14 隠された傷跡と、芽生える理解
ヘンドリック様とのデートから数日が経ったが、あたしの心はまだ、あの日の出来事に囚われていた。
特に、街の片隅で見た小さな影と、ヘンドリック様のあの真っ直ぐな言葉が、あたしの脳裏から離れない。
昼休み、あたしは温室の、普段あまり生徒が立ち入らない奥まった場所にあるベンチに座っていた。色とりどりの珍しい花々が咲き誇り、湿気を帯びた空気がふわりと肌を包む。
人の気配が遠く、ここだけ時間が止まったかのような静けさだった。
「コレット? 珍しいね、こんな奥まった場所で」
不意に、隣から落ち着いた声がした。顔を上げると、エディーが植木鉢を手に、あたしを覗き込んでいる。彼の服の袖には、土が付いていた。
「エディー? どうしたの、そんな格好で?」
「ああ、植物学の教授に、この新しい品種の手入れを頼まれてね。ここなら集中できると思って。君の方こそ、どうしたの?そんなに思いつめた顔をして」
彼はそう言って、あたしの隣に植木鉢を置き、ベンチに腰を下ろした。
あたしは言葉を濁そうとしたが、無意識のうちに、自分の胸元で密かに輝くペンダントにそっと触れてしまっていた。その視線に気づいたエディーが、目を見開く。
「それ、見たことないね。そんな素敵なペンダントなら、一度見たら忘れないと思う。新しく買ったのかい?」
あたしは小さく頷き、観念したように口を開く。
「うん……。実はね、エディー。先週末、ヘンドリック様と街に出かけたの。その時いただいて……」
あたしの言葉に、エディーの動きがぴたりと止まった。彼の顔から、さっきまでの和やかな雰囲気が消え、代わりに信じられないものを見るような、純粋な驚きが浮かび上がった。
「ヘンドリック様と……街に? 二人で?」
エディーの声は疑問に満ちていた。あたしは、あの日の街の賑わい、ヘンドリック様からペンダントを贈られたこと、そして、小さな子供とヘンドリック様との間にあった出来事を、ゆっくりと話し始めた。
エディーは、あたしの言葉に真剣に耳を傾けながら、その瞳に驚きと、やがて深い思索の色を宿していく。
「ヘンドリック様は最初、あたしが子どもにパンを買ってあげたことを『無意味なこと』だって言ったの。『一時しのぎに過ぎない。その子が明日飢えない保証はない』って……。でも、あたしは、たとえ一時しのぎでも、目の前で困っている人に手を差し伸べたいと思ってしまう。最終的にヘンドリック様はあたしの考えを理解してくれたけれど……結局、貴族って、ああいう風にしか生きちゃだめなのかなって、すごく悩んでしまって……」
ヘンドリック様は王族だ。田舎の貧乏男爵であるあたしとは、社会の秩序やルールに対する理解度が根本的に違う。だからこそ、彼の言葉には、あたしには想像もつかないほどの重みがあるように感じられたのだ。
「コレットは、本当に時々、貴族らしくない考え方をするね」
エディーが、唐突に言った。
あたしは思わずエディーを見つめた。慌てたように彼は首を横に振った。
「いや、コレットを悪いと言っているわけじゃないんだよ。むしろ、そういう考えを持っている人がいてくれて、なんだか、そう、嬉しいと思ったんだ」
「嬉しい?」
「うん。……僕も、元はスラムの生まれだからさ」
エディーの告白に、あたしは息を呑んだ。
エディーは、商家の人に拾われた、って言ってたけど、それがスラムだなんて……。
王都の最下層にある、光の当たらない場所から、たった一人で努力し、特待生としてこの学園に入ってきたのだ。
「ごめんなさい……そんなこと、知らなくて……」
あたしが謝ると、エディーは首を横に振った。
「いや、コレットが気に病むことではないよ。僕が隠していたことだから。あそこは……陽の当たらない場所だ。食料も、まともな住処も、仕事もない。病気になっても医者にもかかれない。そんな人々が、ただ生きるためだけに、ひしめき合って暮らしている場所なんだ」
彼の言葉は、淡々としていながらも、あたしの胸を締め付けた。
彼の口調から、あたしには想像もつかないような、過酷な日々が滲み出ていた。
「この王都は、一見華やかで豊かに見えるけれど、その裏には、僕のような人間が、あるいはあの日君が助けてくれた子どものような人が、掃いて捨てるほどいるんだ。他のどの王族も、貴族も、僕たちスラムの人間には目を向けようとしなかった。彼らにとって、僕たちは存在しないも同然だった。ただ、陛下だけが……」
エディーはそこで言葉を詰まらせ、遠くを見つめる瞳が揺れた。彼の言葉は、まるで胸の内を抉り出すようだった。
あたしは、彼がどれほどの思いで、あの場所から抜け出し、この学園に辿り着いたのかを、改めて深く理解した。
「エディー……ありがとう。話してくれて」
「ううん。僕の方こそ、ありがとう。コレットが助けてくれたあの子も、きっとそう思っていると思うよ」
あたしの言葉に、エディーは少しだけ微笑んだ。その笑みは、いつもよりずっと力強く、あたしの心に深く響いた。
その時、温室の奥から、遠くで授業の終了を告げる鐘の音が聞こえてきた。エディーが腕時計に視線を落とす。
「ごめんね、コレット。そろそろフェンシングの授業の時間だ」
彼は立ち上がり、植木鉢を手に取った。
「フェンシング……! そうか、今日だったね」
あたしは授業がない。ヘンドリック様のことでまだ頭がいっぱいだったが、彼の打ち明けてくれた秘密と、その強さに触れた今、 信頼する友人の姿をただ見送るだけではいられなかった。
「もしよかったら、少しだけ、応援に行ってもいいかな?」
あたしが尋ねると、エディーは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ああ、もちろん。君が応援してくれるなら、心強いよ」
そう言って、エディーは温室の出口へと歩き出した。
あたしは胸元のペンダントを握りしめ、彼の後を追った。