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24 深紅の瞳が見抜くもの

 翌日、あたしは個包装したマドレーヌをバスケットに入れ、指定された演習室へと向かった。

 心臓が、まるで警鐘のようにドクドクと鳴っている。まるで生贄にでも向かうかのような足取りで、重い木の扉に手をかけた。


 演習室の扉を開けると、そこはすでに静寂に包まれていた。

 部屋の奥、窓からの光を背に、ルイーズ様が一人、机に向かって座っていた。その背筋はピンと伸び、完璧な姿勢は、まるで一枚の絵のようだ。一切の無駄がなく、隙が見当たらない。


 あたしが足を踏み入れると、彼女はちらりと視線を向けた。その深紅の瞳が、僅かにあたしを捉える。


「お、お待たせして申し訳ございません」


 声が、思った以上に上擦ってしまった。


「いいえ、さほど待ってはいないわ。いらっしゃい」


 ルイーズ様の声は、凍てつくように静かで、感情の起伏が読めない。

 その呼びかけに、あたしは向かいの席に静かに腰を下ろした。


(な、なにから話せば……。まずは、実習の進め方とか、当たり障りのないことから……)


 そんな思考を遮るように、ルイーズ様が静かに口を開いた。


「あなたは、なぜ私があなたを指名したのか、疑問に思っているのでしょう?」


 あたしは、不意を突かれた。あまりにも唐突で、そして核心を突く問いに、思わず言葉に詰まる。


「あの、はい……」

 あたしの曖直な返答に、ルイーズ様の口元が、わずかに笑みの形に歪んだ気がした。


「あなたに興味があるからよ」

「興味、ですか?」


 あたしは、反射的に聞き返してしまった。

 まるで、あたしの動揺を楽しむかのように、ルイーズ様はゆっくりと頷く。



「そう、興味。それから、あなたに対する疑惑。そして今日それは、確信に変わる」



 ルイーズ様の深紅の瞳がキュッと細まった。その眼光は、あたしの全てを見透かしているかのようだ。

 ひやりと、背筋に冷たいものが走った。



「ところで、あなた、あの男と街に出掛けたことがあるんですって?」


 ルイーズ様は、まるで天気の話でもするように、淡々とした口調で問いかけた。

 あたしは、まさかそんな話まで知られているとは夢にも思わず、思わず息を呑む。


「は、はい。あの、以前に……」

「あなたは地方の生まれなのでしょう?あなたの目に、街はどう映ったのかしら」


 ルイーズ様の声には、一切の私情が混じっていないように聞こえた。ただ、純粋な好奇心、あるいは確認を求めるような響きがあった。


 彼女はとことんヘンドリック様に関心ゼロだ。

 それが逆に、あたしにとってのヘンドリック様との「恋路」が、彼女にとっては取るに足らない瑣末事であると突きつけられているようで、胸が締め付けられた。


「治世が行き届いていると、そう感じました。さすがはルイーズ様の父王、賢王と称されるだけあると、そう思いました」


 あたしは、正直な感想を述べた。

 少なくとも、学園の課題で躓いている私には、到底行えないことだ。この国の安定は、確かに王家の功績だと感じていた。


 だけど、ルイーズ様は私の感想に口元を歪めた。

 その口元は嘲笑を含み、その瞳は怒りに燃えている。


「賢王?あの男が?王宮に巣食う鼠の蠢きさえ聞こえない、あのぼんくらが?」


 あたしは驚愕した。

 彼女の口から漏れる言葉には、計り知れない憎しみがこもっていた。父である国王への、それほどの憎悪。

 ルイーズ様の激しい批判の言葉に、あたしは思わず、あの日見たスラムの子どもの姿が脳裏に鮮明に浮かんだ。彼らの痩せこけた体、汚れた服、そして飢えに光を失った瞳。

 あの光景は、あたしの心を深く抉っていた。


「……いえ、その、確かに行き届いていないと感じる場所も、あったと思います。陽の当たらない場所、光が届かない場所で、苦しんでいる人々もいる、と」


 あたしの声は小さかったけれど、ルイーズ様はそれを正確に捉えた。

 彼女の口元に、微かな満足そうな笑みが浮かんだように見えた。



「国に王は、必要不可欠だと思う?」


 ルイーズ様は、あたしの答えを待つことなく、次の問いを投げかけた。

 その瞳は、あたしを射抜くように深く、鋭い。


「それは……」

 あたしは、言葉を選ぶのに戸惑った。

 前世の常識で言えば「NO」だ。だが、この世界では……。


「誰しも生まれ持った地位を尊重しなければならないと思う?地位のある者しか治めてはならないと思う?掃き溜めの中に生まれ落ちたものは、一生をその掃き溜めで過ごさないといけないと思う?」


 ルイーズ様は矢継ぎ早にあたしに問いかけた。

 その言葉の一つ一つが、あたしの心を揺さぶる。


 あたしは、あくる日のヘンドリック様の言葉を思い出した。

 「この国の秩序は、生まれながらにして定められた身分によって保たれている」。

 それが、この世界の常識で、誰も疑わなかったしるべなのだ。

 しかし、今のルイーズ様の問いは、その根底を揺さぶるものだった。


 あたしが答えを探すための沈黙を、ルイーズ様は楽し気に眺めていた。

 まるで、あたしがどのような「答え」を導き出すのか、あるいは導き出せないのか、その思考の過程までもを楽しんでいるかのようだった。その瞳は、期待に満ちている。


「王は、必要不可欠だとは、思いません。王がいなくても国は治められるし、王がいても、民主主義と共存できると思います」


 あたしは、自らの持つ、現代人としての感性で答えた。それはきっとルイーズ様が求めていた思考だ。

 迷いや躊躇いはあったが、心に嘘はつけなかった。


「やはり、あなたの考え方は、面白い」


 ルイーズ様の笑みはますます深くなった。

 その瞳は、まるで獲物を見つけた猛禽類のように、あたしを捉えている。


 彼女はゆっくりと、あたしの頬に手を伸ばしてきた。

 その指先が、あたしの肌に触れる。ひやりと冷たい。

 逃がさないとでも言いたげに、瞳を深く覗き込んできた。


「考えなしで生きている、この国の貴族たちと違う。学者のような頭脳から来た考えかと思えば、そうではない。沁みついた思考回路が、あなたにそう発言させているかのよう。そう、まるで、『こことは別の常識』の中で生きてきた記憶があるよう」


 あたしの顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。心臓が凍りつき、呼吸すら忘れたかのようだった。



 ――彼女は、あたしの(あたしが)最大の秘密(転生者であること)を、易々と看破したのだ。



 それだけでルイーズ様は答えを得たのだろう。追究はなかった。

 あたしの顔色一つで、全てを理解したように、彼女はそっと指を離した。



 静寂が、演習室に満ちた。

 あまりの衝撃に、あたしは体の震えが止まらなかった。

 ルイーズ様は、何も言わず、ただあたしの動揺を見つめている。その視線は、まるであたしがどう崩れていくかを楽しんでいるかのようだった。


 どうにかこの状況から逃れたい。あたしは、無意識のうちに、隣に置いたバスケットに手を伸ばした。

 ひんやりとした(ラタン)の感触が、少しだけ落ち着きを取り戻させてくれる。

 その中に、昨日エディーが焼いてくれた、あの特別なマドレーヌがあることを思い出した。


「あの……ルイーズ様。これ、よかったら召し上がってください。昨日、友人と一緒に焼いたマドレーヌです」


 あたしは、乾いた声で、マドレーヌを差し出した。

 今さら、と思ったが、何か行動を起こさずにはいられなかった。


 あたしのあからさまな話題そらしに、ルイーズ様の片眉がピクリと動いた。

 粗相をしたかも、と焦ったけれど、ルイーズ様の注意はマドレーヌにあった。


 バスケットから取り出したマドレーヌを差し出すと、意外にも素直に彼女はそれを受け取った。包装を丁寧に剥がし、そして一口、小さく口に運んだ。


 その瞬間、ルイーズ様の凍てついていた表情の輪郭が、ほんの僅かに緩んだ。

 目の奥に宿っていた氷のような光が、まるで溶け出すかのように揺らめき、驚きとも、懐かしさともつかない、複雑な感情が、その瞳の奥に一瞬宿った気がした。


 アールグレイの芳醇な香りとオレンジピールの爽やかさが、静まり返った演習室にふわりと広がる。

 その香りが、まるで張り詰めた糸を解くかのように、あたしの強張った心を少しだけ和らげた。


「いかがですか?友人が作ったものなのですが……」


 ルイーズ様はしばらく黙ったままだった。

 あたしは、次にどんな言葉が飛んでくるのか、息を詰めて待った。


「……悪くないわね」


 そう言って、ルイーズ様はもう一口、ゆっくりとマドレーヌを口にした。

 その瞳は、まだあたしを見据えているが、先ほどまでの容赦ない探るような視線とは、少しだけ異なっていた。

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