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17 魔女と呪い<後編>

 ジルベール様の占いと、以前アレクシス殿下の口から語られた「不吉の予兆」という言葉は、あたしの心を重く覆い尽くした。


「なぜ、君は呪われていないんだろう」。その言葉が、耳の奥で何度も反響する。


 あたしが唯一の指針としていたゲームのシナリオは、この世界の真実の前には無力だった。

 マクシム様とミシュリーヌ様が人目を憚らず言い争う。そして、ジルベール様の口から飛び出した「呪い」の存在。


 あたしは『ざまあ』展開を恐れて見て見ぬふりをしてきたけれど、もう認めざるを得なかった。この世界は、あたしの知るゲームとは全く違う。『何か』が『おかしい』のだと。


 しかし、この根源的な違和感について、誰にも相談できない。あたしの内心の孤立感は、日を追うごとに深まっていった。



 そんな中、あたしは身近な場所で、その『おかしい』の具体的な兆候を目にする。


 それは、マクシム様だった。

 彼は日に日に疲弊しているように見え、授業中にうつろな表情で一点を見つめたり、廊下で誰かに怯えるかのように周囲を見回したりする姿が頻繁になった。


 ある日の昼下がり、図書館で課題に集中していたあたしは、すぐ近くの席から、ひそやかなうめき声が聞こえるのに気づいた。

 顔を上げると、そこにいたのは、参考書を広げたまま、目を閉じ、苦しそうに顔を歪めているマクシム様だった。


 彼の眉間には深い皺が刻まれ、顔色は青ざめ、額には冷や汗が滲んでいる。唇は無言のまま、何かを訴えるかのようにかすかに動いており、まるで悪夢にうなされているかのようだった。

 しかし、彼は眠っているわけではない。その瞳は固く閉じられているのに、体は小刻みに震え、まるで何かに抵抗するかのように、指先が参考書のページを強く握りしめていた。



 ふと、彼の耳元から、誰もいないはずの空間から、微かな、低い声の囁きが聞こえてくるような気がした。


 そして、その直後だった。マクシム様は、まるで何かに飛びつかれるかのように、大きく息を吸い込むと、ガタリと椅子を鳴らして体を起こした。

 その瞳はまだ焦点が定まらず、恐怖に満ちて虚空を彷徨っている。彼は、あたしの存在に気づくことなく、両手で頭を抱え、まるで幻聴を振り払うかのように、強く耳を押さえた。


「や、止めてくれ……もう、やめてくれ……」


 消え入りそうな声で、彼はそう呟いた。その言葉は、悲鳴にも似て、あたしの胸を締め付けた。その視線は、まるで特定の誰かに怯えているかのように、一点に釘付けになっている。


(まさか……これが、『呪い』なの?)


 あたしは直感的にそう感じた。

 ジルベール様の言葉が、遠い真実ではなく、今、目の前で現実のものとして迫っている。その事実が、あたしに恐怖と、得体のしれない危機感を植え付けた。

 マクシム様の異変を目にするたび、いてもたってもいられなくなる。この状況をどうにかするには、もっと具体的な情報が必要だ。



 週末、あたしは誰にも告げずに街の外れへと向かった。『嘆きの森』は手入れもされておらず、その奥には昼間だというのに薄暗く、木々が鬱蒼と生い茂る道が続いている。


(怖くない、怖くない……)


 心の中で何度も自分に言い聞かせながら、あたしは一歩、また一歩と、薄暗い森の奥へと足を踏み入れた。

 ゲームのシナリオにはない、全く未知の領域へ。

 この先に何が待ち受けているのか、期待と不安、そして得体のしれない緊張が、あたしの胸で大きく波打っていた。


 森の奥へ進むにつれ、空気は一層冷たくなり、獣道すらも消えかけた。木々の枝が複雑に絡み合い、頭上を覆い隠すため、陽の光はほとんど届かない。足元は湿った土と落ち葉で柔らかく、踏みしめるたびに微かな音がするだけだ。

 静寂の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。



 どれくらい歩いただろうか。あたしは、ようやく木々の間が少し開けた空間に出た。

 そこには、古びた木造の粗末な小屋が建っていた。壁は朽ちかけ、窓は板で打ち付けられている。小屋の周囲に、奇妙な薬草が吊るされされ、独特な匂いをあたりに漂わせている。

 ただひっそりと、時間の流れから取り残されたかのように佇んでいた。


 小屋の入り口には、古びた椅子に腰掛ける一人の老婆の姿があった。深く刻まれた皺が顔中に走り、目元は窪んでいる。

 彼女は身につけている粗末な布切れと同じように、この森の風景に溶け込んでいるかのようだった。何かをしているわけでもなく、ただぼんやりと、虚空を眺めている。

 その瞳には、感情の機微は読み取れず、ただ深い無関心だけが宿っていた。


 あたしは意を決して、ゆっくりと老婆に近づき、声を絞り出した。


「あ、あの……あなた様が、魔女様でしょうか?」


 老婆は、まるで遠い場所から聞こえてきた音に反応するかのように、ゆっくりと顔をあたしに向けた。

 その視線は、あたしを値踏みするでもなく、敵意を向けるでもなく、ただそこに「存在」していることを確認するような、無感情なものだった。


「ヒヒッ。来ると思ったよ。いいや、知っていた、と言う方が正しいかねえ?」


 老婆は鼠のように甲高く笑い、その口端を吊り上げた。童話に出てくるような魔女然とした態度に、あたしの背筋は恐怖でしゃんと伸びた。


 あたしの質問にはっきりとは答えなかったけれど、彼女の返事で、老婆が噂の魔女その人であることは明白だった。


「あ、あの、その……あたし、呪いについて何か知らないか、お聞きしたくて……!それで、今日あなたをお訪ねしました」


 藁にもすがる思いで、あたしは尋ねた。マクシム様の異変が、あたしをここまで追いやったのだ。


 魔女はあたしの言葉に対し、すぐに答えることはなかった。不気味な笑みを浮かべたまま、その窪んだ瞳で、あたしをじっと見つめ続ける。その沈黙は、あたしの心を重く圧迫した。


「呪い……。そんなことを私に聞くのはお前で二人目だ」


 やがて魔女は簡潔に、しかし有無を言わせぬ響きでそう告げた。その声には、一切の感情がこもっていない。ただ事実を述べるだけ。

 しかし、その言葉は、あたしの心臓を鷲掴みにした。二人目? 一体誰が、あたしと同じように『呪い』についてこの魔女に尋ねたというのだろう?


 魔女はあたしの戸惑いを気にする様子もなく、淡々と続けた。


「呪いを焚き上げる原料は、大火より激しく燃え上がる怒りと、底無しの沼より深い憎しみと、そして先へ進むことを恐れぬ激情にも似た執着心だ。だが、お前にはそのどれもが足りないようだ」

「原料、って……いえ、あたしが誰かを呪いたいんじゃなくて、呪いが何なのかを知りたくて!」

 あたしは慌てて否定した。


「おや? 違ったのかい?」


 魔女はきょとんとした。その反応に、あたしは焦りながらも言葉を紡いだ。


「同じ学園にいる魔導師様がおっしゃったんです。『呪いがまた濃くなった』、って……それって誰かが、誰かのことを呪っているってことですよね? 街ではあなたのことが噂になっていました。人を呪う、不幸を呼ぶ魔女がいる、って。でもジルベール様は魔導師や魔女にはそんな力ないとも断言していたんです!」


 あたしは堰を切ったように、ここ最近抱えていた不安と疑問を一気にぶつけた。魔女はあたしの言葉を遮ることもなく、ただ無言で聞いていた。


「あたしにはある理由があって、毎日、起こるかもしれない未来を避けるように生きています。あたしにはその未来が起きうる可能性をはっきりと感じ取れるから。でもここ最近の『気持ち悪さ』はその未来じゃない。何か、もっと薄暗い何かが、その『気持ち悪さ』の原因なんです。そして、きっとそれは『呪い』を指しているんです」


 あたしの声は、次第に切実さを帯びる。

 今まで誰にも言えなかった核心に触れる言葉を、なぜこの老婆に打ち明けているのだろうかという戸惑いもあった。

 しかし、マクシム様の苦しむ姿が、あたしを突き動かしていた。


「最近のマクシム様だってそう。何かに魘されていて、怯えていた……きっと、あれが『呪い』なんですよね!?」

「マクシム?あの議員の?」


 魔女の言葉に、あたしは首を傾げた。


「議員? いいえ、彼はまだ学び舎の生徒ですから、そんなに政治の中心にはいらっしゃらなかったと思います。別の方のことでしょうか?」

「ああ、いや……なんでもないんだ。人違いだろう。忘れとくれ」


 魔女はそう言って、再び虚空に視線を戻した。いや、睨みつけると言った方が正しい表現かもしれない。

 その瞳には、あたしには理解できない、何か遠いものが見えているようだった。


「お前の知る魔導師、ジルベールと言ったね。そいつは『呪いが濃くなった』と、そう言ったんだね?」


 あたしは急いで首を縦に振り、肯定した。

 魔女はまた暫し考え込んだ。その間も、あたしは魔女の視線の先に何があるのか、必死に探そうとしてしまう。


「……中へお入り。お前のその話だけじゃあ、まだ何もわからないし、語れない」


 魔女はそう言って、初めて小屋の奥に目を向け、あたしを招き入れた。その声には、わずかながらも苛立ちのようなものが含まれているように感じた。



 小屋の中には、乾いた薬草の独特な匂いが充満していた。

 その部屋の中央にある古びた机の上には、ポツンと、ジルベール様が持っているような水晶玉が置かれていた。

 魔女はその前に座ると、向かいに置かれた粗末な椅子に掛けるよう顎で示した。


 魔女は水晶玉に手をかざし、時々眉を顰めながら、しばらくその奥の奥を凝視していた。その表情は真剣そのもので、先ほどの作りこまれた不気味さとは打って変わっていた。


「ジルベールというやつが、どんな呪いだとか、詳しく話したのかい?」

「いいえ、彼は言葉が少ないですから。……ただ、先ほど言ったように『濃くなった』、とだけ」

「……ふうむ。複雑だ。糸が複雑に絡んでいて、その全容が見えない」


 魔女は一度、水晶玉から手を離し、何かを考えるように指先で机を叩いた。


「その糸の一本は確かにお前に繋がっているのに、なぜかお前は『呪われていない』」

「ジルベール様も同じようなことをおっしゃっていました」


 魔女は水晶玉を覗き込むのを止め、あたしの顔を見つめた。その瞳は相変わらず感情を宿さないが、あたしの存在を確かめるかのように真っ直ぐだった。


「呪いはある。今もその呪いは続いている。だが、私がお前にその主を明かすことはない」


 それは、きっぱりとした拒絶の言葉だった。あたしの肩がわずかに跳ねる。


「ただ一つ言えるのは、私が見る限り、その子自身の呪いは全盛より『薄くなっている』んだよ」

「それは、どういうことなのですか?」


 あたしは焦って問い返した。せっかくここまで来たのに、肝心な部分が分からない。


「さて。呪われた側が自ら呪いを深めているのか、別の誰かが呪いを重ねているのか……そこまでは見えなかった。占いは、『ただ光を求めて進め』とだけ言っている。最後に決めるのは、己自身の選択だ」


 魔女は再び水晶玉に視線を戻し、再びこの場は沈黙に包まれた。

 あたしは、魔女から得た断片的な情報と、深まるばかりの謎を抱え、その場に立ち尽くすしかなかった。

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