2 運命の幕開け
自室の姿見に映る少女が暗い表情で眉を下げている。
くすんだ濃紺の質素なドレスは体の線も拾わず、化粧もまるで施されていない。鏡の中にいるのは、地味で影の薄い男爵令嬢コレットだ。
はあ、と喉の奥から絞り出すように溜め息をつくと鏡の中の人物も同じ動作をした。
この一年、何度繰り返したかわからない、嘆きのルーティーンだ。
鏡に映っているのはあたしだ。以前の、日本の記憶を持つ『あたし』と、この世界の男爵令嬢『コレット』が混ざり合った、今のあたし。
日本人だった。日本人であったはずだった。
だけど現実のあたしは白い肌の上に普段からドレスを纏っている。もう一年も経つというのに未だ鏡を見てはこの見慣れない顔と生活に違和感を覚えることが多い。
十五歳の誕生日に、あたしは二度目の生誕をした。
なんてかっこつけてみせたが、つまりあたしは転生したみたいなのだ。男爵令嬢コレットに。
前世の記憶が、コレットの体と心に、まるでもともとあったかのように馴染んでいく。もとから一つの魂だったかのように。
そのあいまいな融合は、時としてあたし自身を誰なのかわからなくさせるほどだった。
そして今、二人のあたしが混ざり合って今のコレットに成り果てた。
混ざり合う前のあたしはただの田舎貴族の娘だった。
貴族と言えど質素な暮らしで、侍女を雇う余裕のないうちの家であたしはメイド紛いの仕事だってした。洗濯板で泥だらけの服を洗ったり、朝早くから庭の掃除をしたりした。アフタヌーンティーの供のスコーンは自分で焼くことが多々あったし、それをつまみ食いすることがささやかな楽しみだった。
正直、人生にこれ以上の刺激はないだろうと、半ば諦めていた日々だった。だからこそ、転生という非日常が、当初はただの『体験』として心を揺さぶったのだ。
転機は十五歳の誕生日。
王都に別邸を持てるほどの裕福な貴族ならばそこに人を招き、豪勢なパーティーを開くことだろう。あわよくば将来の伴侶をそこで見つけるのかもしれない。
我が家は良縁を見つけようと思うと、縁戚を頼って社交シーズンだけ王都に向かうくらいだ。
誕生日なんて些末な祝い事であるだけで、日々の夕食が少し贅沢になるくらいだ。
そうして迎えた誕生日。いざ晩餐をとカトラリーを手に、家で一番高価な銀食器を前にして激しい頭痛があたしを襲った。
痛みに耐えかね気絶して、目覚めた後にはもうあたしは混ざり合っていた。
記憶を取り戻した当初は突然頭の中に湧いた記憶の濁流に驚愕した。それと同時に歓喜さえ覚えた。
平凡で、何も特別なことなんて起こりえない人生だと思ったのに。転生というものをこの身で体験するとは! まるでフィクションの主人公になったかのような高揚感に包まれ、これからの非日常に胸を躍らせた。
しかし混ざり合った記憶を整理し、自分の身辺を冷静に分析した結果、あたしは顔面蒼白になり、文字通り絶望の淵に立たされた。
目に入ったのは、学園の入学案内。そこに記された見覚えのある校章と、自分の名前。そして、頭の中で再生された、あのゲームのオープニングムービー。
「まさか、あのゲームの、あのコレットに転生するなんて……!」
再び鏡の中の少女が溜め息をついた。
鏡を見ては、もう何度も何度もこうしてぐだぐだと悩み続ける。
この顔には見覚えがある。あのゲームには熱中したのだ。
転生なんてものをしたのだ。あたしの驚けるゲージの針はすでに振り切れており、今さらその世界がフィクションだからと驚きはしない。そこは、もうどうでもいい。一番の問題はそこではない。
「どうして、あたしが主人公ポジションなの……」
鏡の中のあたしはとうとう頭を抱えた。
これが今のあたしを取り巻く現実だと思いたくない。
男爵令嬢コレットは主人公だ。この、中世モデルの学園乙女ゲームの。
だけど物事はそう単純ではないことをあたしは知っている。ただの転生じゃない。ただの主人公じゃない。
――ここは悪役令嬢ものの世界だ。
あたしは下剋上される主人公ヒロイン。転生先が、よりにもよって『乙女ゲーム』の主人公ポジション。しかも、流行りの『悪役令嬢もの』における、いわゆる『ざまぁ』される側のヒロインなのだ。
わかるよ! だってそういう流行りじゃん!
セオリーならあたしはハイスペック悪役令嬢にさよなら逆転ホームランされて悲惨な生活を送ることになるのだ。
華やかな未来が待っているはずの主人公なのに、なぜよりによって私が、こんな破滅確定コースの主人公に?
ざまぁの標的にされて人生ジ・エンド。なんという絶望なのか。
神様、あたしが何をしたと言うのですか。
破滅エンドを回避しようにも、回避フラグなんてどこにもなかった。
あたしが混乱のうずにいるうちに、あれよあれよと物語の学園に入学が決まっていた。
チラッと目線だけあげて鏡の中の自分と目を合わせる。
コレットは十六歳の少女だ。
本来なら明るい未来を夢見てキラキラと輝くはずだ。
まだ華開いていないけれど。特別なものなんて何も持っていないけれど。
ゲームだなんだのそんなこと関係なしに、どうせなら素敵な恋がしたい。
「無理だろうなぁ」
諦めを悟った独り言が、誰に拾われるわけもなく部屋の中に落ちた。