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BECAUSE YOU ALWAYS STAND BY ME  作者: 古蔦瑠璃
第一章 水曜日
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5 事件の真相(2)

 背後でドアの開く音が、ばたん、として、あたし、椅子から飛びあがった。こわごわ振り向いて、ほっと胸をなでおろす。梓じゃなかった。20代半ばぐらいの体格のいい男性2人連れが、よう、とかなんとか挨拶をしながら入ってくる。彼らは莫さんに向かって、ホット2つね、と言ってカウンターの前を通り過ぎ、窓際のテーブルに陣取った。

 時計を見ると、6時を15分ばかりまわっている。電話があったのって、10分ぐらい前だっけ? 梓の家の最寄りの駅から電車に乗って7分。降りて歩いて15分。電車の待ち時間を計算に入れても、迷わずここを見つけられたとしたら、30分ぐらいでここにつく。あたしってば、ほっとしている場合じゃないよ。


「どうしたの?」


 司くんが聞いてくる。


「落ち着かない?」


 あたし、傍目にもそわそわしてるんだと思う。時計を見たり、振り向いてドアを確認したり……。


「やっぱ、移動しよう」


 司くんは椅子をたち、紅茶のカップとサンドイッチの皿を持ち上げる。


「座って、お茶飲んで、少し落ち着いてさ」


 そう言いながら、窓際から少し離れた入り口の近くの席にカップと皿を移動させる。お京さんがもう一度、どうしてぇ? なんて聞いてきたけど、司くんは内密の話があるのさ、なんて返して、さっさと移ってしまった。あたし、携帯だけ持って席を移る。司くんは、入り口が見える側の椅子をあたしに勧め、自分はドアに背中を向けて座ると、あたしの顔を覗きこんで、再びにこりと笑った。


「大丈夫だよ、普通にしてればいいんだから。いつも通り、いつも通り」


 え??? 一瞬、司くんの言葉の意味がわからないあたし。きょとんとして見返して、そのあとで気がついた。司くんには図書館で、梓に告白したとこ見られてる。速攻振られて落ち込んでやさぐれてたとこも。

 間抜けだー。たった今、そのこと忘れてたよ、あたし。


「うん、あのね……」


 あたし、小さく頷いて口ごもる。確かに梓と顔を合わせるのは気まずいと思ってる。でも、そうじゃなくて、心配事は別のことなの……。  だけどそれを、どうやって口に出そう。どうやって説明しよう。


「なに?」


 2人掛けのテーブルは小さめで、覗きこんでくる司くんの顔は、意外と間近にある。ちょっとレトロな感じの洋楽(それでも結構うるさい)の流れる空間で、小さな声で話をするにはうってつけ。でも、話の取っ掛かりがうまく思いつけなくて、あたし、黙り込む。


 ──あたしたち、新聞の記事を読んでるの。


 だめだ。これじゃ、一体なんのことだかわからない。


 ──7年前、司くん誘拐されなかった?


 無理。面と向かってこんなこと聞く勇気ない。


 ──莫さんとは、どういう知り合いなの?


 遠まわしなくせに、ぶしつけな質問になっちゃうよね。

 どうしよう……。


「あたし、もう少ししたら……下に迎えにおりるね。暗くなってるし、梓がここを見つけられないといけないから」


 考えた末、やっとそれだけ口に出して言った。それから気詰まりな気持ちのまま、紅茶を飲んで、サンドイッチを口にした。薄くスライスしたトマトとレタスとツナ。おいしい。食べ始めると、案外お腹がすいていたことに気づく。夕食時だもんね。

 食べながらどうでもいいことを思い出す。7時になったら兄貴に電話入れないと。ママは仕事が遅番だから今日は9時を過ぎるけど、兄貴は今夜はバイトがないっていってたから、多分早く帰ってくる。っていうか、この頃兄貴、ママより心配症なんだ。なんだろーね、自分は平気で外泊とかしちゃうくせに。

 司くんがさっきの紙切れをカウンターから持ってきて、それにさらさらとなにかを書いてよこす。


「これ俺のケータイの番号とアドレス。鞠乃ちゃんのも教えて」


 あたし、サンドイッチを食べ終わって、紅茶をもう一口飲んでから、携帯を手に取った。司くんがメモに書いた番号を登録すると、司くんに聞いた。


「ケータイ、今持ってる?」

「いや、奥に置いたカバンに入れっぱなし」

「じゃ、電話番号入れてメールで送っておくね。あとで確認して」

「OK!」


 胃にものが入るとなんだか少し落ち着くね。あたし、一回大きく息を吸い込むと、椅子を立って、司くんに切り出した。


「そろそろ下に降りて待っていたいんだけど、その……一緒に来てもらってもいい?」

「いいよ」


 司くんは自分の腕時計をちらりとのぞくと、立ちあがった。


「なんかどきどきするな。大掛かりなジョークかなんかで担がれてるんじゃないかって感じが抜けないし」


 大掛かりなジョークって、だれが何のためにするの?なんて口に出して返せる心境じゃなくて、あたし、ただ黙って笑い返した。もしなにかの間違いで、司くんと梓が姉弟でもなんでもないのなら、そのことのほうが驚きだと思うけどな。そう考えながらに司くんを見返した次の瞬間、あたしはその場で凍りついた。

 ゆっくりと開いたドアから、白い襟元の紺の制服の、すらりとした手足の、ストレートロングヘアの女の子が入ってくるのが、彼の肩越しに見えた。彼女はぐるりと店内を一瞥し、あたしの姿を見つけ、微笑んだ。

 だめだー。絶体絶命。悠長に食べてる場合じゃなかったよー。ていうか、なんでこんなに早く来るのよ。まだ20分を少し過ぎたばかりじゃないのよー。

 あたしの表情に気づいたのか、司くんが振り向いた。司くんを見る、梓の目が丸く見開かれる。口元が、つかさ、と動くのを見たけど、声は聞こえなかった。梓は駆け出さんばかりの足取りで、あたしたちの傍らにやってきて、今度は本当に声を出して、つかさ、と呼んだ。

 彼女はひどくこわごわといった仕草で司くんの顔に手を伸ばし、けれども触れられずにその少し手前で腕を止めたまま、おずおずと彼を見上げて、尋ねた。


「無事で、元気でいたの? どこで、どうしているのかちっともわからなくて、心配したのよ」


 言われて司くんは、ちょっと困ったような顔になる。それから彼は、ゆっくりと首を振った。


「悪いけど……俺はあんたを知らない。親父が離婚する前のこと、なんにも覚えてないんだ」

「覚えて……ないの?」


 手をひっこめた梓の戸惑ったような顔に、司くんは頷いた。


「さっき図書館で、あんたが彼女と一緒にいるところを見て──」


 彼女と──の言葉のところで、司くんは、あたしを目で指しながら、


「それで好奇心にかられて、図書館に残っていた鞠乃ちゃんに声をかけた。あんたと俺がきょうだいだっていう話は、きょう聞いたところなんだ」


 そして、司くんは梓に笑いかける。


「それにしても、その制服で、妹じゃなくて姉だって言われても、なんかぴんとこないな」


 少し小さめの、やわらかな声。優しい口調といったらいいのかな。それを聞いて、どこかおびえたようだった梓の表情が少し緩む。


「入院ばかりしててなかなか進学できなかったの。だけど本当に、あなたと同じ19よ」


 それから梓はもう一度両手を伸ばして、今度は本当に司くんの頬に触れた。


「元気そう。よかった……」


 よく似ている2人だけど、並んで見ると、やっぱりすこーし違う。身長も頭半分ぐらい違うし、骨格も違う。それに梓は華奢なだけでなくてやっぱり痩せてもいるんだと思う。司くんより顎が細くて少し尖った印象を受ける。一番大きな違いは、見た目より何より、声だけど。しゃべり方も違うし、イントネーションのくせみたいなものも全然似たところがないんだもん。あたしと兄貴は声は違うけど、しゃべり方が似てるって言われることあるんだよね。(でも、それすごくイヤ)

 それでも一卵性双生児って言っても通るぐらいそっくりっていうのはウソじゃない。もしも梓が長い黒髪をベリーショートにしたら、今のヘアスタイルでいるのとがらりと雰囲気が変わって、男の子みたいに見えちゃうかもしれないっていうのは、あたしにとって新しい発見だけど。

 ほっぺを両手で包まれて、今度は司くんのほうが、固まっちゃってる。


「ええっとー、そのさあ……」


 困ったような顔で、梓の手を取って、そっと顔からはずす。

 梓は少し俯いて、指を引っ込めた。


「ごめんなさい。懐かしくて……。それに、ずっと──気になってたから」

「とりあえず座ってよ。鞠乃ちゃんの隣にでもさ。あんたも鞠乃ちゃんと同じ紅茶派?」


 聞かれて梓は、あたしの空のティーカップに目を落とし、それから軽く頷いた。

 司くんは、壁際に立てかけてあったメニューを梓に手渡しながら言った。


「なんでも注文して。おごるからさ」

「大丈夫よ」


 カバンを椅子の脇に下ろして座りながら、受け取ったメニューに目を走らせて、そう、梓は首を振る。


「おこづかいで払えなさそうな高いものはなさそうだし、自分で出すわ」

「高いものだとおごれない」


 司くんが言った。


「俺も学生だから。でも、ここは出させてよ。鞠乃ちゃんひきとめちまったのも、ここに連れてきたのも俺の方だし」

「学生って、大学?」


 視線はメニューに落としたままで、梓はそう尋ねた。


「そう」


 司くんの短い返答に、あたし、横から言葉を添える。


「司くん、H大学の法学部なんだって」

「法学部?」


 梓は首を傾げて聞き返した。


「法学っておもしろい?」

「え……と?」


 梓の質問に、司くんはいぶかしげな顔になって聞き返す。


「それって、どういう質問?」

「法律に興味あるの? なぜ?」

「うーん……」


 司くん、ちょっと困ったような顔になって、首をひねる。


「1番目の質問の答えはイエスだけど、なぜ?っていうのにはどう答えよう。まじめに答えてると長くなるし……」

「長くても聞きたい」

「えーと……」


 司くん、ちょっと鼻白んだ様子で、こう答えた。


「短い方の答えでいいかな。俺、弁護士志望なんだ」


 梓は、その答えに満足できなかったみたいで、黒目がちの目で司くんをじーっと見たまま、重ねて聞いた。


「なぜ?」


 その質問には、司くんは居心地悪げに身じろぎしたけれども、ちょっと考えて、こう答えた。


「納得のいかないことが多すぎるから、かな。納得のいかないことを正面に据えて、いろいろ考えながら突破口を探ってみようと思ってさ」


 それだけ言うと、司くんはこんな曖昧な答えじゃだめかな?てな感じの顔で、神妙に梓を見返した。ふっと、梓の表情が緩む。


「私、法律とか経済とかよくわからないの。だからそんな選択肢、はなっから頭になかった。双子なのに、不思議ね。別れているうちに、内側から全然違ってきてしまっているのですもの」


 梓の言葉を聞いた司くんのほっとした表情、やれやれ助かったー!といったところ。おかしい。

 ていうか、梓? 状況わかってるよね? 梓には司くんは生き別れの双子の弟だけど、司くんにとって梓は、初対面の人間なんだよ?


 あたしが2人を見比べていると、コトン、と氷水の入ったコップが梓の前に置かれた。お京さんだった。テーブルの脇にトレイを持って立って、澄ました声で、尋ねてくる。


「ご注文は?」


 声は涼しげだけど、好奇心に満ちた視線で、梓をじろじろと見ている。様子を見にきたのがバレバレ。梓は気づいてないみたいだけどさ。もっとも彼女の場合、普段からぶしつけな視線に慣れてるってのもあるんだけど。見た目も綺麗なコなんだけど、それだけじゃなくて、なんていうか、立ち居振る舞いがおっとりしているっていうのかな? 優雅だっていうの? ちょっと人目を引くような雰囲気持っているんだよね、梓って。(ホントはただ不器用でマイペースなだけなんだけど)

 梓、メニューにもう一度視線を落とす。


「グレープフルーツジュースください」

「なんか食ったら? 腹減ってるだろ?」


 司くんの言葉に、梓はあたしの方を向いて、聞いてきた。


「鞠乃はなにか食べたの?」

「うん」

「じゃ、私もお腹に入れておこうかな」


 メニューはほぼ飲み物メインで、食べ物はサンドイッチのほかには、トーストとホットケーキぐらいしかないみたい。梓は首を傾げて少し考えたあと、やっぱりサンドイッチを注文した。


「グレープフルーツとサンドイッチですね。かしこまりました。お待ちくださいませ」


 澄まし返ったお京さんの口調に、司くんは肩を震わせて、笑いを噛み殺している。ていうか、お京さん、かしこまってても怪しすぎだよ。特にその華奢なデザインのファッションリングをはめた指だとか、細いチェーンのブレスレットだとか、グロス塗った唇だとか、ヒールつきの紫のブーツだとか……。営業スマイルは極上品だと思うけどね。

 でも、この際莫さんの代わりに注文取りに来てくれたのはぐっじょぶよ。お願い、頼んだものも、莫さんの代わりに運んできてくれると嬉しいな、なんて。テレパシーあったら送っちゃうんだけどな。

 ところがお京さん、そんなあたしの思惑をよそに、カウンターに向かって大声で言った。


「グレープフルーツ、ワン、サンドイッチ、ワン」


 カウンターの莫さんがこちらを向いた。


「了解。サンキュー、京平」

「ああ、莫、ついでにあたしにもコーヒーお代わりね」


 梓が顔を上げ、カウンターの方を見た。莫さんもこちらを見てる。少し目を見開いて、驚いた顔して。

 莫さん、カウンターに戻ってきたお京さんに何か言った。お京さんがこちらを見て頷く。そっくりだね。そーでしょ、あたしも驚いたってばー。察するに、こんな感じのやり取り。

 カウンターに気をとられている様子の梓に、司くんが話しかける。


「あのさ、俺、あんたのこと、なんて呼べばいい? 姉さんってのは勘弁な。わりぃけど実感わかねーしさ」

「え? ええ」


 振り向いた梓、少し考えるみたいに小首を傾げる。

 司くんは、重ねて聞いた。


「梓ちゃんでいいかな。そーだ、そういえばさ、苗字はなんていうの?」


 梓はすこおし口をすぼめた。よく、拗ねる直前に見せる表情。司くんの言葉に、梓はちょっと傷ついたみたい。

 けど、実際には梓は拗ねる代わりに、静かな口調で答える。


「苗字は森園もりぞのっていうの。母方の祖父母の姓よ。ママが離婚して旧姓に戻ったとき、私も菅生から森園に変わったの。呼び方は、チャンづけでなくてもかまわないわよ。昔はアスちゃんって呼んでくれてたけど、覚えてくれてないのは残念だわ」

「アスちゃん? アズちゃんじゃなくて?」


 そう聞き返した司くんに、梓は口元だけで微笑んだ。


「ざじずぜぞの発音ができなかったのよ」


 司くんが黙っていたので、梓は続けて言った。


「あなたがだんだんしゃべらなくなっていって、あの人に連れていかれてしまう前は、ほとんど口をきかなくなってしまっていたから──もしかしたら、私が覚えてるのは5歳よりもっと小さなあなたの記憶かもしれないんだけど」

「あの人……って、親父のこと?」


 そう聞き返す司くんの顔を梓、なんだか泣きそうな顔で見返した。


「どんな風に、暮らしていたの? 殴られたりとか……してたの?」


 それはかすかに震える、小さな、不安げな梓の声。


「私、知らなかったの。ママが話してくれたのは、ずいぶん後になってからで……ママも一人で悩んでいたのだと思うのだけど……私……私のことを脅しの材料にして、あの人はママからあなたを取り上げた。裁判を起こしたら、お前に勝ち目はないって、2人とも自分が引き取ることになるだろうって。お前が1人あきらめれば、すべてうまくおさまるんだ、って言って。私は心臓の疾患を抱えていたから、もしもあの人のところに連れて行かれたら、殺されてしまうかもしれないって本気で思ったって、ママは言ってた。医者なのに……娘を殺してしまうかもしれない人だなんて……そんな心配しなきゃいけないなんて。ママは自分も何度も殺されるかもしれないって思ったって言ってた。私、あの人と暮らしていたころの……あのときの光景が今でも目に焼きついて離れない。ママとあの人の間に立ちふさがった小さなあなたを、あの人は思いっきり殴り倒して、あなた、テーブルに激突して、前歯が全部折れて、おでこが割れて血が噴き出して……」


 不意に梓は黙った。莫さんが飲み物を運んできたからだ。一たんあたしたちの横を通り過ぎて、窓際のテーブルにコーヒーを2つ置いたあと、こちらにとって返してきて、布製のコースターを置いた上に、グレープフルーツジュースをなみなみと注いだ大きめのグラスを静かに置く。

 突然始まった梓の告白のような昔話にたじろぎながらあたし、莫さんの仕草を眺めて、近くで見てもやっぱり指が長くて綺麗だなー、なんてぼんやりと考える。


「あのさ……」


 黙って聞いていた司くんが、ちょっと困惑顔で切り出した。


「俺、本当に何も覚えてないし、あんたが嘘をついているとかは思わないけれども、なんていうか……現実感がないっていうの? 別に殴られて育ってないしさ」

「ほんとに?」


 梓は首を傾げて聞き返した。


「ほんとに殴られたこと、ないの?」

「いや、まったくないかっていうと……そうでもないけど……その、前歯が全部折れたとかいうのは……」

「タオ」


 不意に横から莫さんが口を開いた。


「初めて会ったとき、君のTシャツ、血まみれだったよね」

「あれは鼻血だよ!」


 司くんは振り向いて莫さんを見上げ、梓に対するのとうってかわった強い口調で返した。

 莫さんは首を振り、控えめな口調で言った。


「口の端が切れていたし、頬にも青アザができてた」

「あのときのことを引き合いに出すと、話がややこしくなる。悪いけど、口を挟まないでいてくれないか?」


 莫さん、あたしと梓をちらりと見たけど、今度は何も言い返さなかった。隣のテーブルの椅子を整えてから、カウンターに下がりかけた莫さんに、梓が声を掛ける。


「待って」


 莫さんはいぶかしげに振り向いた。

 梓は大きな目を見開いて、莫さんをじーっと見上げた。


「小宮山莫さんですよね」


 莫さん、一瞬だけ戸惑った顔をして、それから軽く頷いた。


「そうだが……」

「私、以前あなたを訪ねていったこと、あるんです」


 静かな梓の声。


「ある事件を追っていて、あなたに聞きたいことができたから。でも、会ってもらえなかった。仕事はもう廃業したから、人には会わないんだとか言われて」

「自宅のほうに?」


 莫さんの問いに、梓は頷く。


「電話も何度かかけたけど、いつも留守電でした。だから、住所を調べたんです」

「それはすまなかったね。ずっと、知人以外からの電話には出ないようにしてきたからね。それに、一時期、記者が何人かうろうろしていたこともあって、訪問者が何を言ってもほぼ追い返していたんだ。君はあのとき、タオの……」


と、そこで莫さんは言葉を切って、言い直した。


「司くんのお姉さんだと、名乗っていたかな?」

「ええ。でも、信じてもらえなかったみたいでしたけど」


 梓の言葉に、莫さんは頷いた。


「信じていなかったよ。適当なことをでっち上げて人を玄関先に呼び出しておいて、いきなりシャッターを切るような輩もいたからね」


 莫さんはもう一度、すまなかったね、と繰り返し、それからこう聞いた。


「今でよければ、聞きたいこと、というのに答えることができるかもしれないが、いまさら聞いてもしかたのないことなのかな?」

「ええ、そのとき一番聞きたかったのは、司の消息でしたから」


 そう言って、梓は口元に微笑みを浮かべる。

 あたし、少し気の抜けた、それでいてまだハラハラも残っているような気分で、莫さんと梓の横顔を交互に見比べた。

 梓の言う『ある事件』が、新聞の隅に莫さんの顔が乗っていた誘拐事件のことだっていうのは、たぶん間違いないと思う。けど、少なくとも梓は、怒ってるような感じじゃない。言葉の調子に棘がないもの。


 それよりあたし、梓が莫さんの家を訪ねて行ったなんてちっとも知らなかった。去年図書館であらゆる新聞社の新聞のバックナンバーを引っ張り出して読みふげっていた梓だけど、そのあと何か具体的な行動を起こしていたようには見えなかったのに……。


「私と母は、菅生(すごう)が引っ越してしまったとき、その転居先を教えてもらえなかったんです。だから、あなたに聞けばわかるかと思って……」


 梓はパパのことをあたしに説明するときも、菅生、といつも呼び捨てにする。きっとパパともお父さんとも呼びたくないせい。梓のママと別れる前に、そんなおっかない出来事があったことは聞いてなかったけど、なーんかあるんだろうなっていうのは、以前から何となく思っていたことだった。

 莫さんは少し首を傾げ、こう聞き返してきた。


「なぜ、私が司くんの転居先を知っていると思ったんだね」


 すると、梓はさらに、質問を返す。


「知らなかったんですか?」

「いや」


 莫さんは首を振った。

 そこで、それまで黙っていた司くんが、口を開いた。


「梓ちゃん……いや、アズちゃんの方がいいのかな? あんたの言っている事件が、7年前のS市の小学生誘拐事件のことだとして、まず断っておくけど、最初の記事とか、テレビの報道とかはデタラメだぜ」

「知ってるわ」


 梓は少し物憂げな仕草で、両肘をテーブルについて指を組み、その上にあごを乗せた。


「いろいろ調べたのだもの。警察にも行ったし、新聞記者のところも訪ねた。もっとも警察ではたいしたことは教えてもらえなかったけど。関係者の家族だって説明しても駄目ね。菅生に直接聞けと、その一点張りだったわ。聞けるのなら……連絡が取れるものならわざわざ訪ねていったりしないのに。F新聞の、松崎さんっていう人が、記事にしそこねた事件の顛末を説明してくれた。司、あなた、本当は誘拐されたのじゃなくて、家出して、小宮山さんのところに行ったのですってね」


 梓の言葉に、司くんは首をひねった。


「うーん、その言い回しだと、それはそれでまた、微妙に誤解がある気がするけど」

「松崎さんが言ってたの。あなたは保護されてからも、小宮山さんのことを絶対悪く言うことなかったし、むしろ一生懸命庇ってたって」


 無言で梓を見返す司くんに、梓は聞いた。


「小宮山さんは、司、あなたの恋人だったのではなくって?」

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