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10 完璧な仮面の裏側

 昨夜の旧校舎図書室での出来事が、あたしの頭から離れることはなかった。


 ヘンドリック様の告白、ルイーズ様との婚約の真実、そして、ペンを持つ手に触れたあの温もり──。


 全てが鮮明に脳裏に焼き付いて、まともに寝付けないまま朝を迎えた。

 重い瞼を開けても、天井には彼の顔が浮かび、朝食のパンも喉を通らない。授業中も上の空で、教授の声も耳に入ってこない。



 ぼんやりとしたままの頭で学園の廊下を歩いていると、前から聞き慣れた声が聞こえた。


「コレット? どうしたの、そんなに眠たそうな顔をして。まさか、また徹夜で課題でも片付けていたわけ?」


 そう言って隣に並び立ったのは、友人であるフィオナだった。

 彼女は落ち着いた雰囲気の中に、どこか聡明な光を宿した瞳であたしを見つめている。実家がこの国でも指折りの商会を営んでいるためか、世情や人を見る目に長けているのだ。


「フィオナ……ううん、課題じゃないの。ちょっと、色々あって……」


  ヘンドリック様とのことを話せるはずもなく、あたしは曖昧に言葉を濁した。

 しかし、フィオナはあたしの言葉の裏にある焦燥を敏感に察したようだ。


「顔色も良くないわ。勉強、勉強で、肩に力が入りすぎてるんじゃない?貴族の義務だとか、税制の課題とか、頭が痛くなることばかりでしょう?」


 フィオナはそう言って、あたしの苦手な科目を的確に言い当てた。


「そうなの……もう、本当に頭がパンクしそうで。試験も近いし、このままだと本当にまずいかも」


 学業の悩みは、間違いなく今のあたしにとって現実的な問題だった。その言葉は、ある意味では偽りではない。



 フィオナは、あたしの隣をゆっくりと歩きながら、ふと思いついたように口を開いた。


「そういえば、最近、学園ではとある貴族令嬢の夜会での失態が話題よ。ドレスの裾を踏んで転んでしまって、その場の空気が凍り付いたとか……。あらあら、可哀想に。社交界は本当に大変よね」


 フィオナはあくまで楽しげに、しかし少しばかり皮肉めいた調子で語った。

 試験に追い詰められているあたしに、気分転換させようとしているんだろう。


 だけどあたしはは相槌を打ちながら、自分もいつかそんな目に遭うのではないかと内心ヒヤヒヤする。


「それから最近、国王陛下が重用しているという新興貴族の令息がいてね。王宮への出入りも自由で、なんだか陛下のご機嫌をうまく取っているらしいわ。我が家でも、その令息との繋がりを模索しているのだけど……」


 フィオナの話は、学園のゴシップから、国の情勢にまで及んだ。さすが、大商会の令嬢だとコレットは感心する。


 廊下の窓から差し込む朝の光が、フィオナの髪をきらきらと輝かせる。

 あたしは、そんなフィオナの変わらない穏やかな日常が、少しだけ羨ましかった。彼女の周りには、自分のような複雑な『ざまあ回避』のプレッシャーや、世界の『歪み』などない。


「フィオナって、本当に色々なことを知っているのね。学園のことだけじゃなくて、王宮のことまで……」

 あたしが感嘆の声を漏らすと、フィオナはふふっと笑った。

「うちが商会を営んでいるから、情報が入ってきやすいだけよ。それに、この学園にはね、もっと面白い話がたくさんあるわ。コレットは、学園の七不思議って知ってる?」


 フィオナは、まるでとっておきの秘密を打ち明けるかのように、声を少し落とした。


「七不思議? 何それ、初めて聞いた!」

 あたしは、好奇心を刺激され、つい身を乗り出した。

 ゲームにはなかったネタに、眠気も少しだけ吹き飛ぶ。 学校に七不思議がつきものなのはどこの世界でも同じなのだろうか。


「ええ。たとえば、『夜の旧校舎で、消えた生徒の幻を見る』とか、『とある古文書が、ひとりでにページをめくる』とかね。中でも一番有名で、最近また話題になっているのが、『美術室に飾られた古いティーセットが、夜中に勝手に動く』っていう話よ」


 フィオナはそう言って、少しだけ瞳を輝かせた。


「ティーセットが動く? へえ、面白いね! 美術室なんて普段あまり行かないけど、そんな噂があるんだ」


 あたしは首を傾げ、純粋な興味から目を瞬かせた。

 ゲームにはなかった、新鮮なゴシップに少しだけ気分が浮上する。


「そうよ。そして、そのティーセットで、美術部の部長さんがお茶を淹れたら、すごく美味しいお茶になったとか、ならないとかって噂も一緒についてくるの。」


 フィオナは片目を閉じて、秘密を共有するかのように笑った。


「へえ! そんな話、本当かな? でも、もし本当ならちょっと飲んでみたいかも!」


 あたしは笑いながら、思わずその場でお茶を飲む仕草をした。神秘的でありながら、どこか微笑ましい、まさに学園の噂話という感じだ。


「まぁ、ただの噂話だけどね。でも、この学園には、表には出てこないけれど、奇妙な話や、本当に不思議な出来事がたくさんあるものよ。うちの商会が扱う商品の中にも、稀にそういった『不思議な力』を宿していると言われる品が紛れ込んでくることもあるわ」


 フィオナはそう言って、意味ありげに微笑んだ。

 最後に実家の営業トークを挟むあたり、さすが商売をする家の娘と感心する。



 フィオナとの会話を終え、先ほどの雑談で少しは気分が晴れたものの、頭の中は依然としてヘンドリック様のことや、迫る試験のことでいっぱいで、足元もおぼつかないほどだった。


 ぼんやりとしたまま中庭へと続く石畳を歩いていた、その時だった。

 ふと、視界の隅で石畳の僅かな段差に足を取られそうになる。

 思わず「あっ」と声が出かかった瞬間、よろめいた体は誰かの手によって、するりと支えられた。


「危ないですよ、コレット男爵令嬢。」


 冷静で、しかし確かな声が頭上から降ってくる。

 顔を上げると、そこに立っていたのは、午後の柔らかな日差しを背に受けたマクシム公爵子息だった。


 彼は中庭の石造りのベンチに座って読書をしていたようで、その手には難解な政治経済学の専門書が握られている。いつもこの時間は他の生徒と講堂でこの国の未来について語り合っていることばかりなのに、こんなところで出くわすとは予想外だった。


「マクシム様っ! す、すみません、ありがとうございます……っ! その、あ、あたしったら、何をやっているんでしょう……!」


 あたしは、まさか彼にこんな間抜けな姿を見られるとは夢にも思わず、顔が熱くなるのを感じた。


「随分と上の空のようですが、何か?」


 彼の視線は冷静で、感情を読み取らせないものだった。

 だが、彼の静かな声には、わずかながらも気遣いが含まれているように聞こえた。


「いえ、その、少し考え事を……。あ、あの、マクシム様は、政治経済学を? 難しそうな本ですね……!」


 あたしは、必死に話題を逸らそうと、彼の持つ本に視線を向けた。焦りが生んだ、わざとらしいほどの必死さだった。

 

「ええ。最近の社交界の動向は、この国の経済情勢にも少なからず影響を与えますから。無駄な情報ばかりではない」


 いかにもマクシム様らしい返答だ。彼の言葉は常に的確で、無駄がない。



「……っ、ふぅ。さ、さすがマクシム様は、あたしのような者が考えることと、視点が違いますね! 私はつい、美術室の『動くティーセット』の噂なんて、他愛のない話ばかりに気を取られてしまって……。マクシム様にとっては、きっと退屈な話でしょう?」

 

 あたしは、一呼吸置いて、敢えて話題を転換するかのように、わざとらしいほど明るい声で切り出した。

 彼の言葉尻を捉え、自分の失態から話を逸らそうとする意図が透けて見えるような、必死の繕いだった。


 マクシム様は眉をひそめたが、あたしの必死な様子に気づいたのか、ふっと、小さく息を漏らして笑った。

 その笑みは、普段の彼のクールな表情からは想像もつかないほど、どこか無邪気で、わずかに困惑したような、そして魅力的なものだった。


「なるほど……それは、面白い。ティーセットに足でも生えているのかな。私の興味は常に実利と効率、そして国の未来に関わる政策にありますから、仰る通り、そのような噂話は普段一顧だにしません。しかし、貴女の話は……そうですね、先日、アレクシス殿下が王宮の庭園で、足を滑らせて噴水に落ちたという、些細な出来事を思い出しました。側近は皆、慌てふためいていましたが、本人は至って冷静で、水も滴る良い男、といった風情で」

 

 彼はそう言いながら、また小さく笑った。

 彼の口元が緩むのを見て、あたしは内心で「(うわあ! マクシム様の、レアな笑顔だ! しかも、アレクシス様のちょっとお茶目な話まで! これぞ乙女ゲームの『意外な一面発見イベント』!!)」と興奮していた。


 彼の笑い声は、どこか上品で、まるで鈴が鳴るようだった。


「殿下方は、このような話には興味がおありになりませんか?」


 あたしが尋ねると、彼は少し考え込むように首を傾げた。


「そうですね……私にとっては、日々の政務や学業の方が優先事項ですから。しかし、貴女の話は、退屈しのぎにはなりました」


   彼はそう言って、もう一度、微かに口元を緩めた。その表情は、いつものクールで完璧な印象のマクシム様とは全くの別人であり、あたしの中の「完璧な貴公子」としてのイメージを確かに上書きしていった。



(ふぅ、これでこの場は乗り切れたかな……。それにしても、マクシム様とミシュリーヌ様って、いつも公の場では絵に描いたような模範的な婚約者同士なのに、今日はミシュリーヌ様の姿が見えないわね……)


 あたしは、話が途切れた隙に、さりげなく周囲に視線を巡らせた。

 マクシムの婚約者であるミシュリーヌ様が、常に彼の隣に控え、社交の場では完璧な淑女として振る舞っているのをあたしは知っている。二人が常に穏やかに振る舞うことで、自分の「ざまあ回避」が順調に進んでいることを内心で確認していた。

 二人の仲が良く、あたしが介入する余地がなければそれだけで「ざまあ回避」に繋がる。


 しかし、今日のこの場所には、ミシュリーヌの姿はどこにもない。


「そういえば、マクシム様。ミシュリーヌ様は、今日はご一緒ではないのですか?」


 あたしは、何気ないフリをして尋ねてみた。

 彼らの関係が周囲から見える通りの「理想的」なものなのか、それとも何か変化があるのか、探るような一言だ。


 マクシム様は一瞬、言葉に詰まったように見えた。彼の完璧な表情に、微かな翳りが差す。


「ミシュリーヌ、ですか。ええ……彼女とは、最近、どうにもすれ違いが多くてね。些細なことなのですが、このところ、言い争いが絶えず……。本日は、別行動を取っております」


 彼は、少し困ったような、しかし穏やかな口調で答えた。

 その言葉に、あたしの心臓はドキンと跳ねる。


(すれ違い? 言い争い!? ゲームではいつも、周囲からは完璧な社交を取る婚約者同士って言われてたのに……!)


 これは、ゲームシナリオにはなかった展開だ。

 同時に「なぜ?」という疑問と、少しの不安もよぎった。


 マクシム様との短い談笑は、あたしにとって予期せぬ、しかし心地よい時間となった。

 完璧な貴公子が、他愛ない噂話に小さく笑い、更には王子の人間らしい失敗談を語る姿は、彼の人間らしい一面を垣間見せた。


 しかし、その喜びの裏で、マクシム様とミシュリーヌ様の関係性への変化という、新たな不穏な要素が加わったのだった。

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