22 揺れる理性と抱擁
東屋を飛び出し、ヘンドリック様に腕を引かれるまま、あたしは学園の敷地内を足早に進んでいた。
前を行くヘンドリック様の肩はまだ怒りで震えていた。
ルイーズ様の言葉が、あたしの心を揺さぶる。
(違う。ルイーズ様は、あたしを責めてなんか一つもいなかった……!)
あたしの脳裏に、ルイーズ様がカップを傾ける静かな横顔と、「愛する者同士、結ばれた方が幸せというのは、子供にだってわかることでしょう?」という、まっすぐな言葉が蘇る。
そして、ヘンドリック様が言った「ルイーズは誘いを断った」という、あの嘘。
込み上げてくるのは、恐怖ではなかった。
怒りだった。不甲斐ない自分への怒り。
そして、あたしを利用し、ルイーズ様を一方的に貶めたヘンドリック様への、抑えきれない怒り。
「やめてください、ヘンドリック様!」
あたしは、掴まれた腕を振りほどくように立ち止まった。
涙で滲んだ視界の奥で、ヘンドリック様の背中がぴくりと揺れる。
彼がゆっくりと振り返った。その顔には、先ほどの激情は消え、驚きと、そして一抹の戸惑いが浮かんでいた。
「コレット? まだ気分が悪いのか?無理もない。あの醜悪な女に一人きりで対峙したんだ」
心配するような彼の声が、かえってあたしの怒りに火をつけた。
「気分なんて悪くありません! それより、どうして嘘をついたんですか、ヘンドリック様!」
震える声に、精一杯の力を込めた。彼の目が、大きく見開かれる。
「ルイーズ様は、夜会のお誘いを断ったなんて、一言も言っていなかった! 『ヘンドリック様とはしばらく話していない』と、はっきりおっしゃっていました! あなたは、あたしを騙して夜会に連れて行ったんですか!?」
投げつけた言葉に、ヘンドリック様はぐっと息を詰まらせた。彼の顔から血の気が引いていくのがわかる。
しかし、あたしは止まらなかった。
「そして、ルイーズ様をあんな風に侮辱するなんて……! ルイーズ様は、あたしを責めてなんか一つもいなかったのに! あなたは、あたしの涙を見て勝手に決めつけて、彼女を傷つけたんです! それなのにあの言い様、酷すぎます!」
あたしの言葉は、まるで鋭い刃のように、ヘンドリック様を切りつけた。
彼は何も言えず、ただ呆然と立ち尽くしていた。その瞳の奥には、動揺と、そして、まさかこんな言葉がコレットから発せられるとは思っていなかった、というような驚愕の色が浮かんでいた。
「……コレット、それは違うんだ。私は、ただ……」
ヘンドリック様は、狼狽したように手を伸ばしてきた。
いつもの完璧な笑みは消え失せ、焦燥に駆られたような表情を浮かべている。常に冷静で、どんな状況でも揺るがない彼の、初めて見る姿だった。
「違うなんて、何が違うんですか! ルイーズ様は何も悪くなかったのに、勝手に決めつけて、あんな酷い言葉で傷つけて……! 」
あたしはもう、彼の言い訳など聞きたくなかった。
ルイーズ様の言葉が、あたしの心を縛っていた鎖を打ち砕き、ヘンドリック様への幻滅が、あたしを突き動かしていた。
「もう結構です! あなたのお話は、もう聞きたくありません!」
そう言い放ち、あたしは彼に背を向けた。
背後から「コレット!」と、焦ったようなヘンドリック様の声が聞こえたけれど、あたしは振り返らなかった。
二度と彼の顔を見たくない一心で、震える足に無理やり力を込め、東屋から走り去った。
あの日以来、あたしはヘンドリック様を徹底的に避けて過ごした。
廊下で彼とすれ違いそうになれば、わざと反対の道を選んだ。食堂で見かければ、席を外した。授業で隣の席になった日には、ほんの少し距離を取り、決して目を合わせなかった。彼が何かを話しかけようとすれば、聞こえないふりをして立ち去るか、事務的な短い返事しか返さなかった。
まるで透明人間になったかのように振る舞い、彼の存在を否定した。
彼からの手紙も何度か届いたけれど、封を開けることさえしなかった。使いの方が持ってくるたびに、「結構です」とだけ告げ、そのまま突き返した。
中には、東屋でのことについて弁明を求める内容や、心配する言葉が並んでいるのだろうと想像できたけれど、今のあたしには、彼の言葉がただの言い訳にしか聞こえなかった。
あたしの態度は、周囲の好奇の目に晒されていることも知っていた。
ヘンドリック様とあたしが、夜会で共に現れたことは、学園中の話題になった。それが今、あたしが彼を露骨に避けている。
彼を慕う令嬢たちのひそひそ声や、憐れむような視線も感じたけれど、もうどうでもよかった。
あたしは、自分の心に正直でいたかった。
一方、ヘンドリック様も、あたしの態度に戸惑っているようだった。
最初は訝しげだった彼の表情は、日を追うごとに困惑と焦燥に変わっていった。時折、遠くからじっとあたしを見つめる視線を感じたけれど、あたしが目を合わせると、すぐに逸らされた。
数日が経ち、あたしが彼への無視を貫いたある日のことだった。
「どうか一度だけ、会ってやって欲しい」と、ベテラン侍従とは思えないほど彼の表情は憔悴しており、主の様子を心から心配しているようだった。
手紙ですら、受け取る気はなかった。
だけど彼の様子があまりにも不憫で、唯一その日の手紙だけ受け取った。
その場で封を開け、中身を確認すると、ただ一言「どうか、一度だけ会って、私の弁明を聞いてほしい」とだけあった。
彼にしては弱弱しい文字の勢いに、相当まいっていて、必死なのだと予想ができた。
このまま自然消滅することが、貴族社会で生き抜くには正しい道のはずだ。
頭ではわかっていた。けれど、実際に彼の手紙を目にすると、その決意は簡単に揺らいだ。
そして何より、このままではいつまでも彼の執着から逃れられないだろうという諦めにも似た思いから、彼の誘いを受けることにした。
「……人目につかない場所であれば、お会いしますとお伝えください」
あたしがそう告げると、使いの方は、まるで砂漠で水を見つけたかのように、驚きと安堵に満ちた表情で目を見開いた。普段は感情を表に出さない、年配の熟練の侍従だったはずだ。それが今、その顔は深い安堵と、かすかな涙で潤んでいるように見えた。
彼は何度も深々と頭を下げ、震える声で「は、はいっ!必ずお伝えします!」と繰り返した。
その様子は、主であるヘンドリック様の憔悴ぶりが、尋常ではないことを物語っていた。
後日指定された場所は、人目を避けるため、学園から少し離れた街の外れにある古い公園だった。
指定された場所に着くと、すでにヘンドリック様が待っていた。普段の華やかな装いではなく、やや地味だが上質な私服に身を包んだ彼は、少し落ち着いて見えた。
「コレット! 来てくれたのか……本当に、すまなかった。君をあんな風に傷つけることになってしまって」
彼の言葉に偽りはないように聞こえた。真っ直ぐな瞳は、あたしの心を見透かしているかのようだ。
彼の真摯な態度に、あたしの怒りは少しずつ和らいでいく。
「ヘンドリック様……あたしこそ、あの時は感情的になってしまって、申し訳ありませんでした。ですが……」
あたしは、言い淀んだ。
ヘンドリック様の言葉を、素直に受け入れていいのだろうかと、あたしの心はざわついていた。
ヘンドリック様は、あたしの迷いを察したように、一歩、また一歩と近づいてきた。その顔は、憔悴しながらも、どこか諦めにも似た、しかし切実な光を宿している。
「分かっている。君がまだ、私を信じきれないことも、私への幻滅も。確かに私は君に嘘をついた。しかしそれも、ルイーズを誘ったところで断られることは明白だったからだ。あの時私の提案に戸惑う君に、どうしても首を縦に振らせたくて……ルイーズが夜会に現れなければ、結果は同じなのだから君への説明は不要だと考えていた……本当に、軽率で、愚かだった」
彼の声は、自嘲するように震えていた。
「そして、あの東屋でのことだ。君の涙を見て、私は正気を失った。感情を抑えられなかった。醜い私を、どうか許してほしい。あの時の私は、君を守りたい一心だった。その気持ちに嘘はない」
彼の言葉は、一点の曇りもなく、あたしの心を抉るように響いた。
普段の尊大で完璧な彼からは想像できないほど、彼は自身の過ちを認め、後悔の念を露わにしている。
そんな彼の姿に、あたしの心はもう、完全にほだされていた。怒りは薄れ、代わりに、彼の人間的な弱さに対する、複雑な感情が芽生えていた。
「ヘンドリック様……」
あたしは、彼の真摯な謝罪を受け入れそうになっていた。
しかし、その瞬間、脳裏にミシュリーヌ様の冷たい声が響いた。
(分不相応な真似はするべきではない。)
そうだ。あたしは、しがない男爵令嬢。
この方は、王位継承権を持つ殿下なのだ。
どんなに彼の言葉が本心に聞こえようと、この関係は、あたしにとっても彼にとっても、破滅を招く可能性がある。
ルイーズ様の「愛する者同士、結ばれた方が幸せ」という言葉も、あたしの心に温かい光を灯したが、理性がそれを強く押しとどめた。
「ヘンドリック様……あたしには、あなた様の傍にいる資格など……。やはり、あたしたちはお互いのために、少し距離を置くべきかと……」
震える声で、必死に理性的な言葉を紡ぎ出した。
しかし、その言葉は、彼の顔からわずかに戻りかけていた血の気を、再び奪い去った。
「距離を置く? そんな、馬鹿なことを言うな、コレット!」
ヘンドリック様の表情は、一瞬にして絶望に変わった。
彼は、まるで縋り付くかのように、あたしの方へ一歩踏み出した。その手があたしの腕に伸びる。
「私から離れるなど、許さない! 君が私を許さずとも構わない。君に嫌われても構わない。だが、私の傍からいなくなることだけは……!」
彼の声は、懇願するように掠れ、その瞳は、あたしを失うことへの純粋な恐れに満ちていた。普段の威厳ある彼からは想像もできない、無様で、情けないほど必死な姿だった。
(駄目、いけない。こんなに必死な彼の姿を見ては……)
理性が警鐘を鳴らす。ミシュリーヌ様の言葉が、遠くでこだまする。
だが、目の前のヘンドリック様の、魂を削るような訴えと、震える手のぬくもりに、あたしはもう抗えなかった。
次の瞬間、あたしは彼の腕の中に引き寄せられていた。
温かく、しかし力強い抱擁に包まれる。彼の胸の鼓動が、あたしの耳に直接響いてくる。
戸惑いながらも、その温かさに、あたしの体から力が抜けていくのを感じた。
ヘンドリック様は、あたしを抱きしめたまま、深く、安堵の息を漏らした。その腕は、あたしを決して離さないとでも言うかのように、さらに強く、あたしを締め付けた。
ヘンドリック様の腕の中で、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。あたしはゆっくりと顔を上げた。
彼の瞳は、もう焦燥の色はなく、ただあたしへの深い愛情だけが宿っていた。
「コレット……ありがとう」
彼の声は、まだ少し震えていたけれど、どこか安堵に満ちていた。
あたしは何も言えず、ただ小さく頷くことしかできなかった。
まだ、頭の中は整理できていない。
それでも、彼の腕の中にいることが、あたしにとって、決して不快ではないことに気づく。
「さあ、寮に戻ろう。もうこんな時間だ」
ヘンドリック様は、あたしを抱きしめたまま、ゆっくりと体を離した。そして、あたしの手を握ると、そのまま学園へと続く道を歩き出した。
彼の表情は、先ほどまでの苦悩が嘘のように晴れやかだった。普段の彼らしい、自信に満ちた背中がそこにあった。
「……それで、コレット。あの時のルイーズは、本当に……」
ヘンドリック様が、あたしを気遣うように、東屋でのことについて口を開こうとした、その時だった。
ふと、あたしの視線が、通りの向こう、人気のない細い道へと吸い寄せられた。
あたしたちは学園へ戻る道の途中で、ちょうど街外れに差し掛かっていた。そこは、鬱蒼とした森の、ちょうど入り口に繋がる道だ。決して人が近寄るような場所ではない。
その道の先に、地味な色のフード付きマントを深く被り、顔の半分以上を隠した人物の姿があった。
一瞬の出来事だった。
しかし、あたしはその人物が誰であるか、直感的に理解した。
ヘンドリック様は、あたしの視線の先を見ようともせず、ひたすら弁明の言葉を紡ぎ続けている。
「……コレット?」
ヘンドリック様の問いかけも、あたしの耳には届かなかった。
(ルイーズ様が……どうして、あんな場所に……?)
心臓が、嫌な音を立てて波打った。
あの森は、いつぞや私が足を踏み入れた、『嘆きの森』。――魔女のいる森なのに。