先ほど君を愛することはないって言ったばかりですよね
「君を愛することはない」
初夜のベッドの上でリーゼロッテの夫となるテオドールが言った。
望まぬ政略結婚で式の後に先ほどのような台詞を言う夫がごく稀にいる。
そういう夫は初夜すらもベッドを別にして、結婚後は妻を冷遇するとか。
そういう話も聞いたことはあったし、結婚前の顔合わせすらなかったのだ。自分が望まれていないことはわかっていた。
だが、面と向かって言われると堪えるものがある。
しかも、テオドールは侯爵家の当主でもあるのにリーゼロッテとの子どもも望まないという。後継は縁戚から養子を迎えれば良いらしい。
本当に何も望まれていないのかと思うとリーゼロッテは悔しく思う。
ギュッと拳を握って、瞳に溜まった涙が溢れてしまわないように堪えた。
そして、精一杯微笑んで応えた。
「わかりました」
そう口にして、部屋を出て行こうとした。
だけど何故だか、ベッドから立ち上がったとき、テオドールに腕を引っ張られてベッドに転がされて、組み敷かれた。
「え?」
初夜はしないのではなかったのか。
「仕方がない。一度抱いたからと言って本気になるなよ」
なにが仕方がないのかわからない。
テオドールはどう考えても必要以上にたっぷりと肌を合わせた。
しかも一度と言っていたのに、明らかに三回は致した。リーゼロッテは初めてだというのに。
かなり優しく甘やかされた感じだったが、三回もしたら腰が痛くて起き上がれない。
さすがに甘い台詞を囁かれることはなかったが、今にも言い出しそうな雰囲気ではあった。
リーゼロッテは上半身裸ですやすやと眠りについてる夫に問いたい。
先ほど君を愛することはないと言ったばかりですよね。
◇
リーゼロッテはアルトナー伯爵家の令嬢として産まれたが、三年前に父が連れてきた後妻とその娘に虐げられていた。
三年前、アルトナー伯爵家は領地の不作と当主の事業の失敗で財政難に陥っていた。その時にアルトナー伯爵であるリーゼロッテの父が連れてきた後妻が資産家の男爵家の娘で、子持ちで出戻りの娘ではあるが、アルトナー伯爵家に資金援助をしてくれるということで、男爵家のアマンダを後妻に迎えた。
アマンダにはリーゼロッテより一つ年下のロザリアという娘がいた。
父であるアルトナー伯爵が領地の視察にと長期で家を空けることになると、アマンダは伯爵家を仕切り始めた。
まず手始めにリーゼロッテの行動を制限し始めた。
父から少しずつ教えてもらっていた屋敷の管理の仕事は取り上げられて、当時、まだ学園に通っていたリーゼロッテは帰宅後すぐにお仕着せに着替えて掃除メイドのようなことをさせられるようになった。
父が帰ってきたら、こんなことは止めさせてもらおうと思っていた。だけど父は帰宅後、リーゼロッテの姿を見て一瞬目を見開いて苦い顔をしたが、すぐに顔を背けた。
領地の不作がひどくて男爵家にはさらに援助を頼まなければならないほどだったようだ。
リーゼロッテから顔を背けて、ギュッと拳を握った父の背中を見て、すまない耐えてくれと言われている気がした。
リーゼロッテが学園を卒業してからも屋敷の管理の仕事はアマンダに奪われたままで、ずっと使用人のような仕事をして過ごしてきた。
そして、アマンダの娘のロザリアが学園を卒業すると社交界に出たいと言い出した。
リーゼロッテが社交界デビューをしていないのにロザリアだけが社交界デビューするのでは、世間から非難されるのではという父の声により、リーゼロッテはロザリアよりも少し前に社交界デビューした。
表向きは領地の立て直しを父と一緒に行っていたので社交界デビューが遅れたとしたが、世間の噂は違った。
「大人しそうな顔して、とんでもない男好きらしいわよ」
「領地へ行っていたって言ってるけど、本当は男遊びに忙しかったらしい。お前も一回お願いしてみろよ」
ロザリアが学園で流したリーゼロッテに対する悪評だった。
父に付き添ってもらった初めての社交界デビューは居心地の悪いものだった。
父がハッキリとそれは違うと言い切ってくれれば良かったのだが、気が弱く流されやすい父は何もしてくれなかった。
こんな風だから事業も失敗するのだろうか。
ロザリアが社交界デビューするとリーゼロッテの悪評はさらに広まり、二十歳になってもリーゼロッテには一つの縁談も来なかった。
だから、ディールマイアー侯爵家からリーゼロッテに縁談が来ていると聞いて驚いた。しかも相手は侯爵家当主のテオドールであるという。
侯爵家当主のテオドール・ディールマイアーといえば、歳は三十でリーゼロッテよりも十も上だが、若くして侯爵家を継いだ美貌の侯爵として有名だった。そして『氷の侯爵』と呼ばれるほどに笑わないことでも有名だった。
侯爵家との縁談。義妹のロザリアが黙っているわけもなく結婚式の前日までかなりしつこく詰られた。
ロザリアは父に何度も結婚相手をリーゼロッテから自分に代えることが出来ないかと食い下がっていたが、侯爵家からの縁談に伯爵家が手を加えることは出来ないとキッパリと断られていた。
「すまなかった。幸せになってくれ」
父は最後に小さくそう言って、リーゼロッテを送り出した。
◇
縁談の申し込みからわずか二ヶ月で侯爵家に嫁ぐことになった。侯爵家からは身一つで、侍女の一人も連れてこなくて良いと言われてトランク一つで嫁いだ。
とっくの昔にリーゼロッテの侍女という存在はいなかったので問題はない。
そして結婚式の前日に侯爵家へ訪れて、ようやく侯爵家当主のテオドールと顔を合わせた。
金髪にエメラルドの瞳、冷ややかな表情をしているが、噂通りの美貌でリーゼロッテは期待に胸が高鳴った。
この人が継母と義妹に乗っ取られた伯爵家から自分を連れ出してくれた。
リーゼロッテを救ってくれたヒーローのようなこの人と愛し愛される関係になれるなんてと期待をしてしまった。
「結婚したらさすがに男遊びはやめてくれよ」
第一声がそれだった。
ああ、この人もロザリアが流した噂を信じているんだと愕然とした。
リーゼロッテは小さく声を出す。
「そのようなことはいたしません」
「結構だ。部屋へ案内しろ」
結婚前に言葉を交わしたのはそれだけだった。
通された部屋は客間だった。
侯爵夫人になるのに、どれだけ歓迎されていないのか。「ははっ」とリーゼロッテは乾いた笑いをこぼした。
それでも虐げられていた伯爵家の生活よりはマシかと、前向きに考え直す。
貴族の結婚にしては急な結婚だったため、当人だけで簡素な式を挙げた。
挙式の最中もテオドールの顔を見るたびに、今は勘違いをされているけど、少しずつでも心を寄せ合うことができたら良いなと僅かに希望を抱いた。
初夜で言われた「君を愛することはない」という言葉はその僅かな希望を粉々に打ち砕くようなものだった。
前日から堪えていたものが溢れそうになった。
だけど、泣いてしまうのは悔しくて精一杯笑ってやろうと微笑んで見せた。
そうしたら何故か初夜で抱き潰された。
◇◆◇
「おい。話が違うではないか! 大問題だぞ」
初夜の翌朝、テオドールは執事のセバスチャンに非難の声を上げた。
「何がでしょうか?」
白髪頭にモノクルの執事は意味がわからないという顔をした。
「う、噂通りの魔性の女だったぞ……」
テオドールは小さく呟いた。
「は?」
やはりセバスチャンは意味がわからないという顔をした。
「だから! 彼女のことだ。冷たくすれば本性を現すかと思えば、いじらしく笑ったりなどするものだから……。初夜などするつもりもなかったのに、抱いてしまったではないか……!」
セバスチャンはニンマリと笑う。
「ほうほうほう。初夜は済ませることが出来たのですね。旦那様は女性不信で悩んでおられたので、ようございました。で、何が魔性だったのですか? もしかして、純潔ではなかったのでしょうか? わたくしの調査ではリーゼロッテ様は男性経験が一切ないはずでしたけども」
セバスチャンはテオドールの伴侶候補にはかなり細かく調査を行っていた。
その調査ではリーゼロッテが男好きというのはただの噂であることが確認されていた。だからセバスチャンはテオドールが何故リーゼロッテのことを魔性だと言うのかわからなかった。
テオドールは昨夜の出来事を思い出し、顔を赤くしながら考えた。
「いや……彼女は間違いなく純潔だった……。男慣れをしている様子は一切なかった……」
「でしたら何も問題はないのでは? 可愛らしく可憐なお嬢様に、初対面で不躾な暴言を吐いた旦那様の方が余程問題ありかと……」
「ゔっ……」
リーゼロッテは調査書通りで、話が違うことなど何もなかった。
痛いところを突かれてテオドールは言葉に詰まる。
「…………彼女の部屋を私の隣の部屋に移動させろ」
テオドールは小さくモゴモゴと言った。
「あと、彼女の調査書をもう一度見せてくれ」
「仰せのままに」
セバスチャンは礼をして退室した。
◇◆◇
リーゼロッテは初夜の翌々日にはテオドールの隣の部屋へ移動させられ拍子抜けした。
セバスチャンには結婚式の準備で忙しく部屋の準備が間に合わなかったと説明された。
夫からは「きみを愛することはない」と言われたが懸念していたような、リーゼロッテが冷遇されるようなことはなかった。
むしろ屋敷の使用人たちは主人がようやく結婚したと喜んでリーゼロッテを温かく歓迎してくれた。
結婚して一週間が過ぎ、屋敷にも慣れてきた頃に、少しずつ屋敷の管理を任されるようになった。
屋敷の管理は今までセバスチャンがやっていたらしく、セバスチャンが丁寧に教えてくれる。
侯爵家の使用人はみな優しくて話しやすかった。
伯爵家の使用人たちも悪い人はいなかったが、みな伯爵家に後妻を迎えてからは、継母と義妹の目を気にして、気安く話をすることなどなかった。
愛することはないと言ってきたテオドールとの関係だが、想像以上に良い関係を築けていた。
執務の合間にリーゼロッテの様子を見にきて、不便はないかと声をかけてくれる。
リーゼロッテが使用人のことを思って、夏と冬は気候に見合ったお仕着せに変えた方が良いと提案するとすぐに受け入れ、よく気が付いてくれたと褒めてくれた。
氷の侯爵などと言われているが実は優しい人物なのかもしれないと思えてくる。
夜も初夜では一度と言っていたのに、結局週に二度ほどリーゼロッテの部屋にやってくる。
養子を迎えると言っていたのにこれでは妊娠してしまいそうだ。
夜は丁寧に甘やかされて、先日は口づけを求められた。
だがすぐに初夜で言われた「愛することはない」「本気になるなよ」という言葉が胸に刺さり、リーゼロッテは顔を背けて口づけを拒んだ。
口づけてしまえば、本気になってしまいそうだったから。
テオドールは何故か一瞬傷付いたような表情をした気がしたが、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
「奥様が来てから、屋敷が明るくなりました」
侍女がリーゼロッテの髪を梳きながら話をする。
「もうお嫁に出てしまいましたが、旦那様のお姉様方はそれはそれはプライドの高い方々で、私たちとこんな気軽にお話などしてくださらなかったのですよ。旦那様だって寡黙な方ですし」
テオドールの姉は侯爵家の娘なのだからプライドが高くて当然だ。そんな話を聞いて、リーゼロッテはもう少し侯爵夫人らしく振る舞わねばと気を引き締めた。
◇
「夜会についてきてほしい」
王宮からの招待で断ることが出来ないらしく、大慌てでリーゼロッテのドレスが仕立て上げられた。
伯爵家にいた頃には袖を通したことのないような上質なエメラルドグリーンのドレス。生地はテオドールが選んでくれた。
「ふぅん、良い歳にもなって独り身だからと結婚を急かしてみたが、急いで結婚した割には上手くやっているようじゃないか」
夜会が始まってすぐ、テオドールにエスコートされて王太子の元へ挨拶にいった。
王太子はリーゼロッテのドレスをまじまじと見ながらそう言った。
「ええ、ですから殿下に勝手に結婚相手を見繕ってもらわずとも問題ありませんと申し上げたではありませんか」
テオドールがいつまでも結婚しないことを心配した王太子は、勝手にテオドールの結婚相手を探し始めた。
他人に結婚相手を決められるなど、耐えられない。自分にも好みがあるとテオドールは慌てて結婚相手を探し始めたのだった。
「それにしても随分と大人しいタイプが好みだったんだな。ふむ……貴族の令嬢にはあまり居ないタイプだが、悪くないな……」
リーゼロッテを見る王太子の視線が不躾なものに変わるのでは、と心配したテオドールはすかさず王太子とリーゼロッテの間に入り込む。
「おいおい冗談だよ、仮にも私は王太子なんだからそんな目をするんじゃない」
テオドールは一体どんな目をしていたのだろうか。
「殿下、言動にはお気をつけください。では、失礼します」
「あ、ああ……」
リーゼロッテは王太子殿下に無礼をして大丈夫なのかとハラハラしたが、テオドールの気迫に負けて王太子の方が顔を引き攣らせていた。
「あら、テオドール久しぶりね! 私とは正反対な大人しそうで可愛らしい子を連れているじゃない」
次に挨拶に行ったのは、公爵家に嫁いだテオドールの姉だった。
親しみやすいリーゼロッテとは真逆で、高貴で近寄りがたいオーラがある。
そして、二人の会話を聞く限り、弟のテオドールに対してはかなり高慢だ。
テオドールの姉は公爵家に嫁いだこの姉だけでなく、今日の夜会には来ていないがあと二人いるという。
テオドールの姉への挨拶を終えた時だった。
「テオドール様!!」
突如テオドールの腕に巻きついてきた令嬢がいた。
ギョッとして、見てみればロザリアだった。
「テオドール様! 男好きの姉を政略的に娶らねばならなかったなんて可哀想ですわ。姉が他所の男性の子どもを妊娠する前に早く離婚した方がよろしいかと」
伯爵家にいた頃は領地の危機を守るためロザリアの母の実家である男爵家から援助をしてもらっていた手前、ロザリアにも言われっぱなしであったリーゼロッテだが、もう侯爵夫人になったのだ。
もし男爵家から援助を打ち切られたとしてもテオドールが助けてくれるだろう。あざとい考えだが、テオドールとはそれくらいには信頼関係は築けていた。
テオドールが腕に巻きついたそれを引き剥がそうとしていることに気付かずに、リーゼロッテは侯爵夫人らしく振る舞わねば、その一心で口を出す。
「ロザリア。既婚者の腕にしがみつくなど失礼よ。しかも侯爵相手に自分から話しかけるなど酷いマナー違反よ。それに自分よりも目上の人を嘘を並べ立てて嘲るような発言は名誉毀損で訴えられても仕方がないわよ」
一気にここまで言い切り、息を吐く。
「それに……テオドール様は……わ、私の……だ、旦那様なのよ! その腕を離してちょうだい!」
ロザリアはリーゼロッテに反論されると思っておらず唖然とした。
そして、テオドールも何故かびっくりしたような顔をしていた。
すぐにロザリアはハッとして表情を作り変えて、テオドールにしなだれかかる。
「ひ、ひどいわ……お姉様。私が嘘を言っていると……? 本当のことを言われてこのようにお怒りになるなんて」
ロザリアは怯えた様子でふるふると震えて、テオドールの胸に縋りついたままだ。
そして眉をへの字に下げてぽろぽろと涙を流し始めた。
ロザリアはどうすれば自分が可哀想なヒロインになれるかをよく知っている。普段から義姉にいじめられる可哀想な義妹を演じているのだろう。
リーゼロッテにチラチラと非難の目が集まり始めた。
侯爵夫人であるリーゼロッテをあからさまには非難しない。だけど皆の目がそういう目をしている。
失敗した。そう思いこれ以上、事を荒立ててはいけないと判断した。
「テオドール様、申し訳ありません。私、侯爵夫人らしく出来ませんでしたね。今宵は気分がすぐれないので先に失礼いたします」
悔しい気持ちを堪えて、精一杯微笑んでテオドールに挨拶をして、会場を出ようと歩き出した。
だが、そのときテオドールの胸に縋り付いていたロザリアは引き剥がされて、何故かリーゼロッテがテオドールに腕を引っ張られて抱き締められた。
「え?」
人前で突然抱きしめられて、リーゼロッテの心臓が早鐘を打つ。
「そんないじらしい顔を人前でしてはいけない」
テオドールがリーゼロッテに甘く囁いた。
「テオドール様……?」
そしてテオドールはリーゼロッテにふわりと微笑んだ。
「大丈夫。君はちゃんと侯爵夫人だったよ」
リーゼロッテは初めてテオドールの笑顔を見た。
またそれを見ていた者たちもテオドールの笑顔に衝撃が走った。
「氷の侯爵が笑った……?!」
彼の笑顔を引き出した女性とはどんな女性なのかと、さらにリーゼロッテに視線が集まった。
あたふたするリーゼロッテの腰を抱き寄せ、皆に聞こえる声ではっきりと言う。
「君が男遊びなどしていなかったことは、夫の私が一番よく知っているから安心してくれ」
そう言って、リーゼロッテの頭に軽く口付ける。
暗に初夜で純潔であったことを証言したことで、非難の目がロザリアへ向かう。
一気に非難の目を向けられて、ロザリアは狼狽した。
「ご、ごめんなさい。お姉様。わたくし、すっかり噂話に騙されてしまって……」
慌てて申し訳なさそうな顔を作るが、テオドールが追い討ちをする。
「君が流した噂だろう」
ロザリアは真っ赤になって歯噛みした。
「それに、リーゼロッテと結婚したことに政略的な絡みは一切ない。私が彼女を望んで縁談を申し込んだのだ」
「え?」
それは初耳だ。初夜ではあんなことを言ってのけたくせに。
それを聞いて、リーゼロッテは少しの苛立ちが込み上げるものの、それ以上にやはり望まれていたのだと嬉しい気持ちが湧き上がる。
「だいたい男爵家の令嬢が侯爵夫人を貶めるなどあり得ない。男爵家の教育はどうなっているんだ?」
テオドールがそう言うと、ロザリアはすかさず口を挟む。
「私は男爵家の娘ではありません! アルトナー伯爵家の娘です!」
リーゼロッテもそう思っていたので、心配そうにテオドールを見た。
「何を言っている。君は男爵家の令嬢だ」
テオドールがハッキリと言い切ったときだった。
「私の娘が何か粗相をしてしまいましたか?」
リーゼロッテの父の後妻であるアマンダが話に割って入ってきた。
隣には顔を引き攣らせたリーゼロッテの父、アルトナー伯爵もいた。
「ロザリア嬢が自分は伯爵家の令嬢であると勘違いされていたので、男爵家の令嬢であると正していただけです」
「えっ? 私はアルトナー伯爵の妻です。その娘なのですから、ロザリアは伯爵家の娘に決まっているではありませんか」
アマンダが何を当たり前なことをと言いたげにしている。
「いえ、ロザリア嬢は男爵家の令嬢です。ねえ、アルトナー伯爵?」
テオドールはリーゼロッテの父に話を振る。
「それは……」
アルトナー伯爵は応えづらそうにしていた。
だから、テオドールは応えやすいようにアルトナー伯爵に囁いた。
「大丈夫ですよ。証拠は全部集まりましたから。あとは裁判をするだけです」
アルトナー伯爵はホッとした顔を見せ、明言した。
「ロザリアは伯爵家の娘ではない。アマンダと私は婚姻関係にあるが、ロザリアを私の娘とする正式な手続きは行っていない」
「なっ……!」
その発言にロザリアはショックを受けた顔をして、アマンダは眦を吊り上げた。
「そんなことをして──」
男爵家からの援助の打ち切りの話をしようとしたのだろうが、すぐに声を低くしたテオドールに阻まれる。
「男爵家の不正な事業買収について、証拠は全て揃っているのですよ」
周りには聞こえないくらいの絶妙なトーンで言われ、アマンダは顔を青くした。
「きょ、今日は気分が優れないのでこれで失礼いたしますわ」
アマンダはロザリアの腕を引っ張り慌てて会場を後にした。
これは後になっての話だが、テオドールが集めた証拠で男爵家が伯爵家の事業に不正に圧をかけて、懇意の商会を経由して買収していたことが発覚した。その事業はもともと事業運営していた、アルトナー伯爵家に戻されて、事業の立て直しにディールマイアー侯爵家から優秀な人材が送り込まれた。そのおかげで伯爵家の事業は順調に回復していった。
アマンダは男爵家の不正な事業買収に関与していたと逮捕され、伯爵家の身分目当てに婚姻を結んだアマンダだったが、逮捕直前にアマンダ側の有責でアルトナー伯爵とは離婚が成立した。
男爵家の不正など何も知らないロザリアではあったが、親が逮捕され、男爵家が取り潰しになったことと、根も葉もない噂で社交界を荒らしたとして、厳しいと有名な北の修道院へ送られた。
「さあ、リーゼロッテ、一曲踊ろうか」
テオドールが跪いて手を差し出した。
「あ、あの……」
リーゼロッテが顔を赤くしてひどく動揺していた。
「ん? どうした?」
「私……ダンスは学んだことはあるのですが、男性と踊るのは初めてで……」
ロザリアが流した噂のせいで夜会でリーゼロッテに声をかける者が一人もいなかったのだ。
テオドールは目を丸くした後に額を押さえてハァと深いため息を吐いた。
リーゼロッテは呆れられてしまったかと焦ったが、すぐにテオドールはリーゼロッテに優しく微笑んだ。
「本当に可愛いな、そんなの最高じゃないか」
テオドールはスッと立ち上がり、強引に手を引いて踊り始めた。
さすが侯爵家当主なだけあって、テオドールのダンスの腕は抜群だった。
リーゼロッテは夢見心地で踊った。
あれだけ嫌な思いをさせられたアマンダとロザリアを撃退してくれた。
やはりテオドールはリーゼロッテのヒーローだったのだと心がときめいた。
そして一曲が終わったとき、何故かテオドールは再び踊り始めて、一曲と言っていたのに結局三曲連続で踊って、リーゼロッテはクタクタになった。
周囲はデレデレになる氷の侯爵に驚きつつも、ドレスといい、ダンスといい、妻にかける執着を隠そうともしないこの男を生温かく見守った。
一方、三曲も連続で踊ったリーゼロッテは、なんとなく初夜のことを思い出し、テオドールの一回は三回という意味なのかと学んだ。
その日の夜、テオドールがリーゼロッテの部屋を訪れた。
「テオドール様……申し訳ございませんが、今日はもうクタクタで……」
リーゼロッテがテオドールの誘いを断るなどあってはならないのかもしれないが、ダンス初心者に三曲連続は厳しすぎた。
「ああ、良いんだ。話だけしたくてね」
テオドールを部屋に通してソファを勧めた。
「君も隣に」
そう言われ、リーゼロッテはテオドールの隣に腰を下ろす。
「リーゼロッテ、アルトナー伯爵家のこと。君に知らせずに事を進めてすまなかった。縁談前にアルトナー伯爵家を調査していて知っていたんだ」
「い、いえ、テオドール様が謝られることは何もありません。むしろ助けて下さりありがとうございました。それより……」
「ん?」
伯爵家の問題は解決の方向へ進んで、リーゼロッテは感謝の気持ちでいっぱいだった。
だが、今はそれよりも気になることがある。
「あの……テオドール様は望んで私に縁談を申し込まれたと……」
「ああ、そのことか。間違っていない。私が君を選んだ」
「ど、どうして私だったのですか?」
まずはセバスチャンがテオドールの結婚相手に向いてそうな令嬢を選んで調査を行った。
その調査報告の中でも一際大人しく控えめそうな令嬢がリーゼロッテだった。
そして、継母と義妹に虐げられて嫌な噂を流されていることも調査報告で見て知っていた。
だから助けてあげたいと思った。
――ああ、テオドール様は本当にヒーローだった。
リーゼロッテの胸に熱いものが込み上げて自然と瞳が潤んでいく。
そんな瞳でテオドールを見つめるとテオドールは甘く囁いた。
「リーゼロッテ……、リゼ? 口づけても?」
一瞬コクリと頷きそうになる。
「だ、だめです……」
リーゼロッテはいつものように口づけを拒否した。
だが、今日のテオドールは諦めない。
「なぜだ?」
リーゼロッテは潤んだ瞳で応える。
「だって、口づけたら私本気で好きになってしまいます。テオドール様は初夜のとき私に本気になってはいけないとおっしゃいました」
テオドールは口をポカンと開けて過去を振り返った。
言った。間違いなく言った。
テオドールは過去の自分を殴りたくなった。
「すまない。初夜のとき、君には本当に失礼なことを言った」
テオドールは頭を下げて話を続けた。
「君も会っただろう、私の姉に。あんな高慢で弟を良いように使う姉がうちには三人もいたんだ。さすがに君のように虐げられたりなどはしなかったが、私は女性に良い思い出がなく、女性と聞くだけで不信感を抱くようになった」
初対面のときも初夜のときもどうしても女性に対する不信感が拭えなくて酷いことを言ってしまったと言い訳をする。
「そうだったんですね」
「だが、君は姉たちとは正反対で、控えめで可愛らしい。初夜のとき、ひどいことを言ってしまったが、そのすぐ後、君がいじらしく笑った瞬間に私は惚れてしまったんだ。今は……本当に君のことを……あ、愛しているんだ」
「テオドール様……」
リーゼロッテはテオドールからの初めての愛の言葉に一筋の涙をこぼす。
「リゼ」
テオドールはリーゼロッテの頬を伝う涙を親指の腹で拭い、片手でリーゼロッテの顎を掴んで顔を寄せた。
自然と二人の唇が重なる直前にリーゼロッテは、人差し指をテオドールの唇に当てた。
「えっ?」
今は口づけする雰囲気だっただろうとテオドールが不満そうな顔をした。
「ダメです。テオドール様。私あのとき、とっても傷付いたんですからね」
「そ、それはすまない。本当に申し訳なく思っている」
「だから、唇への口づけは当分お預けです! 今はこれで我慢してください」
リーゼロッテはテオドールの頬に軽く、ちゅっ、とした。
した後からリーゼロッテは、頬にとはいえ自分から口づけるなんて、と顔を赤くした。
一方テオドールの方もリーゼロッテから口づけてもらえるなんてと頬を押さえながら惚けていた。
◇
三ヶ月後。
「リゼ、そろそろ口づけを……」
「まだダメです!」
控えめな性格の割に執念深いリーゼロッテはまだテオドールを許してはいなかった。
テオドールがリーゼロッテから愛していると口づけてもらえる日はいつになるのだろうか。
拙い文章でしたがお読みいただきありがとうございました。
評価、感想いただけると嬉しいです。
【2023.9.11追記】
初短編でしたが、たくさんのブクマ、評価、いいね、感想までいただけて、ありがとうございます。
ちょっと思いついたSSを載せておきます(^^)
本編とは全く関係ないので、後書きに失礼します。
趣味の悪いリーゼロッテと、相変わらずのちょろヒーローテオドールが速攻手のひらクルーにより自滅していく様をご覧ください。
―――――――――――――
「誰がこんな趣味の悪い皿を使うんだよ」
テオドールは結婚のお祝いにともらった皿を手に取り眺めている。
そこには例の男爵家とは比較にならない、国内一の財力を誇る子爵の肖像画の描かれた皿があった。
禿げ上がった頭に丸々とした顔。これに食事を盛るのかと思うと食欲が落ちそうだ。
手に取った皿をため息と共にテーブルへ置く。
そこへリーゼロッテがやってきた。
「まあ、これはお金が貯まると有名なハインバウアー子爵の肖像画ではありませんか」
「ああ、子爵が結婚祝いにと贈ってくれたんだ」
リーゼロッテは皿を手に取ってその絵をまじまじと見た。
「たが、趣味が悪──」
「絵でも立派な福耳ですね。とってもお金が貯まりそうで縁起の良さそうなお皿です! せっかくですから、今日の夕食はこのお皿に配膳してもらいましょう!」
顔の横にお皿の絵が見えるように掲げて、満面の笑みをテオドールに見せた。
「ゔっ……! ……ああ、それがいい。そうしよう」
テオドールが胸を押さえながら苦しそうに応えるので、リーゼロッテはどうかしたのかと不思議に思った。
だが、すぐにいつもの仏頂面に戻ったので、指摘をするのはやめた。
◇
「うーん、やはり人様のお顔の上に乗ったものを食べるのはちょっと良くない感じがしますね」
テオドールはリーゼロッテのその言葉を聞いてホッとした。いつもならすぐ食べ終わるテオドールだったが、食べるたびに子爵の目が、鼻が、口が、見えてくるので食事が進まなかった。
「そうだな。すごく良い皿だが、食事には合わない。この皿は奥の戸棚にでも仕舞って──」
「テオドール様も、良いお皿だと思いますか!?」
テオドールは皿を仕舞ってしまおうと言いかけたが、リーゼロッテが食い気味に話しかける。
そのキラキラした目で質問されるとテオドールの答えはイエスしか出てこなくなってしまう。
「あ、ああ……」
「あー、良かったです! どうせならどこかに飾りたかったのですが、私の部屋には雰囲気が合わないので、テオドール様のお部屋に飾らせてください!」
「え……!?」
リーゼロッテのお願いを断りきれず、その夜、テオドールはハインバウアー子爵のぎょろっとした目に見守られながら寝る羽目になった。