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13 真実の恋の始まり<後編>

「コレット嬢。それは、一時しのぎに過ぎない」


 彼の言葉に、あたしは息を詰めた。


「その子が明日、飢えない保証はどこにもないだろう?」


 ヘンドリック様の瞳の奥には、憐れみも、共感も、何一つとして存在しない。

 そこにあるのは、この世界の厳格な階級社会を絶対とする、冷徹なまでの現実主義だった。


「それに、この国の秩序は、生まれながらにして定められた身分によって保たれている。スラムで生きる者はスラムで一生を終え、その運命を甘受する。それがこの世界の理だ」


 彼の言葉には、一切の感情が込められていなかった。

 まるで、当たり前の事実を述べるかのように、淡々と、しかし決定的に、子供へのあたしの行為を無意味だと断じたのだ。

 いつも授業であたしに要点を説明してくれるよう、頭の足りない幼子に諭すかのようだった。


「彼らに手を差し伸べることは、君の気まぐれな優しさを満たすだけで、根本的な解決にはならない。むしろ、彼らの運命を狂わせ、無用な希望を抱かせる方が、残酷というものだ。貴族には貴族の、庶民には庶民の、そしてスラムの者にはスラムの者の役割がある。それを乱すことは、社会の秩序を揺るがす行為に他ならない」


 ヘンドリック様の言葉は、あたしの胸に冷たい氷を突き刺すようだった。


 彼の思考は、あたしの「日本人の感性」とはあまりにもかけ離れていた。彼は、目の前の子供の命ではなく、この世界の「理」と「秩序」を絶対的なものとして捉えているのだ。彼の言葉は、まるで揺るぎない城壁のように、あたしと彼の間に立ちはだかっていた。


 彼の「常識」からすれば正しいのかもしれない。しかし、あたしの「日本人」としての感覚が、それをどうしても受け入れることができなかった。


「ヘンドリック様……あたしは、その、『一時しのぎ』でしかないとしても、目の前で困っている人がいたら、手を差し伸べたいと思ってしまいます。それは、ヘンドリック様が私にしてくださった、あの『気まぐれな優しさ』と、きっと同じです」


 ヘンドリック様にとって、私は取るに足らない存在であったに違いない。でもそんな『取るに足らない』存在に、彼は優しくしてくれた。授業中にさりげなく要点を教えてくれたり、苦手な科目を根気強く教えてくれたり……。


「きっと、あなたにとっては取るに足らないことだったでしょう。でも、そのおかげであたしは救われました」


 あたしは伏せていた目を上げ、真っ直ぐにヘンドリック様のことを見つめた。


「これは気まぐれな優しさかもしれません。けれど、一人の人間として、誰かの笑顔が見られるのなら、それ以上の喜びはありません。その子の明日を保証できないのは、私も同じです。ですが、今、この瞬間だけでも、その子が空腹を忘れ、温かい気持ちになれたのなら、それは無意味ではないはずです。むしろ、その『無意味』な行為が、誰かの心を救うこともあるのではないでしょうか」


 あたしは、震える声で、それでも真っ直ぐにヘンドリック様を見つめて訴えた。

 彼に、あたしの言葉がどこまで響くのかは分からなかった。だが、あたしの心からの言葉は、彼に伝えたい衝動に駆られていた。


 ヘンドリック様は、あたしの言葉を聞き終えると、しばらく沈黙した。彼の完璧な表情に、微かな亀裂が入ったように見えた。その瞳に宿っていた冷徹な光が、ゆっくりと揺らぎ始める。あたしは、彼がこんなにも長く沈黙するのを初めて見た。


「……君の言う、『無意味』な行為が、誰かの心を救うこともある、か」


 彼は、あたしの言葉を反芻するように呟いた。その声には、先ほどまでの冷たさはなく、どこか戸惑いと、そして微かな困惑が混じっていた。


「……君をこの街へ誘ったのは、正直に言えば、私に利があると考えたからだ。ルイーズが君に興味を示している。その『珍しい存在』である君を、私が囲い込めば、彼女の気を逸らすことができる。あるいは、君を通じて彼女を牽制する材料にもなる。私にとって、君は利用価値のある駒、でしかなかった」


 彼の告白に、あたしの心臓が凍り付く。

 やはり、そうだったのかと、頭のどこかで納得する自分がいた。彼の完璧な笑顔の裏に隠された、冷酷な本性が露わになる。


「そして、旧校舎の図書館で私が君に告げた言葉も……嘘と半分だった」

 ヘンドリック様の声は、痛みを伴うほどに絞り出されたものだった。

「ルイーズへの気持ちがないこと、君を『特別な存在』だと思ったこと。それは真実だ。だが、あの時、私の中には、やはり君を利用しようとする打算が少なからず存在していた。君の反応を試していた、と言ってもいい」


 彼の言葉一つ一つが、あたしの心を抉る。裏切られたような、それでも彼の正直な告白に、戸惑いと、微かな期待が入り混じる。



「だが、今は……違う」



 ヘンドリック様は、そこで一度、息を詰めた。


「この街で、君と共に歩き、君のその、私が『無意味』と断じた優しさに触れ、私の冷徹な理屈では測れない、温かい心を見た。そして、君の言葉は……私のこれまでを、根本から揺るがした」


 ヘンドリック様の視線が、再びあたしに向けられた。

 その瞳は、もはや計算されたものでも、打算的なものでもない。

 宝石のように輝くその瞳には、初めて見るような、純粋な驚きと、戸惑い、そして……熱い感情が宿っていた。


「コレット嬢……いや、コレット」


 彼は、あたしの名前を、はっきりと呼び捨てにした。

 その瞬間、あたしの心臓は、驚きと喜び、そして恐怖がないまぜになって激しく跳ね上がった。


 彼はもう、ゲームの中で設定された『攻略対象』のヘンドリック様ではない。あの、完璧な笑顔の裏に冷酷な打算を隠し、利用しようとしていた、そんな『登場人物』のヘンドリック様では、もう、ない。

 目の前で、初めて本音をさらけ出し、揺れる瞳で、ただあたしだけを見つめる彼。その熱い視線に、あたしは、彼がまことに『一人の男性』として、ここにいることを強烈に意識せざるを得なかった。



「私は、君に……恋をしたのかもしれない」



 彼の言葉は、賑やかな街の喧騒の中で、あたしの心にだけ、はっきりと響いた。

 その告白に、あたしの胸には、歓喜と同時に、強い戸惑いが押し寄せた。


 これは、ゲームにはなかった展開だ。そして、何よりも、これで「ざまぁ回避」の道は、完全に閉ざされてしまったのではないかという、新たな恐怖が、あたしの心を重く覆い尽くした。


 完璧な王子様の、剥き出しの感情。その熱が、あたしの心の奥深くに、確かに触れた。

 そして、それは、あたしの未来を、抗えない運命へと、さらに深く引きずり込む、真実の恋の始まりなのだと、直感的に悟った。

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