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15 凍てつく剣と、見えない溝

 学園の武術棟へ向かう廊下は、生徒たちの活気に満ちた声と足音で賑わっていた。

 そんな喧騒の中、あたしとエディーは、さっきまでの重い会話を引きずるように、静かに並んで歩いた。


 武術棟に入ると、剣がぶつかり合う乾いた音と、生徒たちの気合の声が飛び込んできた。練習場は、すでに数名の生徒が準備運動をしたり、軽く剣を交わしたりして、熱気に満ちていた。


「エディー! 遅かったじゃないか!」


 練習場の中央から、明るく、しかし少し不満げな声が飛んできた。声の主は、アレクシス殿下だった。

 彼はすでに練習着に着替えていて、手に持ったフルーレを軽々と回しながら、あたしたちの方へ早足で近づいてくる。その表情は、早く試合がしたいと待ち望んでいる子どものようだった。


「お前と試合するのを楽しみにしていたんだぞ! 早く準備してこい!」


 アレクシス殿下は、エディーの肩をぽんと叩くと、そのまま練習場の中央へ戻っていった。エディーは苦笑いを浮かべながら、あたしに軽く会釈して着替えに向かった。


「……随分と人気者だな、エディー。庶民なのに、殿下にまであんな風に覚えられてて、本当にすごいなあ……」


 あたしは、彼の背中を見送りながら小さく呟いた。

 アレクシス殿下までエディーとの試合を心待ちにしているなんて、やはりエディーは只者ではない。改めて、彼の努力と才能に感銘を受ける。



 エディーが着替えのために更衣室へ向かうと、入れ替わるように、あたしの横に人影が立つのが分かった。

 振り返ると、そこには完璧な笑みを張り付けたミシュリーヌ侯爵令嬢が立っていた。

 彼女は、あたしを値踏みするような視線で一瞥すると、静かに口を開いた。


「あら、コレットさん。奇遇ですわね」


 その声は、周囲には聞こえないほどひそやかで、しかし確かな冷たさを帯びていた。


 淑女の仮面の下に隠された、底知れない感情。あたしは反射的に身構えた。

 これほどまでに直接的に、『攻略対象』の婚約者から声をかけられるのは初めてだ。

 身の丈に合わない貴族社会の深淵に触れるような背筋が凍る感覚に、内心でごくりと唾を飲み込んだ。


「ご、ご機嫌よう、ミシュリーヌ侯爵令嬢様」


 あたしは顔面蒼白になりつつ、どうにか声を絞り出した。

 言葉選びを間違えれば、文字通り首が飛びかねない。


「ご機嫌よう。…エディー様がいらしたようですが、ご友人の応援かしら?」


 ミシュリーヌ様は、ふわりと笑みを深めた。その瞳はあたしの横をすり抜け、エディーが消えた更衣室の方向へ、そしてあたしが胸元で握りしめているペンダントへと、一瞬、探るように向けられた。

 彼女があたしの行動を観察していることが、ひしひしと伝わってくる。


「はい、その通りです……ミシュリーヌ様はマクシム様のご様子を?」


 あたしは、警戒しながらも、彼女の目的を探るように尋ね返した。


「ええ、もちろん。これも婚約者の務めですもの」


 ミシュリーヌ様の返答には、一切の淀みがなかった。

 だが、次の瞬間、彼女の瞳の奥にわずかな暗い光が宿るのを見た。そして、彼女の声が一段と低くなる。


「ところで、コレットさん。少々、忠告させていただきますわ」


 彼女は一歩、あたしに近づいた。

 その完璧な笑顔は崩れないまま、しかしその瞳は鋭く、あたしを射抜くように見つめていた。


「あまりあの方のモノに手を出すのは感心しませんわね。ご自身の身分をわきまえ、節度ある行動を心がけるべきでしょう」


 ミシュリーヌ様の視線が、再びエディーが消えた更衣室の方向へ向けられたかと思うと、今度はあたしが握りしめているヘンドリック様からのペンダントへと流れた。


 彼女の言葉は、まるで氷の刃のように、あたしの胸に突き刺さった。笑顔の裏に隠された明確な牽制に、あたしは思わず息を呑んだ。


 ミシュリーヌ様が『あの方』と指すのは、紛れもなくルイーズ様のことだ。

 彼女は、ルイーズ様の婚約者であるヘンドリック様にあたしが近づいたことに警鐘を鳴らしているのだ。



 凍り付くようなミシュリーヌ様の眼差しに、あたしの喉は完全に干上がっていた。背筋に冷たい汗が流れ、胃の奥がキュッと締め付けられる。

 これ以上、何を話せばいいのか、何を言ってはならないのか、思考がフリーズして真っ白になった。まるで、氷漬けにされた蝶のように、身動き一つ取れない。


「ミシュリーヌ、君がコレット嬢と話しているのを見るのは珍しいな」


 その時、すでにフェンシングの練習着に着替え、フルーレを手に持ったマクシム様が氷のような空気を切り裂くようにして近づいてきた。

 彼の視線はミシュリーヌとあたしを交互に一瞥し、その表情にはほんの少しの興味が浮かんでいた。あまり接点のないあたしとミシュリーヌ様が話していることが、珍しくて堪らないと、ありありと表情が語っていた。


「ええ、少しお話ししていただけですわ。ね、コレットさん?」


 ミシュリーヌ様は、あたしに視線を向けながら、完璧な笑顔を保ったまま圧力をかけてきた。

 その目は「余計なことを言えばどうなるか分かっているわね?」と語っているようだった。あたしは、ただ小さく頷くことしかできなかった。


「やあ、エディー。遅かったじゃないか。」


 ちょうどその時、着替えを終えたエディーが更衣室から戻ってきた。彼もまた、練習着に身を包み、手にはフルーレを持っていた。


「今日の一戦目は、私とやらないか、エディー?」

 マクシムは、静かにエディーに剣の切っ先を向けた。

 その瞳の奥には、彼への探るような視線と、どこか冷静な分析の色が宿っていた。まるで、エディーの今日の調子や、彼の内に秘めたものを確認しようとしているかのようだった。


「僕でお相手が務まるかわかりませんが」

「謙遜を。私の方が胸を借りたいくらいだ。では早速始めよう」


 マクシムは笑みを浮かべ、二人はフェンシングのマスクを被った。



「試合、始め!」

 審判の声が響き、二人は剣を構えた。

 マクシム様の剣筋は、貴族の流儀に則った、美しくも効率的なものだった。まるで舞を踊るように優雅に、しかし確実にエディーを追い詰めていく。あたしは息を呑んで見守った。彼の動きは、まさしく貴族が幼い頃から培ってきた練習の賜物といったお手本のような手筋だった。

 一方、エディーはその努力の結晶である攻撃を易々と受け流していた。特待生の片鱗が垣間見える。彼の剣は型にはまらず、予測不能。隙を縫うように、しなやかに、そして時に荒々しくマクシム様の攻撃を受け流し、カウンターを狙う。


 一進一退の攻防が続き、練習場の生徒たちも息を潜めて二人の試合に見入っていた。


 そして、その均衡が破られたのは、ほんの一瞬のことだった。

 マクシム様の鋭い突きを、エディーは寸前でかわし、そのまま流れるような動作で懐に飛び込んだ。マクシム様が体勢を立て直す間もなく、エディーの剣の切っ先が、彼の胸元を正確に捉えた。


「勝者、エディー!」

 審判の声が、練習場に響き渡った。


 二人は剣を下ろし、ゆっくりとマスクを外した。


「参ったな、エディー。君には、いつも驚かされる」

 マクシム様は、静かにそう呟くと、迷いなくエディーに右手を差し出した。勝者への敬意を示す、騎士道に則った振る舞いだ。

 普段の温和なエディーの表情が、その瞬間、きゅっと硬く引き締まる。一瞬躊躇したエディーは、その差し出された手を取り、強く握り返した。

 その握手は、表面的な敬意以上の、互いを認め合う者同士の緊張感に満ちていた。


「しかし、どうしてそこまで努力し続けられるのか、私には理解できないな」


 マクシム様は手を離すと、あくまで冷静な口調で問いかけた。その視線は、エディーの瞳の奥深くを探っているようだった。

 エディーは、答えに窮したように、わずかに視線を逸らした。


「それは……私個人の、ささやかな目標です」

 彼の言葉はどこか歯切れが悪く、多くを語ろうとしない。

「ささやかな目標、か。……もしかして、まだあの御方への未練があるのか? 君の才能を、そんな不確かなものに注ぎ込むのは、もったいないと私は思うのだが」


 マクシム様は、あくまで客観的な事実を述べるかのように、淡々と続けた。

 「あの御方」というのが誰を指しているのかあたしにはわからなかった。しかし、その言葉がエディーにとって核心を突くものであることは、彼の硬い表情から見て取れた。


 エディーは、質問には答えず、ただ無言でマクシム様の視線を受け止めていた。その沈黙は、肯定を示しているかのようだった。


「やはり、そうか。エディー、もう忘れるといい。あの女は、決して褒められるような人格者ではない。君の才能は、もっと他に活かされるべきだ。私には理解できないな。なぜ君がそこまで、あんな女に執着するのかが」


 マクシム様の言葉は、まるで氷の雨のように、容赦なくエディーに降り注いだ。彼の表情は変わらないが、その声には、冷徹なまでの軽蔑が滲み出ていた。

 エディーの瞳の奥に、静かな怒りの炎が灯るのが見て取れた。

 彼の拳が、かすかに握り締められる。



「マクシム様!」



 その時、甲高い静止の声が飛んだ。

 あたしの隣で、これまで黙って試合を見届けていたミシュリーヌ様が鋭く息を吸い込むような音を立てていたことに、あたしは気づいた。


 そして、その一瞬の後、彼女はまるで静かな怒りを噛みしめるかのように、マクシム様へと向かって一歩一歩、確固たる足取りで歩み寄った。


 ミシュリーヌ様は、マクシム様の目の前に立つと、彼を射抜くような視線で睨みつけた。


「あなたという方は、いつまでそうして、あのお方を愚弄し続けるおつもりなのですか」


 ミシュリーヌ様の声は、低く、静かだったが、その中に潜む怒りの波動が、練習場の空気を震わせた。

 それは問いかけというより、氷のような断罪の響きだった。


 マクシム様は、びくりと肩を震わせたものの、ミシュリーヌ様の鋭い視線から目をそらした。その完璧な表情に、微かな翳りが差す。


「愚弄などと……ただ、事実を申し上げているまでだ。あの女が、この国に何をもたらしたか、忘れたとでも言うのか」


 彼の声はかすれており、どこか自信のなさと、そしてなぜか怯えが滲み出ていた。

 ミシュリーヌ様は、ゆっくりとマクシム様の目の前に立った。その視線は、彼を完全に捕らえている。


「事実ですって? あなたが、ご自身の憎しみに囚われ、あの方の変化から目を背けている、それが事実です。 現実を直視できないあなたが、これ以上あのお方を愚弄することを、私は見過ごせません」


 彼女の言葉は、感情を抑えているにもかかわらず、剣のように鋭く、マクシム様の胸に突き刺さる。その苛烈さが、かえって練習場の空気を一層凍てつかせた。


 周囲の生徒たちは、皆、存在を消すように身を縮めている。私もまた、心臓が小さく縮むのを感じた。

 まるで、転生前の世界で、大切な人が、深い溝を挟んで向き合っているのを見ているような、胸の痛みを感じた。



 こんな話は『シナリオ』にはなかった。あたしは、目の前の光景に思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 この前中庭でマクシム様とお話した際、確かに最近すれ違っているとおっしゃっていたが、まさかここまでとは。


 このままでは、練習場の空気が最悪になり、周りの生徒にも迷惑がかかってしまう。


「まあまあ、二人とも。お前たちの仲がいいのは知っているが、練習場にまで痴話喧嘩を持ち込むのはよくないな!」


 その時、練習場の奥から、先ほどと同じよく通る声が、張り詰めた空気をあっさりと切り裂いた。

 声の主は、額に汗を浮かべたアレクシス殿下だった。

 彼は不満げな顔で、マクシムとミシュリーヌ、そしてエディーの間に無遠慮に割り込んできた。


「エディーも。私より先にマクシムと試合をするなんて、妬けるじゃあないか。待っていたと言っただろう? さあ、次は私とだ。それとも休憩を挟むか?」


 アレクシス殿下は、そう言って豪快に笑った。

 彼の無邪気なまでの無神経さは、凍り付いた空気を溶かすというよりも、別の次元から爆弾を投下したような衝撃を与えた。


 場は一瞬にして、先ほどの冷戦とはまた異なる、絶妙な気まずさに包まれた。

 そのあまりの無神経さに、ミシュリーヌ様は一瞬、眉をひそめた。気がそがれたらしい。彼女は何も言わず静かにその場を立ち去ってしまった。


 マクシム様も、殿下の言葉に眉をひそめたが、もはや反論する気力も失せたようだった。

 彼は静かにエディーと殿下から視線を外し、あたしの横をすり抜けるようにして、練習場の隅へと歩いていく。その背中からは、言いようのない疲労と、複雑な感情が滲み出ていた。


 エディーは、アレクシス殿下の発言に、苦笑いを浮かべていたが、その瞳の奥には、どこか諦めにも似た諦観と、かすかな痛みが宿っているように見えた。

 彼は視線をあたしに向け、ごめんね、と唇だけで呟いた。


「よし! エディー、行くぞ!」


 アレクシス殿下は、何も気にする様子もなく、嬉々としてエディーを次の試合へと誘った。エディーは小さくため息をつくと、殿下の相手をするべく、再びマスクを被った。


 あたしは、再び張り合うように剣を交わし始めたアレクシス殿下とエディー、そして背を向けて佇むマクシム様の姿を眺めた。


 ゲームのシナリオにはなかった「現実」が、あたしの目の前で着実に進行している。この先の展開が、あたしが知っている物語とは全く違うものになるかもしれない。

 そんな予感に、あたしの胸は期待と不安で、大きく波打っていた。

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