在なんだ」
ヘンドリック様は、あたしの手を強く握りしめた。
彼の声には、懇願のような響きが混じっている。
「理由を教えてくださらなければ、納得できません。なぜ私が、ルイーズ様から離れなければならないのですか? あなたがそこまで言うのには、何か深い理由があるのでしょう?」
あたしの問いに、ヘンドリック様は言葉を詰まらせた。
彼の表情は苦渋に満ち、まるで何か非常に重い決断を迫られているかのようだった。長い沈黙が、夜の庭園に重くのしかかる。
やがて、彼は決意を固めたように、ぐっと唇を結んだ。
そして、あたしの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……分かった。君がそう言うのなら、話そう。だが、いいか、コレット。これから私が話すことは、何があっても、決して、誰にも口外してはならない。君以外に、この秘密を知る者は誰もいない。君は、きっと私の頭がおかしいと思うだろう。だが、これは紛れもない事実だ。誓ってくれるか?」
彼の声は、夜の闇に吸い込まれるように静かだったが、その言葉の重みに、あたしは息を呑んだ。
嫌な予感があった。この秘密が、あたしとヘンドリック様、そしてルイーズ様の運命を大きく変えることになるだろうと、直感的に悟った。
「私は……私は、この世界を一度経験している。つまり、私は生まれ戻りをしているのだ」
ヘンドリック様の告白は、あまりにも唐突で、あたしの理解をはるかに超えていた。
彼の言葉が意味することを脳が処理しきれず、ただ茫然と彼の顔を見つめることしかできない。
「信じられないだろう? だが、本当なんだ。いつから、どうしてなのかは分からない。気づいた時には、過去に戻っていた。そして、私は知っている。この先に、あの悪夢のような未来が待っていることを。あの悪逆を、君には経験させたくない。だから、ルイーズから離れてほしいんだ」
ヘンドリック様の声は震えていたが、その眼差しは、あたしに必死に訴えかけている。
彼は、あたしの両肩を強く掴んだ。その手が、まるで自分の恐怖をあたしに伝えようとするかのように、小刻みに震えている。
「君はルイーズを、悪い人間ではないと思っていると言ったな? だが、それは大きな誤りだ。彼女は、前の世界では、己の王位への執着のために、多くの無実の民を犠牲にした。国王を呪い殺し、逆らう貴族を粛清し、果てには民衆を飢えさせてまで自らの権力を盤石にしようとした。その結果、この国は内乱で荒廃し、血と悲鳴にまみれた地獄絵図と化したんだ。そんなことをする危険な女なんだ、ルイーズは。だから、頼むコレット、どうか彼女に近寄らないでくれ!」
ヘンドリック様の言葉が激しさを増すにつれて、まるでどこからか聞こえる無数の民衆の悲鳴を代弁しているかのようだった。
飢えに光を失った瞳、血と泥に塗れた王都の光景が、彼の語る「伝聞」として、あたしの脳裏にも鮮明に浮かび上がってくる。
彼の顔には絶望と恐怖が浮かび、必死の懇願があたしの胸に突き刺さる。あたしは、彼のあまりにも真剣な様子に、彼が嘘をついているとはとても思えなかった。
「でも、でも……ルイーズ様は……」
あたしは、何とか反論しようと口を開いたが、言葉にならなかった。
「君はあれを見ていないから! あの頃、私はこの国にはいなかった。だが、彼女に国を追われた魔導師たちが私の国に亡命し、多くの民衆もまた、彼女の暴虐を訴え逃れてきた。その者たちの話から、あの女がどれほど酷い治世を敷いていたかはわかった!」
ヘンドリック様は遠い過去に怯えていた。その瞳には、はっきりとトラウマが刻まれている。
「いつ、ルイーズ様はそのような暴挙に出たのです?」
「わからない……少なくとも、前の世界では、すでにこの頃には今の王は亡くなり、ルイーズが玉座に就いていた。アレクシス殿も、兄弟は皆殺された」
ヘンドリック様の声が、一層か細くなる。
「では、この世界ではそうならないとも……」
「そうなるかもしれないだろう! また、また呪いが振りまかれるかもしれない!」
ヘンドリック様は酷く動揺していた。
彼の金色の髪が乱れ、呼吸が荒い。まるで、目の前にその悪夢が迫っているかのようだった。
あたしの中ではバラバラだったピースが一つ一つ埋まっていった。
ヘンドリック様の奇妙な私への行為。マクシム様とミシュリーヌ様の間の不穏な空気。ジルベール様や魔女が語る呪い。そして、ルイーズ様のあの言動。全てが、一本の線で繋がった。
目をそらし続けて来た現実に、あたしはやっと対面した。
――ここは、ゲームの世界では、ない。