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19 真珠のドレスと呪いの足音

 鏡の中に映る自分に、コレットは思わず目を瞬かせた。

 そこにいたのは、いつもの地味な男爵令嬢コレットではない。


 ヘンドリック様が用意してくれたドレスは、あたしにこれまでの人生で袖を通したことのない、まさに夢のような一着だった。滑らかなシルクが光を浴びて淡い真珠のように輝き、肩から胸元にかけての繊細なレースが、あたしの貧相な体を華やかに彩っていた。スカートは幾重にも重なったチュールが優雅な広がりを見せ、まるで別の人間になったかのような錯覚を覚える。


(こんなに素敵なドレス……あたしなんかが着ていいの?)


 喜びと同時に、戸惑いが胸に広がる。


 ヘンドリック様の気遣いはありがたい。しかし、貧乏男爵令嬢であるあたしのために、ここまで豪華なドレスを用意してくれた彼の真意を測りかねた。

 彼の好意を素直に受け取るには、あたしはあまりにも庶民的だからだ。


 それでも、今夜の目的はドレスを着飾ることではない。

 『呪い』の手がかりを探すこと。この夜会が、閉ざされた真実への扉を開く鍵になるかもしれないのだ。

 あたしは、自分に言い聞かせるように、ドレスの裾をそっと撫でた。



 ヘンドリック殿下を乗せた馬車が、あたしの仮住まいである寮の前まで迎えに来てくれた。

 純白の燕尾服に身を包んだ彼は、まるで絵画から抜け出たような美しさだ。


 彼は恭しく手を差し伸べ、あたしをエスコートする。彼の隣に並び立つと、あたしのドレス姿をまじまじと見つめ、口元に優しい笑みを浮かべた。


「似合っているよ、コレット。今夜の君は、どんな宝石よりも美しい」


 歯の浮くようなセリフも、彼が口にすると様になっていた。彼の言葉に、あたしの頬は熱くなる。

 彼が差し出した手を取り、あたしはまるで夢を見ているかのように馬車に乗り込んだ。



 マクシム様のタウンハウスは、あたしの実家とは比べ物にならないほど壮麗な佇まいだった。

 広大な敷地には、すでに多くの馬車が停まり、華やかな貴族たちが次々と屋敷の中へ吸い込まれていく。煌びやかな門をくぐり、屋敷の扉が開かれると、まばゆい光と喧騒が押し寄せた。

 広々としたホールには、きらびやかな装飾が施され、無数の燭台が揺らめき、壁には豪華な絵画が飾られている。社交界の華やかな面々が、グラスを片手に談笑し、優雅な音楽が響き渡っていた。


「緊張しているようだな、コレット」


 ヘンドリック様があたしの手を優しく握り、囁いた。その温かさに、少しだけ強張っていた体が和らぐ。


「ええ、あまりこのような場には慣れておりませんので……」

「心配いらない。君のままでいればいい」


 彼の言葉に勇気づけられ、あたしは深呼吸をした。


 会場にはすでに多くの貴族たちが集まっていた。その中には、学園で見慣れた顔もいくつか見える。

 今は感傷に浸っている場合ではない。あたしは、マクシム様、そして『呪い』に関する情報を得るために、この場に来たのだから。


「ヘンドリック殿下。本日はようこそおいでくださいました」


 最初に声をかけてきたのは、主催者であるマクシム様だった。

 彼もまた、夜会に相応しい華やかな装いだが、その目の下には深い隈が浮かんでいた。


 彼はヘンドリック様がルイーズ様でなくあたしを伴っていることに、関係について何かを探るような視線を向けたが、ヘンドリック様はただ穏やかに微笑み返すだけだった。


「マクシム殿、今夜はお招きいただき感謝申し上げる。このような盛大な夜会を催すとは、公爵家の威光が見て取れる」


 ヘンドリック様が流れるような動きで挨拶をすると、マクシム様は満足そうに頷いた。



 その時、マクシム様の隣に立つ、見慣れた顔に気づいた。

 ミシュリーヌ伯爵令嬢だ。彼女はあたしを一瞥すると、露骨に眉をひそめた。


「ご機嫌麗しゅう、殿下。しかし些か、この場にふさわしくないお方をお連れで」


 いつものように辛辣な言葉が飛んできた。

 あたしは思わず身を縮ませたが、ヘンドリック様がすかさずあたしの肩にそっと手を置いた。


「ミシュリーヌ嬢。彼女は私のパートナーだ。あまり無礼なことは言わない方が良い」


 ミシュリーヌはヘンドリックの言葉に一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直した。

 彼女は露骨にヘンドリックの足元からあたしのドレス、そして再びヘンドリックの顔へと視線を巡らせた。

 その視線は、まるでヘンドリック様が立場を忘れているとでも言いたげに、明らかな非難と侮蔑を含んでいた。

 ヘンドリック様は顔色一つ変えず、ただ静かにミシュリーヌ様を見つめ返した。その場の空気が一瞬で凍り付いたような気がした。



 その後も、あたしはヘンドリック様と共に様々な貴族たちと挨拶を交わした。

 彼はあたしを常に気遣い、あたしの言葉に耳を傾けてくれた。


 しばらくして、ヘンドリック様が別の貴族に呼ばれ、あたしは少しの間、一人になった。その隙を逃すまいと、あたしは周囲に目を凝らす。

 マクシム様は、相変わらず顔色が悪く、時折、遠くを見つめるようなぼんやりとした視線を向けていた。


 ミシュリーヌ伯爵令嬢の姿を探すと、彼女は今、数人の貴婦人に囲まれ、少し離れた場所で談笑していた。


(今だわ! ミシュリーヌ様が一人になった隙を狙うなんて、まさかこんなチャンスが巡ってくるなんて……!)


 先ほどの露骨な非難の視線が脳裏をよぎり、あたしの足は思わずすくんだ。

 彼女があたしを快く思っていないのは明らかだ。下手に近づけば、また辛辣な言葉を浴びせられるだろう。


 それでも、マクシム様の苦しむ姿を思い出すと、このまま立ち止まっているわけにはいかない。

 あたしは、意を決してミシュリーヌ様の元へと足を踏み出した。


 貴婦人たちとの会話が途切れ、ミシュリーヌ様が飲み物に手を伸ばした、その一瞬の隙をあたしは見逃さなかった。


  「ミシュリーヌ様、ごきげんよう」


  あたしは、精一杯の笑顔を作り、声をかけた。

 ミシュリーヌ様はあたしの方を見ると、案の定、冷たい視線を向けた。


「あら、コレットさん。このような場所で私に話しかけるとは、よほど肝が据わっていらっしゃるのね」


 その声には、嘲りが含まれている。あたしの心臓は嫌な音を立てるが、ここで引き下がるわけにはいかない。


「恐縮ですが、ミシュリーヌ様にお伺いしたいことがございまして……マクシム様は、最近お顔色があまり芳しくないように見えますが、何かご心労がおありなのでしょうか?」


 努めて穏やかに、しかし、一歩も引かない覚悟を込めて問いかけた。

 ミシュリーヌ様の眉間に、不快そうなしわが寄る。


「それは、コレットさんには関係のないことですわ。それに、貴族の病状を公の場で尋ねるとは、いささか無作法ではございませんか?」


 彼女の言葉は刺々しい。

 しかし、あたしは怯まない。ここで引き下がれば、きっと後悔する。


「申し訳ありません。ですが、マクシム様が大変心配でして……最近、奇妙な『呪い』の噂話も、耳にしましたし」


  あたしは、引っ掛けのつもりで『呪い』の単語を口にした。

 ミシュリーヌ様の目が、あたしをじっと見つめる。その奥には、わずかな動揺のようなものが垣間見えた。


(ミシュリーヌ様が反応を見せるということは、この方も何か知っているんだわ)


 ミシュリーヌ様はしばらく沈黙した後、あたしのことを睨みつけた。

 周囲をちらりと伺い、声を一段階落とした。


「マクシム様が魘されているのはここ最近の話ではありません。ええ、昔からのことですわ。ありもしない幻影をいつまでも見て……あの方の関心など、もうマクシム様にないというのに……」


 ミシュリーヌ様は苛立ちを隠そうともせず、あたしにしか聞こえないほどの声で語った。


 幻影とミシュリーヌ様は言うけれど、彼女の目にもその『幻影』が見えているかのようだった。

 その瞳の奥には、恐怖など微塵もなく、ただ、マクシム様の現実離れした妄想に対する、深い苛立ちと侮蔑が宿っているように見えた。

 ミシュリーヌ様はその幻影の正体を知っている風であったが、同時に現実を見ないマクシム様を侮っていた。



「それはともかく、コレットさん。わたくしが今、貴女に話したことは、公爵家にとって極秘の情報ですわ。 そして今夜のあなたの不適切な行動については、今度じっくりとお話させていただく必要がありますわね。そう、学園に戻った後にでも」


 ミシュリーヌは、あたしを冷たく見下ろしながら、最後にそう言い放った。忠告を無視したことに対する激しい非難が込められていた。

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