12 真実の恋の始まり<前編>
そして迎えた週末。
あたしは、約束通りヘンドリック様との街歩きデートに出かけることになった。
友人も誘うという建前だったが、前日に声をかけたフィオナには「ごめんなさい、その日は家の用事が……」とやんわり断られてしまい、結局、二人きりで出かけることになってしまった。
(ああ、やっぱりこうなるのね……! これが、乙女ゲームの運命ってやつなの!?)
内心で悲鳴を上げながらも、あたしは与えられたこの「イベント」に、どこか高揚感を覚えていた。
今日のあたしは、いつもより少しだけ、気合を入れておしゃれをした。
動きやすさを考慮しつつ、上品さも忘れないように選んだのは、淡いアイボリーのブラウスに、深いグリーンのプリーツスカート。足元は歩きやすいローヒールの革靴を選び、髪はハーフアップにして、シンプルなリボンを飾った。
普段着慣れないおしゃれに、少しばかり気恥ずかしさを感じながらも、鏡に映る自分に、ほんの少しだけ自信が持てた。
正門前で待ち合わせたヘンドリック様は、いつもよりずっとラフな格好だった。いつもの社交服とは違い、上質な麻素材のシャツを軽やかに着こなし、腰にはシンプルな革ベルト。
髪も少し崩してあり、親しみやすい印象だ。その普段とは違った、自然体な姿にまた魅力を感じた。
「コレット嬢」
いつもの呼び方で、ヘンドリック様が優しく微笑みながらあたしに近づいてくる。
彼の瞳は、あたしを一瞥すると、ふっと細められた。
「いつもよりおしゃれをしてくれたのか? 素敵だ。今日の街の景色も、君の装いがあれば一層映えるだろう」
彼の言葉に、あたしの頬がカッと熱くなる。
まるで、あたしの内心を見透かされているかのような言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
学園の正門を抜けると、途端に街の喧騒が押し寄せてきた。
石畳の道には露店がひしめき合い、色とりどりの商品が並ぶ。香辛料の異国的な香りと、焼きたてのパンの甘い匂いが混じり合い、大道芸人の軽快な音楽が、活気ある人々の話し声と溶け合っていた。
ヘンドリック様は、人混みの中でもあたしが迷子にならないよう、常に隣にいてくれた。
時折、彼が腕を軽く引いてくれるたびに、微かに触れる体温にドキリとした。
「わぁ……! すごい賑やかですね!」
あたしは思わず、感嘆の声を上げた。
実家のある田舎町とは比べ物にならない、活気と華やかさに圧倒される。
きらきらと輝くアクセサリーや、見たことのない珍しい果物、色鮮やかな布地が並ぶ露店に目を奪われた。
ゲームの中の描写よりもずっと鮮やかで、五感を刺激する光景だった。
「ああ、この国の中心街は、いつもこの通りだ。私もまだ不慣れな場所が多いが、君はこの街には詳しいのか?」
ヘンドリック様が、あたしの興奮した様子を見て尋ねてきた。彼の視線は、あたしが熱心に眺めていた小さな木彫りの動物に向けられている。
「いえ、私も実は、学園に来てから街に出る機会があまりなくて……。実家はもっと田舎なので、こんなに大きな街は初めてなんです! でも、この通りは色々なものが売っていて、見ているだけでも楽しいですね!」
あたしは、少しばかり気恥ずかしくなりながらも、正直に答えた。
そして、手に取った木彫りの動物をヘンドリック様に見せる。
「この細工、すごく丁寧で可愛いですね! こんなに小さいのに、毛並みまで細かく彫られてて……。見ているだけで、なんだか心が温かくなります」
あたしが興奮気味に話すと、ヘンドリック様は少し驚いたような顔をした。
普段、社交の場で彼と話す令嬢たちは、もっと高価な宝石やドレスに興味を示すのだろう。あたしの素朴な感想は、彼にとって新鮮だったのかもしれない。
「ふむ、確かに。君の感性は、実に興味深い」
彼はそう言って、やわらかく微笑んだ。その表情には、計算されたものではない、純粋な好奇心が垣間見えた。まるで、今まで気づかなかった新しい発見でもしたかのような、そんな表情だった。
「今日の街歩きは、楽しいか、コレット嬢?」
隣を歩くヘンドリック様が、あたしの顔を覗き込むように尋ねた。彼の完璧な容姿と、どこか堂々とした佇まいは、街ゆく人々の視線を自然と集める。
「はい、こんなに楽しい気持ちは久々です。学園の中ばかりにいると、こんな賑やかな場所があることを忘れてしまいそうになりますね」
あたしは、素直な感想を口にした。
見慣れたはずのこの世界の風景が、彼と一緒だと、まるで初めて見るかのように輝いて見える。
『ざまあ』を避けなきゃと毎日張り詰めているけれど、そんな警戒心を忘れてしまうほどに楽しい時間だ。
こんな風に街歩きを楽しむなんて、いつぶりだろう? 彼といると、不思議と心が浮き立つのは事実だった。
こんな楽しい時間が、もっと続けばいいのにと思うのは、嘘偽りないあたしの気持だった。
「街を見て回ることは大事だ。自らの治世が正しい道を進んでいるか確かめる一番確実な方法は、己の目で確認することだ……この国の繁栄は、彼らの施政の賜物。市井の人々が活力に満ちているのは、為政者がきちんと民を見ている証拠だ。正直なところ、我が国もかくありたいと願う一方で、その力には嫉妬を覚えることもある。貴族というものは、とかく自身の殻に閉じこもりがちだが、こうして市井の喧騒に触れることも、王族としての教養だと私は考えている。己の欲ばかり満たす施政者の命は短いからな」
ヘンドリック様は、ふと真剣な表情で言った。
その言葉は、まるで誰か特定の人物を指すかのように、重く、静かに響いた。彼の瞳には、この国の現状に対する不満と、未来への強い意志が宿っているように見えた。
ヘンドリック様が政治について語る間、あたしは彼の真剣な横顔を眺めていた。その時だった。ふと、足が止まったのは、とある宝石店のショーウィンドウだった。そこに飾られていたのは、夜空の星を閉じ込めたかのような、深い藍色のペンダントだった。
「どうかしたか、コレット嬢?」
あたしが足を止めたことに気づき、ヘンドリック様が優しい声で尋ねた。
「いえ、その、ただ…、とても素敵なペンダントだと思って……。まるで、星がそのまま落ちてきたみたいで」
あたしがそう言うと、ヘンドリック様はショーウィンドウを一瞥した。彼の視線は、宝石そのものよりも、それを熱心に見つめるあたしの表情に注がれているように感じた。
「気に入ったのか?ならば、買おう」
彼の言葉に、あたしは思わず息を呑んだ。
「えっ!? いえ、とんでもない! こんな高価なものを頂くわけには……」
慌てて辞退しようとするあたしを制するように、ヘンドリック様は店員を呼び寄せた。彼の行動は早く、あたしが戸惑う間もなく、そのペンダントは彼の手に渡っていた。
「私の目に狂いはない。君には、これくらいの輝きが相応しい。遠慮はいらない、今日の礼だ」
そう言って、彼はあたしの首に直接そのペンダントをかけてくれた。
ひんやりとした宝石の感触が肌に触れ、その重みが、あたしの心をざわつかせた。
(プレゼント……!? まさか、こんな高価なものを……! これは、ゲームのイベントにはなかったはず……! 彼の意図はどこにあるの!?)
胸の高鳴りとは裏腹に、あたしの心は警鐘を鳴らしていた。
彼の行動は、好意だけではない、何か別の思惑が隠されているような気がしてならなかった。
受け取ったペンダントに落ち着かず、心ここにあらずの状態のまま散策は続いた。
街は本当に賑やかで、我らが王の治世が行き届いていると思わせる。
そんな賑やかな通りの一角で、あたしは思わず足を止めた。
地面に座り込み、小さな手を差し伸べている子供がいた。泥だらけの服を着て、空腹で顔色が悪く、震える小さな体が、あたしの目に飛び込んできたのだ。
その瞳には、助けを求めるような、しかし諦めにも似た色が宿っていた。
(この子……お腹を空かせているんだわ)
瞬時に、あたしの心は痛んだ。
ゲームの世界では、こういう光景は存在しなかった。キラキラとドキドキを混ぜ合わせたシーンだけだった。
けれど、目の前にいるのは紛れもない現実の子供だ。
あたしは、近くのパン屋で買ったばかりの、まだ温かい焼きたてのパンを袋から取り出した。
「これ、よかったら食べて。」
そう言って、子供の小さな手にパンを握らせる。子供は目を丸くして、信じられないものを見るようにパンとあたしを交互に見た後、ゆっくりと、しかし確実にそれを受け取った。そして、小さく「ありがとう」と呟くと、一心不乱にパンを頬張り始めた。
その様子を見ていると、あたしの心も少しだけ温かくなった。
ヘンドリック様は、あたしの隣でその様子をじっと見ていた。
彼の表情は、驚きや戸惑いといった感情を読み取ることができないほど、冷静で無表情だった。あたしが子供から顔を上げると、彼の視線が真っ直ぐにあたしを捉えた。
「なぜ、そのようなことを?」
彼の声は平坦で、感情がこもっていない。あたしは、少し戸惑いながら答えた。
「だって、お腹を空かせていたから……。かわいそうだと、思ってしまって」
すると、ヘンドリック様は、ふっと小さく鼻で笑った。それは、憐憫でもなく、ましてや感銘でもない、あたしの行動を理解できない、あるいは無意味だと見なすような、乾いた笑いだった。