第1話
今年も、この季節がやって来た。
「遅くならないうちに帰るわ。何か買ってくるのある?」
「わかった。今冷蔵庫空っぽだから、一緒に買い物行きたいかも」
「ん、わかった。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
廉はそう言うと、車の鍵を持ち家を後にした。ドアを少し開けただけでこの熱風。お盆になると、廉は必ずある女性のお墓参りへと足を運んでいた。霊園まで、高速を使って往復一時間。ついて行こうか何度か聞いたけれど、一人の方が落ち着く、と遠回しに断られてしまった。
どんな人だったか聞いても、あまり答えたくないのか言葉を濁されるだけだった。人には聞かれたくないことの一つや二つあるだろうし、私も聞くのをやめた。その人の名前と素顔しか知らない私にとって、想像は膨らむだけだった。
和室には、私の家族の仏壇がある。両親、それからお兄ちゃん。目の前の座布団に正座をすると、笑顔で映っている母の遺影を手に取った。
ごめんなさい。ごめんね、お母さん。きっと私なんかの家に、仏壇も置いてほしくなかったよね。今頃天国で、私はとてもとても、怨まれてると思う。だってお母さんを殺してしまったのは、私だから。
遺影を元の位置に戻す。そのまま手を合わせて、深く深く、頭を下げる。するとふと線香の香りが漂ってきて、私は頭を上げた。気のせい? もちろん香炉に、まだ線香は刺さっていない。
「わたしのそんけいする人 二年三組 久が すず音
わたしがそんけいしているのは、お兄ちゃんです。なぜなら、お兄ちゃんはやさしくて、つよいからです。わたしはてん校して来てから、何どかわる口を言われました。そのことをお兄ちゃんにはなしたら、一しょにとう校してくれて、その子たちはどこ? と聞いてきました。げた箱にその子たちがいたので、注意してくれました。うれしかったです。
お兄ちゃんは、頭も良いです。まい回テストで百点をとってきます。とくにさん数がとく意です。わたしはさん数が苦手なので、よく教わっています。とても、わかりやすいです。
わたしは、お兄ちゃんが大好きです。これからも、ずっと一しょにいてほしいです」
自分がおかしいと自覚したのは、小学四年生のときだった。おかしいって、自分の体とか頭じゃなくて、感情だ。大人の言葉では、「倫理に反する」なんて言うんだろうなって思った。
この日近所のホールでは、橘ピアノ教室のクリスマスコンサートが開かれていた。年に一度生徒が発表する場として設けられ、参加は任意だ。ピアノを始めて二年目のお兄ちゃんは、この日始めて演奏を披露することになっていた。
お兄ちゃんがピアノを始めたのは、小学五年生のときだ。付き合いとして、お父さんが知り合いからピアノコンサートのチケットを貰って来た。この日私はお母さんとランチの予定があり、消去法で空いていたお兄ちゃんが無理矢理ピアノコンサートに連れて行かれた。行く前こそ渋っていたものの、帰ってくると興奮気味に私に熱弁した。
「すごかった。すごかったんだよ、ショパンの英雄って曲。めちゃくちゃカッコよくてさ」
「英雄?」
ショパンだの英雄だの、チンプンカンプンだった。お兄ちゃんは翌日、学校終わりにピアノ教室の見学に行くと、そのまま入会を決めた。部屋にはグランドピアノが設置され、本棚には楽譜が並ぶようになった。
妹の私が言うのも変だが、お兄ちゃんはとびきりのイケメンだ。眼鏡をかけると大抵の男子はもさっとするが、お兄ちゃんは違った。レンズ越しに二重で大きな瞳に見つめられると、途端に心臓がものすごい速さでドクドク脈打つ。
「久我くん、本当にピアノ弾けたんだ! すごかった!」
「なんか失礼じゃない? 来てくれてありがとう」
クラスメイトであろう女子たちと話すお兄ちゃんを見て、どす黒い感情が渦巻いた。ショートパンツからのぞく細い脚。大きめのセーターで、手の半分は隠れている。たまにわざとらしくボディタッチなんかして。
お兄ちゃんにとって、私が一番可愛いのに。ぶりっ子女。バカみたい。私はお兄ちゃんの背後に回り、控えめにスーツの裾を引っ張った。
「お、鈴音。来てくれてありがと、廉くんは?」
「お兄ちゃん、一番上手だった! お疲れさま。廉は疲れたみたいだから、椅子座らせてるよ」
お兄ちゃんは屈んで、私の頭をなでる。目の前の女子なんて放置して。
「そっか、廉くんにもありがとうって伝えといて。帰り、遅くならないようにね」
「はーい」
勝った。待っていてくれた廉には悪い顔してる、なんて引かれてしまったけれど、だって仕方ないじゃん。ひどく気分が良かった。
この日感じたどす黒い感情は、嫉妬というものらしい。そして嫉妬というものは、好きな人にしかしないことも知った。朝読書の時間に読んだ本に、そう書いてあった。初めての感情で、なんだかくすぐったくなった。そしてなぜか、誰かに言いたくなった。大人になった気がしたのかもしれない。
「ねー。廉は好きな人とかいるの?」
私には、隣の家に住む幼馴染がいた。三学期が始まると、だんだんと近づいてくるクラス替えに緊張し始める。神楽廉はシャカシャカと振っていたカイロを止めると、なぜか慌てたように話し始めた。
「や、まあ、いる、わけでもいないわけでも」
「何それ、変なの」
数日前に降っていた雪が、まだ道路の端に残っていた。冬は好きだ。虫も少ないし、わざと「寒い」って言ってお兄ちゃんにくっつけるから。
廉は、四年一組の学級委員だった。頭は良くないが、運動は出来る。リレーではアンカーを任せられるくらい速い。それに友達も多く、いつも周りに誰かいる。クラスの中心的存在だった。
元々私と廉は、仲良くなかった。友達にすらなれないと思っていた。だって、うるさくて騒がしいの苦手だし。きっと向こうだって同じだ。私みたいな暗いタイプ、話したくもないだろう。しかし年が近いこともあり、すぐに親同士が良くなってしまった。今日も廉くんママとランチ~なんて言っていたのを思い出す。
お互いの家まで徒歩五秒。同じ一軒家。廉の家は暗いブラウンで、私の家は白。本気でジャンプすれば、二階の廉の家のベランダに飛び移れそうな距離だ。やってみたかったけど、失敗したら大怪我なのでやめた。
こちらに来てから三ヶ月と少し経った頃だった。バーベキューやピクニック、神楽一家との付き合いに強制的に参加させられた。どうして親しくもないクラスメイトと、こんなことしているのだろうか。タクシーでもなんでも使って帰りたかった。この日は都立公園にバラ園を見に来ていた。春の人気スポットとして取り上げられていたため、園内はたくさんの人がいた。お兄ちゃんは塾で欠席。お兄ちゃんがいたら、楽しかったのに。
ランチでお母さんの持ってきたサンドイッチを食べ終わると、大人たちの会話が始まる。仕事関係の話は、聞いていて眠くなる。廉のパパは営業マンで、株もやっているらしい。正直私のお父さんより背も低く小太りだが、親切にしてくれるしよくお菓子をくれる。最近ペットのハムスターの元気がない、と落ち込んでいた。
私は一人席を立つと、小さなリュックを背負い芝生広場を目指した。雲一つない、真っ青な空の下。一人レジャーシートを引いて、本を読むことに決めた。みんな話に夢中で、私のことなど気にも止めなかった。
「何してんの?」
しばらくして隣に図々しく座ってきたのは、神楽廉だった。隣に置いておいた水筒が倒れ、シロツメクサを潰した。何だコイツ、と思ったが、神楽廉も暇だったのかもしれない。
「良いとこ見つけたんだよ。来て」
「私本読んでるから」
「良いから良いから!」
なぜか弾んだ声をあげ、私の腕を引っ張った。渋々立ち上がり、後をついていく。だんだんと人気がなくなり、辺りは木々が生い茂っていた。あんなに明るかったのに、日陰で暗くなっていく。遠くから、ザーッと何か流れる音が聞こえてきた。だいぶ歩きにくくなり、ぬかるんでるところも出てきた。だんだんと靴に泥がはねて、白い部分を汚していく。
もしかして、殺される?
「着いた。ねえ、見て」
そう言うと、神楽廉は振り向いた。目の前に大きな滝が現れ、虹を描いていた。
「すごい! 虹だー!」
「足元気を付けて。リスいる」
リス!? 驚いて下を見ると、確かに数匹、リスがいる! テレビでしか見たことなかったのに!
「さっき鹿もいた」
「絶対嘘だよ」
「本当だって! 目合ったし!」
嘘でも本当でも、どっちでもいい。この非日常な空間が新鮮で、私と廉はリスを観察したり滝に向かってお願い事をした。追いかけっこしよう、と誘われたが、リスやドングリを踏みつぶしてしまいそうだったので断った。そのうち二人とも眠くなってしまい、そばにあった切株で眠った。まるで童話の世界に入ったようだった。水の落ちる音が、心地よかった。
「久我起きろ。やばい、暗くなってきた」
肩をゆすられ目を覚ますと、辺りは驚くほど暗くなっていた。何時間寝ていたのだろう。みみずくの鳴き声が響き、ただ暗い森がそこには広がっていた。
小学二年生。二人ともスマホなど持ってるはずがない。心地良かった水の音が、今は怖い。整備されていない場所なのだろう、明かりが一つもなかった。気温も一気に下がったのか、体が冷える。
「……どうしよう」
「戻ろう。お母さんたちも探してるはず」
「でも、暗くて道わからないよ。もうダメだよ」
「とりあえず、歩こう。帰らなきゃ」
廉は着ていたパーカーを脱ぐと、私の肩にかけた。一気に涙が溢れた。このとき廉だって怖かったはずなのに、一切弱音を吐かず手を握っていてくれた。
二人で歩き始める。方向が合っているかもわからない。もしかしたら、このまま帰れないかもしれない。途中木の根につまづき、転びかけた。
「大丈夫?」
「……うん」
「もう泣くなよ、絶対大丈夫だから」
その時だった。遠くにチラッと、光が見えた。私たちは顔を見合わせる。
「おーい!」
廉が大きな声を出し、手を大きく振る。光の正体は懐中電灯で、だんだんと大きくなる。来てくれたのは、公園の管理をしているおじさんだった。私たちは無事森を抜け、その後こっぴどく叱られた。
公園は五時で閉園だが、私たちの姿がどこにも見当たらない。私のレジャーシートと本が置きっぱなしになっていたので、誘拐されたのだと思ったそうだ。時刻はもう六時になっていて、あんなにいたお客さんは誰一人といなかった。
「本当に、もう! 離れるときは一言声かけなさい!」
廉のママも、大激怒だった。でもなんだか、楽しくて。並んで怒られている間、廉の方をちらりと見る。すると廉も私を見ていて、二人でにやりと笑った。この日から、私と廉は仲良くなった。学年が上がるにつれ、映画館やショッピングモールに行ったりした。気づけば何でも話せる仲になっていたのだ。