4 事件の真相(1)
「はい、どーぞ。これは莫のおごりよ」
カウンターの椅子に並んで腰を下ろしたあたしたちの前に、両面をこんがりと焼いたツナのホットサンドを、お京さんがトンと置いた。
「ありがとうございます」
あたしが、マスターの莫さんの方を向いてそう言うと、莫さんは、どうぞ、と短く返事をした。
「莫、あたしには?」
お京さんはそう言いながら、あたしの隣に腰掛けてくる。
「半年ぶりに戻ってきたんだから、あたしにも、なんかおごってくれる気はないの?」
反対側から司くんが、横を向いてあたしに言った。
「まりのちゃん、なんか飲み物注文しろよ。俺、払うからさ」
あたしは、立てかけてあるメニューを取って、覗き込んだ。ブレンド、ブルマン、キリマン、モカ、マンデリンなどなど、コーヒーのメニューは多いけど、紅茶はダージリンとアールグレイだけ。フレッシュミルクをたっぷりと入れたアッサムティーが好きなんだけどな。
莫さんはお京さんに返事をしなかったけれども、ホットサンド用のプレートでもう1枚トーストを焼き始めた。ひょっとして、無口な人なのかな?
口ひげを生やし、漆黒の髪は撫でつけてオールバックにしてる。目がほんの少しつり上がっていて、アーモンドみたいな形。彫りの深い日本人離れして整った顔だけど、表情があんまり動かず、冷たい感じ。ううん、冷たいっていうと、言い過ぎだよね。えーと、もの静かな感じ。立て板に水といった調子でよくしゃべるお京さんとは対照的。
「莫さん、俺、マンデリンにするよ」
司くんが言うと、莫さんは、やっぱり黙ったままサイフォンを用意し、コーヒーを淹れ始める。姿勢がよくて、指を動かす仕草が流れるように綺麗。
でもね。でも、あたし、さっきから何かが引っかかってて落ち着かない。莫さんと、どっかで会ったことなかったっけ? なーんか見覚えのある顔。莫って名前にも聞き覚えある。どっかで……どこだっけ?
考え込んでいると、司くんが聞いてきた。
「まりのちゃんは決まった?」
あたし、あわててメニューに視線を落とす。
「んーと、アールグレイにしようかな」
莫さんはやっぱり黙っていたけれど、ハリオールを用意して、棚から紅茶の缶を出す。
あたしの言葉にお京さんが振り向いて、メニューを覗きこんでくる。
「アールグレイ、まだ置いてるのね?」
「そこそこ需要があるからね」
莫さんはティーカップに湯を注いで温めながら、そう返事をした。
「女性客には人気があるね」
「フレーバーティー、もっと置けばいいのに。アップルとかミントとかバニラとかさ」
「だれが飲むんだ?」
莫さんの質問に、お京さんは、うふふと含み笑いをする。
「さあね。でも、名前がカフェじゃなくてティールームなのに、コーヒーより紅茶が少ないのは変だわ」
「客層に合わせてるのさ。常連のほとんどがコーヒー党だからね」
「コーヒーも嫌いじゃないけど、やっぱ朝は紅茶よねー。ねえ、まりのちゃんはコーヒーと紅茶のどっちが好き?」
お京さんは、そう話を振ってくる。
「あたしは紅茶派です。普段はコーヒーは飲みません。だけど、こういうとこで、豆の香りをかぐと、飲んでみよーかなって気になりますけど」
「莫の淹れるコーヒー、結構イケるわよ。紅茶だと何が好きなの」
「アッサムティーが。あと、オレンジペコーも」
「アッサムはミルクティで?」
「そうです」
「さっぱりしてて、おいしいわよねぇ。あたしも好きよ。……タオはコーヒー派だっけ?」
お京さんの質問に、司くんはこう答える。
「いや、俺はビール派」
「生意気ね、未成年のくせに。どうせ味なんてわかんないんでしょ。好きな銘柄を言ってみなさいよ、ええ?」
「銘柄は別になんでもいいんだけど」
「ほらごらんなさい」
勝ち誇ったようにお京さんは言った。
他愛のない質問に、他愛のない会話。莫さんが、湯気の立ち上るコーヒーカップを司くんの前に置き、あたしの前には繊細な模様のティーカップを出して、ハリオールから紅茶を注いでくれた。かぐわしい香り。コーヒーも紅茶も、喉を潤すものというよりも、香りを楽しむものだね。
お京さんの前にはなぜかツナではなく、プチトマトを添えたタマゴサンドが置かれる。お京さんの好物なのかな? それから莫さんはソーサーに載せたコーヒーカップをお京さんに手渡しながら尋ねた。
「京平は、いつ帰ってきたんだ?」
「2日前よ。ちょうどガルーダの便がとれたからね」
「帰国は急に思い立ったのかい?」
「ていうかー、実をいうと、ビザの期限が切れるところだったのよね。貧乏旅行にもいいかげん嫌気がさしてきたところだったし……結局インドの何が修ちゃんを惹きつけたのか、わっかんないままだったわぁ。写真はたくさん撮ってきたけどさ。でも、ま、人間はおもしろかったわよね。こっちでは見られないいろんな光景に出くわしたし。ストリートボーイとかもゴロゴロいてさ。ドラッグの密売から観光案内から売春から、なんでもござれって感じなのよ。だけど、逞しいっていうのとなんか違う。妙に無気力だったわよね。あの無気力に同化したら、インドの人間になれるのかしらと考えたりもしたわ」
「英語は通じたかい?」
「デタラメイングリッシュよ。それでもなんとかなるもんね。北部の遺跡も巡ってきたのよ。一度ホールドアップに遭って、命が危なかったってのはあったけど、おおむね平穏無事な旅。運がよくて、有能なガイドをチャージできたのよ。あたしはどっちかっていうと北部の方が好きだったかもしれない。あのままずっと歩いて行けたら、なんて流れる雲を見ながら夢見てた」
お京さんはひとつ溜息をついた。
「でも、東京の空の色も好き。こっちは日暮れが早くて、なんかメランコリックな気分になっちゃうけどね。ところで莫、新しいアパート見つかるまで、ここに住まわせてもらってもいい?」
お京さんの質問に、莫さんは苦笑いする。
「どうせ、そのつもりでスーツケース運び入れたんだろう? しかし、もし住みこみのアルバイトでも入れてたらどうする気だったんだ?」
「それは考えつかなかったけど、お店ごと賃貸ししてたらどうしようとは思ったわよね。階段をのぼって、看板の名前が変わってなくってほっとしたわ。荷物抱えてまたタクシーでうろうろするのはごめんだもの。もし、誰か先に住んでたら……そうねえ、泣き落として追い出すの。あたしには行く場所がないから譲ってお願いっ!って言って。それか、好みのタイプだったら、一緒に住むっていうのもありかもね」
「むしろ、一緒に住もうとか言われたほうがすんなり追い出せるかもな」
そう軽口をたたく莫さんに、お京さんは言い返す。
「あら、あたし、自分で言うのもなんだけど、結構お買い得だと思うわ。尽くすし、優しいし、ルックスだってまあまあだと思うしー」
「どうだろうね」
莫さんは腕組みをする。
「相手はそれでよくても、京平の好みは案外難しいからなあ……。実際のところ、ここに出入りしている連中の中には、好みのタイプはいないんじゃないか?」
「そうお?」
お京さんは首をかしげる。
「いつだったかナナちゃんが連れてきた彼、劇団ピクシスの……あの人なんか割と好みだったわぁ。それとあんたの元同業者の山岡さんも……」
「それは見た目の話だろう」
「あーら、わかっちゃったぁ」
きゃらきゃらとお京さんは笑う。
「でも、見た目って大事よぉ。山岡さんってほんとに渋くていい男」
「山岡は妻子持ちだし、そもそも昔の同僚と茶を飲む趣味はないからここには来ない。劇団ピクシスの……名前、忘れてるな……そいつも、あのとき一度来たきりだよ」
莫さんはサイフォンを水洗いして定位置に戻しながら、つぶやくように言った。
「それにしても、京平の言うのは、いつもながら、ノンケくさいやつばっかりだなあ」
「まあね」
お京さんはうつむいて、コーヒーシュガーをスプーンに半分だけすくって入れてかき混ぜる。
「いわゆる普通の男の人って、好きなのよね。はみ出した部分がなくて、ごく当たり前に男性でいられる人。ないものねだりだわよね、自分がそうでないのに」
それからお京さん、コーヒーを一口飲んで、んーおいしー、とつぶやくと、顔をあげて言い加えた。
「けどさ、あんた人のこと言えないでしょ。ええ? ノンケ食いの莫さん」
「おいおい」
莫さんはまばたきをして、お京さんを見た。
「その言い方はないだろう。人聞きの悪い」
「そーお? でもこれ、あたしが言い出したことじゃないわよ。昔っから素人くさい子ばっか引っ掛けてるじゃない。言われて当然だと思うわ」
あたし、さっきからぽかーんと口を開けて、2人の会話を聞いてたかもしれない。ていうか、ゲイの人たちの会話をライブで聞くのなんて初めてだったから、すっかり気圧されてしまう。
ノンケ食いって、ストレートの人が好きだっていう意味かな? でも、人聞きの悪いって莫さんが言っていたから、何か悪いニュアンスが含まれるのかもしれない。引っ掛ける……っていうからには、ナンパ師だってことなのかな? けど、莫さんはどちらかというと口数が少なそうで、そういうの、なんかイメージじゃない。
横を見ると、司くんは片方の肘をテーブルについたままの、お行儀の悪い姿勢でホットサンドを食べている。話は聞いているんだろうけど、特に興味もないといった様子。
目が合うと、にこりとされた。あたし、ちょっとどきっとする。司くんの笑顔は不思議。梓とおんなじ顔なのに、絶対梓がしない表情になる。それを見るとあたし、なんだか悲しいような、懐かしいような、ふわふわとした気持ちになる。いつも儚げで、悲しげで、微笑む顔さえもどこかさびしげな梓。目の前にあるのは、きっと少女時代に梓がどこかで置き去りにしてきた笑顔。さっき、雨の中で差し出された手を思わずとってしまったのは、それをもう少しだけ見ていたかったからかもしれない。
「どうしたの? ぼんやりしてさ」
司くんは聞いてくる。
「サンドイッチ、食えば?」
「うん」
小さく頷くあたしを見て、司くんは少し身を乗り出すようにして、小声で聞いてきた。
「まりのちゃん、ひょっとしてびびってる?」
「……うん。ちょっとね」
司くんの質問に、あたし、ちいさぁ~い声で、遠慮がちに答えた。
「お京さんも、身も蓋もない言い方をするからなあ……」
司くんがそう口にしたとたんにお京さん、あたしたちの方を向いた。
「タオ、今なにか言った?」
「あー聞こえたの?」
「聞こえたのって、内緒話なら、ひそひそ声でやんなさいよ」
「内緒話じゃねーよ。お京さんの方こそ、ノンケ食いだの、引っ掛けるだの、そういうコアな話はもう少し遠慮してしろよ。となりでまりのちゃんがおびえてるだろ」
「あら、ま」
お京さんは口を押さえ、それから手を伸ばしてあたしの髪を撫でた。
「ごめんねぇ、まりのちゃん」
「いちいちべたべた触んなよ」
司くん、あたしの腕を引っ張って、お京さんから引き剥がしにかかる。
「いいじゃないのー。だーって髪の毛やーらかくって、子猫みたーい」
お京さんはあたしを司くんから引っ張り戻しながら、ますますあたしの髪の毛を撫でて、ぐしゃぐしゃにする。これって一体どういう状況?
だれにどう救いを求めていいかわからなくて見上げた先にちょうど莫さんがいて、目が合った。莫さんはこちらを見て、人の悪そうな笑みを浮かべ、落ち着き払った声で言った。
「京平、コーヒーがこぼれる」
「え? あらやだ」
お京さんはあたしから手を離し、コーヒーカップを少しばかり向こうへ押しやった。
そこで莫さんは話を引き戻す。
「京平がここにいるのは構わないが、住居はともかく仕事はどうするんだ?」
「んー、ああ、それはゆっくり捜すつもり。修ちゃんと2人で貯めた貯金もまだあるしね」
「カノンにコンタクトとってみたらどうだい? オーナーが腕のいい美容師がなかなかいないって、ぼやいてたよ」
「やーよ。あいつとはそりが合わないんだものー。人をオカマちゃんとかなんとか、馬鹿にした調子で呼ぶのよ。やってらんないわよ」
莫さんは肩をすくめる。
「どうってことないだろう、それぐらい」
「普通だったらあたしもそんなに気にしないわ。でも、とにかくあいつはヤなやつなの。自分だって同じ穴のムジナのクセして、マッチョじゃない男はウジ虫かなにかだと勘違いしてるのよ。一緒に仕事したことない人には説明しづらいんだけど、いっちいち色眼鏡でしかものを見ることができない人」
「京平の帰国を知ったら、戻ってきてほしがると思うんだけどな」
莫さんは考え込むように天井を見上げ、
「じゃ、連絡が来ても中継ぎの必要はないと考えてていいかい?」
「そぉね。気が変わったら自分から連絡するし……気は変わんないと思うけど。ああ、お水くれない?」
お京さんはそう言うとコーヒーを飲み干した。
「ミネラル? 水道水でいいか?」
「ミネラルがいい。ペリエ置いてる?」
「置いてない」
「じゃ、どんなでもいい」
莫さんは冷蔵庫を開け、プルトップの缶に入ったミネラルウォーターを取り出し、グラスを添えてお京さんの前に置く。木曾の岩清水ってラベルが読めた。
それから莫さん、少し下がって後ろの壁に背をもたれると、胸のポケットからタバコを一本取り出し、口にくわえ、おもむろに言った。
「これは提案なんだが……。さしあたって仕事がないのなら、ここの店番を頼めないかな?」
「なんで? それと、莫、タバコ吸うんなら、まりのちゃんに聞いてからになさいね」
莫さんが伺うようにあたしを見たので、あたし、慌てて、どうぞおかまいなく、と答える。莫さんは、サンキュ、と短く言うと、タバコに火をつけ、お京さんに向かってこう言った。
「このところデザインの方の仕事が、少々忙しくなりかけててね。そうそう店も開けてられなくなりそうだから、どうしようか考えていたところだったんだ」
「ほんとに?」
お京さんは目を見開いた。
「すごいじゃない、莫」
それからお京さんは、振り向いて司くんの方を見る。
「よかったわねー、タオ」
「……ああ、そうだな」
やや間があいて、司くんはそう答えた。なにか言おうとしてためらってやめたような、そんな雰囲気。なんだろう。司くん、考え込んでるような顔をしてる。
「京平。タオは関係ないだろう」
「あら、そんな言い方。あんたの仕事についてはこの子はずっと気にしてきたんですからね。あげくには、代わりに弁護士になろうかっていうぐらい」
けど、そのお京さんの言葉には、司くん、すかさず訂正を入れた。
「お京さん、それは違うよ。悪いけど、そんな曖昧な動機じゃない。具体的に自分にできるかもしれないことがビジョンとしてあるんだ」
「タオ、あんた、んっとーに生意気言うようになったわねぇ」
感心したようにお京さんは首を振った。
「で、その具体的な動機ってなによ」
「それはノーコメント」
「その言い方も生意気!」
あたし、話の流れがわからなくて、莫さん、お京さん、司くんの顔を順番に見た。莫さんの仕事について司くんがずっと気にしてきたって、どういうことだろう。代わりに弁護士になるって? 莫さんは弁護士だったの?
デザインの仕事って、莫さんは言った。なんのデザインかはわかんないけど、弁護士とデザインの仕事じゃ、180度方向性が違う気がする。莫さんってどういう人なんだろう?
司くんが小声であたしに言った。
「早く食っちまえよ。テーブル席に移ろうぜ」
「えー? なんでよぉー?」
横からお京さんが大きな声で聞いてくる。
「やだー、行っちゃうのぉ? まりのちゃん。ここにいてよ」
「カウンターにいると、あんたたちの会話に圧倒されて、まりのちゃんと話ができない。それに、もうじき、彼女の連れが来るんだよ」
そう、司くんは言った。
「ここでいきなりお京さんのマシンガントークを聞かせてドン引きされるのもどうかと思うしさ」
「まりのちゃんのお友達?」
なにげないお京さんのその一言に、司くんとあたしは思わず顔を見合わせた。梓の顔を見たら、お京さん、大騒ぎしそうに見えるのは、気のせい?
「あたし、おとなしくしてるわ。それにテーブルに移るのなら、その子が来てからでもいいんじゃないの」
「おーし、言ったな。おとなしくしてるって」
司くんは、言質を取ったとばかりに、お京さんの言葉を繰り返した。
「彼女が来たら、俺たち向こうの席に移るから、そうしたら、おとなしく黙っててくれよ。質問は一切無しだ」
「なあに、何があるの?」
お京さん、好奇心いっぱいの顔になる。ちょっと迷ったけど、あたし、こう言って説明した。
「あたしの友人の梓は、司くんの双子の姉なんです」
これ、先に触れておいたほうがいいよね。だってなんの予備知識もなしに梓を目の当たりにするのと、ある程度予想というか、覚悟(?)を持って見てもらうのと、ずいぶん違うはずだもの。あたしなんか知ってても(忘れてたんだけど)驚いたんだから。本当にびっくりするぐらい似てるんだから。
「なんですってぇ?」
案の定、お京さんは素っ頓狂な声をあげた。
「きょうだい? 双子ちゃん? そんな話、初耳よぉ!!!」
聞き取れないほどの小さな声で、俺だって初耳だよ、と司くんがつぶやくのを、あたし聞いた。
けどね、司くん。梓は本当にあんたのこと、捜してたんだよ。あんたたち2人が小学6年生のとき、パパは突然、司くんを連れて行き先を告げずに引っ越してしまって、電話を通じて様子を聞くことさえできなくなったんだって言ってた。行方がわからなくなってから、しばらくは心配で眠れなかったんだって言ってたよ。写真も見せてもらったよ。小さい頃の、並んで写ってるお人形みたいに可愛い2人。記憶にないって聞いたら、きっと梓はがっかりするよ。
写真?
そのとき、あたしは不意に思い出した。写真……。そうだ、写真だった。どうして今まで気づかなかったんだろう。あたしが莫さんを知っていると思ったわけ。でもまさか、そんなことって……。
顔をあげたあたし、再び莫さんと目が合う。急に心臓が激しく鼓動を始めた。どうしよう。あたし、動揺してる。ドクドクと脈の打つ音が、頭の内側で響き始める。
「ばくさんのばくって……どんな字を書くんですか? ドアにかかってた看板と同じ字ですか?」
「いや」
莫さんは首を振って、いぶかしげに聞き返してくる。
「どうしてそんなこと聞くんだい?」
「ヘンな名前だからでしょ?」
横からお京さんが口をはさむ。
「莫大の莫よ。動物の獏からけものへんを取った右側だけ。まりのちゃんの名前は、字、どう書くの?」
「え? あたしですか?」
急に話が振られてあたし、少しあせって、しどろもどろになった。
「まりののまりは、ええと、鞠つきの鞠で、乃は……ええと……あの……」
莫さんがペンとメモ用紙を出して、あたしの前にすっと置いてくれた。
「すみません」
あたし、お礼は言ったけど顔があげられない。うつむいたまま平静を装って、メモに縦書きで鞠乃って書いた。どうしよう。字が震える。
「あらー、ほんとに可愛い名前ねぇ」
お京さんは、メモを覗き込んでそうつぶやき、続けて聞いてくる。
「ふづきは?」
名前の横に、文月と書いてみせる。
「つかさは?」
あたし、メモの上のほうにちっちゃく菅生司と書いた。
「へえー? これなんて読むのー? すがおつかさ?」
「すごうと読むんだ」
そう答えたのは莫さん。
「京平、人名の読み方ぐらい覚えろよ」
「悪かったわね、あんたと違って雑学がなくて」
お京さんは、雑学の雑の部分にクレッシェンドをつけて、いい返す。
莫さんのいる位置からは、あたしのメモ書きは見えてないと思う。莫さんは司くんの名前を知っているんだ。
あたし、恐る恐る顔を上げ、もう一度聞いた。
「莫さん、フルネームはなんて言うんですか?」
莫さんは今度もまた、どうしてそんなことを聞くの? といった風にあたしを見た。代わりにお京さんが答える。
「小宮山莫……っていうのよ。小さいお宮の山と書くの」
小宮山莫。やっぱりそうだ。勘違いじゃない。
以前、図書館にある新聞のバックナンバーで梓が調べていた、7年前の小学生誘拐事件の記事に、犯人として顔写真入りで載っていた名前。当時小学6年生だった彼女が、別れた両親の電話を通してのみのぎごちないやり取りの間でしか知ることのできなかった事件の顛末。
新聞の記事には、司くんの実名も、通っていた小学校の名前も出ていなかった。ただ、あたしたちの住んでいる町の名前が同じで、事件の起こった時期が同じ。
小学6年の冬、司くんは行方不明になった。目撃者が出てきて、誘拐だとわかった。道を歩いていて、車で連れ去られたのだった。誘拐されて10日ほどで犯人が解放したため、無事帰宅した。犯行の動機については触れられてなかったような気がするけど、身代金の要求がなかったことが書かれていたのは覚えてる。
けど、身代金の要求がない誘拐って、要するにさらっていく相手そのものが目的だったりする。聞けば莫さんはどうやら同性愛者で、梓にそっくりな司くんが、どんなに可愛らしい子供だったかは想像がつく。だけど、でも……なにかの間違いかもしれない。だって、もし、そうだとしたら、こんな風になごやかに司くんと莫さんが顔を合わせて話をしてるのって、どう考えても変だ。
あたしが最初わからなかったのは、記事から受けた印象と、あまりにも莫さんのイメージが違っていたせい。新聞に載っていた写真と違って、全然凶悪そうでなくて、むしろ穏やかで、知的な感じのする人。抑制のきいた話し方と、洗練された立ち居振舞い。控え目で、あまり自己主張をしないタイプに見える。
どういうことだろう? あたし、ここで停止してしまいそうな頭をなんとか回転させようとする。矛盾するデータを同時にインプットされたコンピュータみたい。答えが出なくて、同じところをぐるぐると行ったり来たり。
あの事件からまもなく、司くんのパパは当時勤務していた病院を辞めて、どこか別の場所に引っ越してしまったのだと聞いた。住んでいたマンションも売り払い、行先をママに教えないまま一切の連絡を絶ってしまったのだという。
そこであたし、ふと現実に引き戻されて青ざめる。
もうじき梓が来る。ここに来るんだ。あたしは記事のことなんて頭のどっかに置き忘れてたけど、梓はきっと忘れてない。たまたま梓が見ていたページを横から斜め読みしただけのあたしと違って、何社かの新聞を引っ張り出してきて、本気になっていろいろ調べてたみたいだもの。
どうしよう。この状況は、どう考えてもまずいよー。