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21 世界のひび割れ

 夜会の翌日、あたしはミシュリーヌ様の侍女により呼び出しを受けた。あたしはそのまま連れられ、学園の敷地奥にある、人目につきにくい小さな東屋へと向かった。

 蔦が絡まる白い柱が陽光を浴びて輝き、中には簡素なテーブルと椅子が置かれている。

 周囲の木々の葉が風に揺れる音が、なぜか今日のあたしには、耳障りなほど大きく聞こえた。


 そこにいたのは、予想通りのミシュリーヌ様と、そして──昨夜、アレクシス殿下の隣で中座の挨拶をしていたはずのルイーズ様。


 二人の視線が同時にあたしに注がれた瞬間、さっと顔が青くなったのが自分でもわかった。昨夜の悪夢が、そのまま現実に続くように思えた。


「コレットさん。どうぞ座って。」


 ミシュリーヌ様の冷ややかな声が、あたしの耳に直接響く。

 座れるはずがない。この場に居るだけで全身が震える。

 けれど、抗う術など、あたしには持ち合わせていなかった。


 震える足で、用意された椅子にゆっくりと腰を下ろす。座面が冷たく、あたしの熱を持った身体には一層堪えた。


 ミシュリーヌ様は、あたしの様子を値踏みするかのように一瞥すると、カップを手に取り、優雅に口をつけた。その完璧な所作が、彼女の持つ絶対的な余裕と、あたしに対する容赦ない制裁を物語っているようで、あたしはただ、カタカタと震えることしかできなかった。


 カップをソーサーに戻すカチャリ、という音が、周囲の静寂に不自然に響く。チラリとミシュリーヌ様の目線があたしに向けられた。


「あなたを呼んだのは私よ。どうして呼ばれたのかは、理解していらっしゃるでしょう?」


 言われなくてもわかる。これは制裁だ。


 昨夜、ルイーズ王女が欠席すると嘘をついてあたしを夜会に連れ出したヘンドリック殿下の件。そして、あたしがその片棒を担いだことに対する詰問。

 それだけではない。ミシュリーヌ様の瞳には、あたしがヘンドリック殿下という「釣り合わない相手」に近づいたことへの、明確な非難と軽蔑が宿っていた。


 謝罪しなければ。言葉を紡がなければ。そう頭では理解しているのに、全身を支配する恐怖のあまり、声が出なかった。

 喉が、ひどく乾く。



「ミシュリーヌ様。ここは、私と彼女の二人きりにしてくださる?」


 沈黙を破ったのは、ルイーズ様の声だった。

 抑揚のない、しかし確固たる響きを持つその声に、ミシュリーヌ様は一瞬眉をひそめた。あたしを睨みつけるような視線で、しかし、ルイーズ様の静かな圧力に促されるように、音もなく立ち上がった。

 ミシュリーヌ様はルイーズ様に一礼はしたが、その動きはどこか固く、感情を押し殺しているかのようだった。


 その場に残されたのは、あたしとルイーズ様だけ。

 張り詰めた空気に、あたしは息すらも満足にできなかった。


 ルイーズ様は、何も言わず、優雅な手つきでティーセットを手に取った。カチャカチャ、と小気味良い音が響き、あっという間に芳醇な香りの紅茶が淹れられていく。

 あたしが気づいた時には、もうカップが目の前に出されていた。


「お飲みなさい。誰も、あなたを取って食べようなどとは思っていないわ」


 その言葉は冷たいはずなのに、どこか見透かすような、不思議な響きがあった。

 こんな状況で悠長に紅茶を飲めるほど、あたしは図太い性格をしていない。


 それでも、ルイーズ様の視線に促されるように、震える手でカップを取った。温かい湯気が、かじかんだ指先に僅かな熱をくれた。


 ルイーズ様は、あたしがカップを口元に運ぶのを見届けるように静かに眺めていた。

 そして、不意に、核心を突くような問いを投げかけた。



「ヘンドリック様が、好きなのね」



 ドキン、と心臓が跳ねた。

 あたしは慌ててカップをソーサーに置いた。


「ルイーズ様、あ、あたし、本当に申し訳ないことを……」


 謝罪の言葉しか出てこない。

 けれど、ルイーズ様は、あたしの言葉を遮るように、もう一歩踏み込んだ問いを放った。


「あの方と、結ばれたい?」

「そんなことっ!」


 思わず、あたしは椅子から立ち上がっていた。


 そんなこと、できるなんて思っていない。

 あたしは馬鹿だったのだ。最初からわかっていたことだ。


 身分が違いすぎる。高位貴族と、しがない男爵令嬢。

 ゲームでは主人公が身分を乗り越えるけれど、それは物語の中の出来事だ。現実の世界は違う。

 この身に染み付いた常識が、あたしの心を雁字搦めに縛り付けていた。

 分不相応な夢を見た自分自身が、情けなくて、恥ずかしかった。


 それなのに、自分の気持ちばかり優先してきて。こんなことは、ルイーズ様ならば百も承知で、きっと優越感に浸っているに違いない。

 憎しみと諦めが混じったような感情で、彼女の顔を見れば、ルイーズ様は全く表情を変えずにカップを傾けていた。

 その瞳は、深淵を覗き込むように静かだった。


「私は、あなたの気持ちが知りたいだけよ」


 すとん、と、あたしの腰は再び椅子に落ちた。

 彼女の声には、あたしを責める響きが微塵もなかったからだ。


「身分が違うから、諦めるしかないと思っているのね。とても窮屈な思いをしているはずなのに、無理矢理自分を納得させているのね」


 ルイーズ様の言葉は、あたしの内奥を、まるで見てきたかのように言い当てた。

 その言葉は、まるで彼女自身が同じ体験をしたことがあるかのような重みがあって、あたしの心にじんわりと圧し掛かってきた。


「馬鹿ね。そこまで強く思っているのに諦めようとするなんて、最後に深く傷つくのは、あなた自身よ」


 その言葉は、あたしに同情してくれているようで、けれど、あたしの愚かさを突きつけるようでもあった。


 ルイーズ様の瞳に、あたしを嘲る色は微塵もない。ただ静かに、あたしの心を覗き込むかのように見つめている。

 その視線に、あたしは思わず言葉を失った。


「……私が、愚かでした。誘いを断られたからと、それを理由に代役を引き受けるべきではありませんでした。……私の軽率な行動が、あなた様に恥をかかせました」


 ルイーズ様がヘンドリック様の婚約者であることは周知の事実だ。それなのに、その公式なパートナーを差し置いて、あんな風にヘンドリック様と行動を共にするなど、貴族としてはあってはならないことだ。


「……誘いを断った?私が?」

「はい。だからヘンドリック様は私に代役を、と……違うのですか?」


 ルイーズ様はしばし思案した。


「あの男とはしばらく話していないわ」

「え?」


 話をしていない、ということはヘンドリック様がルイーズ様を誘ったという話は、嘘ということ?

 あたしの頭は混乱した。


「……それでは、ヘンドリック様が、私に嘘を?」


 意を決して尋ねると、ルイーズ様はカップを置き、静かにあたしを見つめた。


「さあ、そのあたりの事情は知らないけれど。いずれにしても、あの男の誘いには乗らなかっただろうから、結果は変わらない。周りが何を言おうと、あなたが気に病むことではないわ」


 その言葉は、あたしにとって、あまりにも衝撃的だった。


 加えて先ほどからあの男、あの男とヘンドリック様のことを指しているけれど、ゲームの中の二人の描写は、主人公がそのルートに進まない限り良好であったはずだ。


 それに、ヘンドリック様があたしに嘘をついた、その理由が理解できない。

 何かがおかしい。

 この世界が、ゲームの筋書きとは違う方向に進んでいる、というだけではない。まるで、登場人物たちが、あたしが知っている設定とは異なる『本心』を抱えているかのような……。



「ルイーズ様。もしかしてあなたは……」


 あたしの頭の中には、あまりにも恐ろしい、それでいてどこか救いのあるような仮説が、洪水のように押し寄せてきた。

 それは、この世界の根幹に関わるような、あまりにも巨大な真実だった。

 しかし、それを言葉にする勇気は、あたしにはなかった。


 ルイーズ様は、あたしの動揺を見透かすように、ゆっくりと首を振った。


「愛する者同士、結ばれた方が幸せというのは、子供にだってわかることでしょう? 結婚はお金や利権のためではないわ。人が幸せになるための手段の一つなのよ。」

「でも、それが貴族の義務なので……」


 あたしは、これまで自分を縛り付けてきた常識を口にした。

 しかし、ルイーズ様は、それを一蹴した。


「慣習だから従うというの? 自分の気持ちを圧し殺してまで? 馬鹿馬鹿しい。進歩を望まないのは愚者がすることよ」


 ルイーズ様の言葉は真理を語るかのようだった。

 いや、ような、ではない。正しく真理だった。この世界で、誰もが当然と受け入れている貴族社会のしがらみを、彼女は真っ向から否定している。まるで、彼女自身が、その「慣習」という名の鎖に囚われ、苦しんでいるかのように。


 あたしの頭の中で、バラバラだったパズルが、カチリと音を立てて繋がっていくような気がした。

 そして、あたしの心を縛り付けていた、これまで当然だと思っていた鎖が、音を立てて砕け散るのを感じた。

 それは、あたしがずっと見て見ぬふりをしてきた、心の奥底に隠した本当の願いを、容赦なく抉り出すようだった。


「……あたしは、あたしは……どうしたら……」


 思考が、感情が、急速に絡まり合っていく。

 自分が何をしたいのか、どうすれば良いのか、全く分からなくなった。

 頭の中が真っ白になり、これまで見ないようにしてきた、自分自身の本当の気持ちと、この世界の歪みが、洪水のように押し寄せてくる。


 ルイーズ様の言葉は、あたしを責めるものではなかった。

 むしろ、あたしを、あたしの内側を、抉り出すようだった。


 あたしは、ただただ混乱し、自分の心の奥底に封じ込めていた感情が、止めどなく溢れ出していくのを感じた。


 気づけば、視界が滲んでいた。堪えきれず、大粒の涙が次々と頬を伝い落ちる。嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えたが、全身が震え、涙は止まらなかった。

 ルイーズ様は、そんなあたしを、ただ静かに見つめている。その瞳には、憐れみも、嘲りも、何も、何も宿っていなかった。

 しかし、その深淵には、あたしを値踏みするような冷徹さの裏に、微かな、しかし抗いがたい疑問のような光が宿っているようにも見えた。



「コレットに何をしているっ!」


 突然、怒気をはらんだ声が東屋の周囲に響き渡った。

 そこに立っていたのは、憤怒の表情を浮かべたヘンドリック様だった。彼の双眸は、あたしの涙を見て、激しい怒りに燃え上がっている。


「ち、違うんです! ヘンドリック様、ルイーズ様は何も……!」


 あたしは慌てて、震える声でルイーズ様を庇おうとした。

 けれど、ヘンドリック殿下はあたしの言葉など耳にも入っていないようだった。彼の視線は、あたしの背後で静かに座っているルイーズ様へと一直線に突き刺さっていた。


「卑劣な真似はやめろ、ルイーズ! いつまでそうやって、お前の怒りを他人に擦り付けるつもりだ!? 己の不出来を他人のせいにして、挙句、無関係な者を傷つけるとは、王女として、いや、人間として恥を知れ!」


 ヘンドリック様の言葉は、あたしの理解を超えた、まるで個人的な恨みつらみをぶつけるような罵倒だった。彼の言葉の裏には、ルイーズ様が過去に何かをしたという、あたしには知りえない確固たる『事実』があるかのように聞こえた。

 しかし、それは同時に、彼がルイーズ様を一方的に断罪しているようにも感じられ、胸騒ぎがした。


 ルイーズ様は、そんな彼の罵倒にも全く動じることなく、静かに紅茶を一口含むだけだった。

 その、微動だにしない姿が、彼の怒りをさらに煽っているように見えた。


「お前の性根は結局変わらないのだ。その傲慢さが、コレットを傷つけ、そして再び国を滅ぼすのだろう! 自己のことのみ考える、罪深い魔女風情が!」


 ヘンドリック殿下の声は、怒りで震えている。彼の言葉の端々からは、過去の深い確執が窺えた。

 あたしは、ただ震えるばかりで、二人の間に割って入ることもできない。


 ルイーズ様は、ゆっくりとカップをソーサーに置き、ようやくヘンドリック殿下の方へと視線を向けた。

 その瞳は、やはり感情を宿さず、しかし、揺れるような、冷たい怒りの色が浮かんでいるようにも見えた。


「その目つきは何だ!」


 ヘンドリック殿下は、さらに激高し、今にもルイーズ様に掴みかかりそうな勢いで一歩踏み出した。

 あたしは、このままでは取り返しのつかないことになると直感した。


「や、やめてください、ヘンドリック様っ!」


 掠れた声で叫び、彼の腕に縋り付いた。

 ヘンドリック様は、あたしに縋り付かれたことで、ハッと我に返ったかのように動きを止めた。彼の激しい呼吸が、荒く耳に届く。


 彼はあたしの腕を掴むと、力任せに引っ張り上げた。


「……行くぞ、コレット。お前のような優しい人間が、これ以上、この女の悪意に晒される必要はない」


 その言葉には、あたしを気遣うような響きがあったが、彼の目にはまだ、ルイーズ様への剥き出しの憎悪が燃え盛っていた。

 あたしは、涙で顔を濡らしたまま、されるがままに立ち上がった。


「ヘンドリック様!」


 あたしは、去り際にルイーズ様の方を見た。彼女は、依然として微動だにせず、ただ静かにその場に座っていた。

 ヘンドリック殿下は、あたしを庇うように、ルイーズ様の目の前で立ち止まると、冷たい声で言い放った。


「二度と、コレットに近寄るな。次、彼女を傷つけるような真似をすれば、容赦はしない」


 ルイーズ様は、その警告にも、何の反応も示さない。ただ、静かにヘンドリック殿下を見つめ返すだけだ。

 その視線は、彼を挑発するでもなく、怯えるでもなく、まるで、彼が語る言葉の真偽を測っているかのようにさえ見えた。

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