ある夜の実況中継
『明かりもまばらな深夜の住宅街を、……は歩いていた』
聞こえてきた声に、司はハッとなって目を覚ます。
『今夜はどこにしようかと考えながら、……は辺りの家々を見回していた』
「ふ、あああ……」
司は大きく伸びをする。どうやらラジオを聞きながらテスト勉強をしている内に、つい眠ってしまったらしい。机の上に広がる白紙のノートに、司は顔をしかめた。
『……は、ある一件の家の前で足を止めた。表札には、『大原田』と書いてある』
「……え?」
ラジオを切って気合いを入れ直そうとした司は、伸ばしかけた手を止めた。
『大原田』は、司の名字だったのだ。
『……は、大原田家の門を潜ることにした。朝顔の鉢植えが並べられた庭へと足を踏み入れる』
司は妙な気分になる。司の家の庭にも、鉢植えの朝顔が置いてあるのだ。
「変な偶然だな……」
そう呟いてはみたけれど、落ち着かない気持ちだった。名字だけなら、まだ『偶然』で片付けられる。しかし、庭の様子まで同じとなると、そうとは言い切れないのではないか。
『……は、玄関を抜ける。フローリングの床をゆっくりと進んだ』
ラジオから聞こえてくるのは、男の物とも女の物とも分からない無機質な声だった。そんな声色で状況を淡々と語られ、司は訳の分からない不安感に襲われる。
不意に階下からカシャンという音が聞こえてきて、司は飛び上がった。
『廊下を歩いていた……は、うっかりと飾ってあった青い花瓶を落として割ってしまった』
ラジオから聞こえてきたとんでもない台詞に、司は息が止まりそうになった。廊下の青い花瓶。これも自分の家と同じだ。
「嘘だろ……。こんなことって……」
司は服の上から胸元を押さえた。もはやこうなってくると、恐ろしい事実を認めなければならない。この家の中に自分以外の『何か』がいる。そしてラジオが伝えているのは、その『何か』の現在の様子だ。
『この家にはほとんど人の気配がない。誰もいないのだろうか』
ラジオの言う通り、今この家には司しかいなかった。父は出張中で、母も友人との旅行に出掛けていたのだ。
それにしても、侵入してきたのは一体何者なのか。ラジオはその者の名前を教えてはくれなかった。砂嵐のような雑音が入って、そこだけが掻き消されていたのだ。
『ああ、そんなこともなかった。二階の一室から、明かりが漏れている』
二階には司の部屋しかない。家に入って来た者が何であれ、自分がいることを悟られたくなかった司は、反射的に電気を消そうとする。
けれど、扉の向こうからの、ヒタリ、ヒタリという異様な音に凍り付いた。それは、人間には立てられそうもない物音だったのだ。まさか、これが侵入者の足音なのだろうか。
『……は階段を上がっていく。一段ずつ、ゆっくりと。そして、扉の前で足を止めた』
ドア一枚を隔てたところに得体の知れない化け物がいる。司は根が生えたようにその場から動けなくなった。
『……は、扉をすり抜けた。中にいたのは、こちらに背を向けた一人の少年だ。……は、今晩の贄を彼にしようと決め、舌なめずりをしながらニヤリと笑う。奴が振り向いたら、一呑みにしてやろう、と考えながら』
司の心臓がうるさいくらいに暴れ回る。呼吸が浅くなり、立っているのもやっとだった。
恐らく、ラジオは嘘を語っていない。司の背後からは、えも言われぬ不気味な気配が漂ってきていたのだ。
振り向いたら殺される。……否、食われてしまう。そう思うと、生きた心地もしなかった。
恐怖と戦いながら、司はどうすればいいのか必死で考えた。その目が、机の上のペン立ての中のカッターナイフを捉える。
司は生唾を飲み込んだ。
ここで石像のように突っ立っているだけでは、事態はよくならない。化け物の気が変われば、自分などすぐに殺されてしまってもおかしくはないのだ。
だとするならば、少しでも助かる見込みのある方に賭けるべきではないだろうか。
「うおおおっ!」
司はカッターナイフを握りしめ、勢いをつけて振り向いた。しかし、そこには見慣れた自分の部屋が広がっているばかり。おぞましい化け物と対峙することを覚悟していた司は、意外な展開に呆けてしまった。
「何だったんだよ、まったく……」
体の力が抜けていく。冷静になって考えれば、ラジオの放送を真に受けるなんて、自分もバカなことをしたものだ。司は苦笑しながら、カッターナイフをペン立てに仕舞おうと体の向きを変えた。
その瞬間、血走った一つだけの目玉と視線が絡んだ。
『やっとこっちを向いた』
机の上に乗っていた化け物の巨大な口が、ゆっくりと開く。
『いただきまぁす』
微かな悲鳴と、グチャリという濡れた音。
食事を終えた化け物は、入ってきた時と同じように扉をすり抜けて出ていった。
『ああ、美味しかった。美味しがっ……。お゛い゛……』
誰もいなくなった部屋にラジオの音が響く。その音声も段々と不鮮明になっていき、やがて放送は終了した。