18 書庫の誘惑
魔女に会って以来、あたしの心はさらに深く波立っていた。
呪いは実在し、それはあたしにも関わりのあるものだった。
マクシム様の異変、そしてジルベール様や魔女の言葉が近頃感じている『気持ち悪さ』が、あたしの頭の中で不穏な繋がりを見せ始めていた。
確かな手応えはなかったが、それでも、何も知らなかった頃よりは、わずかながらの前進だった。
そんなある日の午後、あたしは図書室へ向かうため、学園の敷地内を歩いていた。
思考は、自分に迫る運命の気配のことで頭がいっぱいだった。
ふと、遠くから剣の打ち合う音が聞こえてくる。学園の訓練場だ。近衛騎士団の若手騎士たちと、学園の選抜生徒たちが合同訓練をしているのだろう。
普段なら素通りするのだが、この漠然とした不安の中で、なぜか訓練場の熱気が気になった。
少しだけ足を向け、生垣の隙間から覗き込む。
エディーが汗を流しながら、騎士団員と真剣に打ち合っているのが見えた。彼の動きは以前にも増して洗練されていて、あたしは思わず見入ってしまった。
エディーの鍛錬には、どこか痛々しいほどのひたむきさがあった。彼の剣筋には迷いがなく、ただひたすら強くなろうとする純粋な意志が見て取れる。
その時だった。あたしはエディーから視線を外し、進行方向である渡り廊下の先を見た。そこに、誰かが静かに立っているのが見えた。
黒い髪をたなびかせたその人は、紛れもなくルイーズ様だった。彼女は微動だにせず、ただまっすぐに訓練場に目を向けていた。
その表情は、普段の冷徹な仮面が剥がれ落ちたかのように、どこか柔和で、そして……寂しそうに見えた。まるで、手の届かない遠い場所にいる何かを、ひたすら見つめているかのようだった。
あたしは、その光景に息を呑んだ。ゲームの「悪役令嬢」としてのルイーズ様のイメージとは、あまりにもかけ離れた表情だったからだ。
あたしがルイーズ様を見つめていると、彼女の視線がふと、あたしのいる方へと向けられた。
一瞬、鋭い光が宿った彼女の瞳は、あたしを見つけるとすぐにいつもの感情を読み取れない表情に戻った。
「あら、コレット嬢。こんなところで会うなんて。図書室にでも用事が?」
その声には、先ほどのような柔らかさは微塵もなかった。まるで、感情の起伏を見せたことが、彼女にとって不本意であったかのように。
「は、はい……ここには、たまたま、通りがかって……」
しどろもどろになるあたしに、ルイーズ様は訓練場を一瞥し、静かに言った。
「そう、それは良いことね。あなたの突飛な発想も、知恵を身に着ければ役に立つ日も来ることでしょう。そして、彼らのように努力する姿勢を学ぶと良いわ。身分に甘んじる者ばかりでは、国は立ち行かなくなる」
その言葉は、まるであたしだけではない、他の誰かをも含めてを戒めているかのようだった彼女が言っているのは、表面的な努力論ではない。もっと、深い何かを指している気がした。
「わたくしはこれで。ごきげんよう、コレット嬢」
ルイーズ様はそう言い残すと、振り返りもせず、颯爽と立ち去っていった。
彼女の背中は、どこまでも孤高で、そして……どこか痛ましく見えた。
ルイーズ様が完全に視界から消えた頃、訓練を終えたエディーが、汗を拭いながらあたしの方へ走ってきた。
「コレット! こんなところで何を?」
「エディー、今さっきまで……ルイーズ様が、ここで訓練を見てたのよ」
あたしがそう告げると、エディーの動きがぴたりと止まった。
彼の顔から血の気が引き、普段の明るい表情が、途端に複雑なものに変わった。一度は視線を伏せたものの、すぐにルイーズ様が去っていった方向を、まるで何かを期待するかのように、まっすぐに見つめた。その瞳には、動揺と悲しみだけでなく、微かな希望の光が宿っているように見えた。
「……え、あ、そう、ですか……」
エディーはぎこちなくそう呟いたが、その表情はどこか晴れやかで、まるで、自分の努力が報われたかのような喜びを必死に隠しているようだった。
エディーとはその後すぐに別れた。エディーは「まだ鍛錬の途中だから」と訓練場に戻っていった。
あたしの足はそのまま図書館へと向かった。
ジルベール様も魔女も、『呪い』について何も語らない。残る手がかりは、ジルベール様の「呪いは古い文献の中にしか存在しない」という言葉だけだった。
魔女や呪いに関する文献を調べ始めた。しかし、公にされた書物には、『呪い』に関する具体的な記述はほとんど見当たらない。
図書館の膨大な蔵書の中から、ごくわずかな手がかりを探し出す作業は、まるで砂漠で一粒の砂を見つけるようだった。深い謎に隠された文献を探し出すのは、あたし一人の力ではあまりにも困難だった。
手がかりが見つからず、次第に焦燥感と疲労が募っていく。
マクシム様の異変が脳裏をよぎるたび、早く何か手掛かりを見つけたいと、胸が締め付けられた。
眉間にしわを寄せ、古びた書物のページを必死に繰っていた、その時だった。
「随分と難儀しているようだね、コレット。今は何の科目に苦戦しているのか?」
親しげな、しかしどこか見透かすような声に、あたしはビクリと肩を震わせた。
振り返ると、そこにはヘンドリック様が立っていた。その双眸の奥には、あたしへの気遣いの色があった。
「ヘンドリック様……いえ、勉学ではなく、個人的な少し調べ物を……」
「その様子では、あまり芳しい結果は得られていないようだな。気分転換が必要だろう?」
ヘンドリック様は、あたしの表情を見て、成果が得られていないことを容易に見抜いた。手にしていた本をちらりと見て、すぐに視線をあたしの顔に戻した。
彼の声は優しく、あたしの疲労を見抜いているようだった。
「実は、近々夜会が催される。この国の政治家や学者が集まる、有意義な場になるだろう。学園に通う者も何人か参列する。本来ならルイーズが同伴するはずだったのだが、そのような場には出向かないと断られてね。そこで、急な話で悪いのだが、君に代役を務めてもらえないだろうか?」
あたしは思わず息を呑んだ。
夜会……。こんな状況で、社交の場に出るなど考えられない。
けれど、ヘンドリック殿下の真っ直ぐな視線に、拒否の言葉は喉に詰まった。
(先ほど顔を合わせたルイーズ様が、公の場を断ったと? いくら彼女が断ったとはいえ、公の場に伴うのはルイーズ様であるべきなのに、あたしに代役を頼むなんて……)
彼の行動に疑問を感じつつも、断り切れない自分がいた。
「ですが、私は……」
言葉を濁そうとすると、ヘンドリック殿下はあたしの言葉を遮るように、そっと手を差し伸べた。彼の指先があたしの本に触れ、優しい熱が伝わる。
「心配はいらない、コレット。ただ隣に立っていてくれればいい。君も、少しは息抜きが必要だろう。それに、私が君を伴いたいのだよ」
「君を伴いたい」――その率直な言葉に、あたしの心は揺れた。
彼に個人的な感情があることは理解している。断れば、彼の好意を無碍にすることになる。
そして、何より、このまま図書館にいても、いつ『呪い』の手がかりが見つかるかも分からない。時間だけが過ぎていく。
マクシム様の苦しむ姿が脳裏をよぎり、あたしは無力感に苛まれた。
社交の場に出ることで、新たな情報が得られる可能性も、ゼロではないかもしれない。たとえそれが、彼の思惑の上に乗ることであったとしても。
この誘いは、あたしにとって単なる息抜きではなかった。呪いの謎を解き明かすための、新たな一歩になるかもしれない。
「……場所は、どちらなのでしょうか?」
静かなあたしの問いに、ヘンドリック様の顔がパっと輝いた。
「マクシム殿のタウンハウスだ。彼から是非にと誘われていてな」
「マクシム様のタウンハウス」という言葉が、あたしの心を強く揺さぶった。
マクシム様の異変の謎を追っている今、彼の家なら、もしかしたら何か新しい情報が得られるかもしれない。
あたしは迷った末、意を決して頷いた。
「……分かりました。お引き受けいたします。」
「ありがとう。マクシムに早速出席の返事をしてこよう」
ヘンドリック殿下は満足そうに微笑んだ。
その笑みが、あたしにはどこか複雑で、けれど憎めないものに見えた。