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20 深紅の女王

 ミシュリーヌ様の冷たい言葉が去った後も、あたしはその場に立ち尽くしていた。

 胃の奥がきゅうと締め付けられるような不快感と、得た情報への興奮が入り混じっていた。


「コレット、どうしたんだ? 顔色が悪いようだが」


 優しい声に顔を上げると、そこにヘンドリック様が立っていた。いつの間に戻ってこられたのだろう。

 彼は心配そうにあたしの顔を覗き込み、そっと手を握ってくれた。その温かさに、強張っていた体が少しだけ和らぐ。


「いえ、少し……慣れない場所なので、疲れてしまって」


 とっさにそう答えたものの、彼の鋭い視線が、あたしがミシュリーヌ様と話していたことを見抜いているようだった。

 しかし、彼はそれ以上何も尋ねず、ただ優しく微笑んだ。


「無理もない。では、少し休もうか。それとも……一曲、踊らないかい?」


 ヘンドリック様は、あたしを誘うように手を差し伸べた。


 ホールの中央では、優雅なワルツが始まっている。貧乏男爵令嬢であるあたしが、このような場所でダンスなど、夢のまた夢だった。

 それに、あたしはダンスなどろくに習ってもいない。さっきミシュリーヌ様にも「出しゃばるべきではない」と言われたばかりで……。


「あ、あたしなど……まともに踊れません、殿下」

「構わないさ。私がリードしよう」


 ヘンドリック様はそう言うと、躊躇するあたしの手を取り、そのまま迷うことなくダンスフロアへと足を進めた。


 彼の瞳は、あたしの不安を溶かすかのように穏やかだった。

 あたしは、まるで夢を見ているかのような心地で、ヘンドリック様に導かれ、ダンスフロアへと足を踏み出した。


 柔らかな音楽が響く中、ヘンドリック様はあたしの腰をそっと支え、優雅なステップを踏み出した。彼のリードは完璧で、あたしはただ彼の動きに身を任せるだけでよかった。

 最初はぎこちなかった動きも、彼の滑らかなステップに合わせて、次第に自然になっていく。


「上手じゃあないか」


 ヘンドリック様が優しい声で囁いた。あたしは恥ずかしくて顔を上げられない。


「いいえ、ヘンドリック様がリードしてくださるからです」

 彼の燕尾服の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。

 近くで見るヘンドリック様の横顔は、彫刻のように美しく、あたしを見つめる瞳は、嘘偽りのない真摯な光を宿していた。

 その瞳と目が合うたび、吸い込まれそうな深い青に、あたしの心は揺れた。

 まるで、この広い世界に彼とあたししかいないような、そんな錯覚に囚われる。彼の手のひらから伝わる温もりが、不安だったはずのあたしの心を、ゆっくりと、けれど確かに満たしていく。


 この温かさに、ずっと包まれていたい――そんな、今まで知らなかった感情が、胸の奥でひっそりと芽生えるのを感じた。


(この人は……本当に、優しい人なんだ)


 あたしがミシュリーヌ様と話して、落ち込んでいるところを見つけたんだろう。あたしの気を晴らすためにダンスに誘ったんだ。

 そう理解しようとしても、彼の瞳の真剣な光や、触れる手のひらから伝わる熱が、単なる気遣い以上の何かをあたしに訴えかけているように思えた。


 ざわついていた心が、ゆっくりと落ち着いていくのを感じる。

 彼の腕の中にいると、不思議と安心できた。この夜会の華やかさも、貴族たちの視線も、今はもう気にならなかった。ただ、この優しい温もりの中にいたい、と願ってしまうほどに。



 一曲が終わり、ヘンドリック様があたしをエスコートしてフロアの端へと向かおうとした、その時だった。


「おお、ヘンドリック殿!ここにおられたか。随分探したぞ。挨拶のタイミングを逃してこんな時間になってしまったではないか」


 涼やかな声が、横から聞こえてきた。振り返ると、そこに立っていたのは、アレクシス様だった。


「こちらこそ挨拶が遅れた。アレクシス殿、紹介しよう。今宵の私のパートナーであるコレット男爵令嬢だ」

「いやいや、噂のコレット令嬢とは何度か会話しているとも。しかし驚いた。二人がこれほど親密な仲だとはな!」


 アレクシス様は、率直すぎる言葉で、その場の空気を一瞬にして凍らせた。悪意のない、あまりに無邪気な無神経さが、むしろ鋭い刃のように胸に突き刺さる。


「しかし、なるほど。ヘンドリック殿はコレット嬢のような令嬢が好みだったのだな。我が妹は貴殿の趣味に合わなかったか。それは良い。好みが分かれるのは当然だ。そもそも妹との婚約も、貴殿の留学申請を受け入れるために父が交換条件として無理に押し通したものだからな!」


 アレクシス様の無遠慮な言葉は、容赦なくあたしとヘンドリック様の間へと踏み込んできた。

 その場の貴族たちの視線が、一斉にこちらに集まるのを感じる。あちらこちらから、押さえた声のざわめきが聞こえ、中には扇で口元を隠してひそひそと囁く者もいた。使用人たちでさえ、一瞬動きを止め、凍りついたような顔でこちらを見ている。

 ヘンドリック様の表情は変わらなかったが、その瞳の奥に一瞬、険しい光が宿ったように見えた。

 あたしは居たたまれなくなり、思わず視線を下げた。



「お兄様」



 その声は、深々と静まり返ったホールに響き渡った。

 冷たい、しかし信じられないほどに美しい声。

 その一言が、アレクシス様の軽薄な言葉を、そして場の凍り付いた空気を、一瞬にして砕き去った。


(どうして……だって、この夜会には出席しないって、ヘンドリック様が……)


 あたしは恐る恐る顔を上げ、声の主の方を見た。

 そこに立っていたのは、夜会のすべての光を集めたかのような、まばゆいばかりの輝きを放つルイーズ様だった。

 見事な真紅のドレスは、あたりの貴婦人たちの煌びやかな装いを霞ませ、彼女の纏うオーラは、まるで玉座に君臨する女王のよう。

 彼女の一挙手一投足から、底知れない威圧感が放たれ、周囲のざわめきがぴたりと止まる。

 彼女の存在そのものが、この場の絶対的な支配者であることを宣言していた。


 隣のヘンドリック様の横顔を伺いみると、普段の冷静さが嘘のように、驚愕に染まっていた。


「ああ、ルイーズ。どこにいるのかと思った。何か用か?」

「退席の前に一言挨拶を申し上げようかと」


 その瞳は、深紅の宝石のごとく冷ややかに輝き、あたしを一瞥した。


 時間が、止まった。

 その一瞥で、あたしは冷たい現実に引き戻された。あたしの背筋を、凍るような悪寒が走り抜けていったのだ。

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