【短編】嵐と融解
都心から電車で5駅、6帖の殺風景な洋室。
窓の外を眺めれば、細い道と狭めの空き地。
そして散りかけの薄桃色の桜。
飲みかけのコーヒー缶が棚から落ちる音で目覚めた。残っていた中身が床のカーペットへと飛び散る。
視線を変えてベッドの上の時計を見ると午前11時。すっかり空は明るくなっており、太陽も顔をはっきりと見せている。
「あー……、めんどくせぇ」
ボヤきながらそばにあったティッシュペーパーを2、3枚ほど鷲掴みにして、こぼれたコーヒーを乱暴に拭き取る。
「こりゃあシミになって取れないやつだな……はぁ」
このカーペットはもうダメかな、と思いつつ拭き取ったティッシュをゴミ箱に投げ入れる。
だが投げたティッシュはわずかに的を外し、山積みになったコピー用紙の上に落ちる。
「……」
仕方ないのでそこまで歩き、コピー用紙の上のティッシュをつかんでゴミ箱へ突っ込む。
こんな何気ない動作すら異常に気怠く感じる。
こんな自堕落な生活を始めてから、もう何か月になるだろうか。
望んでこんな生活を送っているわけではない。もとより目標も日課もあったのだ。
それがどういう因果か、今手元には何もなくなってしまっている。
「このコピー用紙も捨てねぇとなぁ……」
どうせ使うから、と以前大量に購入したものだが、その3分の1も使わないうちに埃を被って部屋の隅に埋もれている。
毎回、捨てないと、と口にはするものの、未だにゴミ箱の横を占拠している。
「……米でも炊くか」
朝食と言うには遅すぎる時間帯だが、今日は比較的早い方だ。せっかくだし久しぶりに米を炊いて自炊するか、という気がわずかに起きる。
PRRRRRRRR...
ふとポケットの中に突っ込んでいた携帯が鳴る。
なんだろうか、という様子で手に取ってみるも、なんとなくその相手も用件も察していた。
『編集部』
表示名はこうなっている。
そして応答すると、「あ、桐生さん?」と若い男の声。
前に何度か聞いたことのある声とセリフ。そしてその用件はいつも同じだった。そして今回も。
「今回も応募してくださったんですけどねー……、まぁ前回とは打って変わっていい感じだったんですけどね」
この入りで何を伝えようとしているのかはもうわかる。あぁどうせ、と思い、携帯を机の上に置いて朝食の準備に取り掛かる。
「……いやぁー前言った問題点は解消されたと思ってるんですよねー、でも今回のはなんというか……あれ、桐生さん聞いてます?」
スピーカーホンにしているので中身は聞こえてくる。この人はいちいち反応を求めてくるからつきあいがやりづらい。
「あー、一歩足りない、てやつですよねー。何度目なんですかねー」
無気力な返事で対応しつつ、頭では何も考えていなかった。
そこに落胆も失望もない。ただ、日常の一部として過ぎていくばかりであった。
「……この部分は引きがちょっと弱いと思うし……そういう展開ならむしろあそこで……それから……」
俺の担当者であろう土方と名乗る男は、淡々と改善点を述べていく。
俺はそれすらも聞き流す。どうせ改善したって別の問題点が次々と生まれるだけ、終わりなんてないだろうから。
「……というわけで、次回も頑張ってくださいね。それでは」
10分ほどしたうちに、そう言い残して通話が終わる。
さて次回ね……もうそんな気力もモチベーションもないんだよー、と思いつつ、俺は朝食準備を続けた。
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昼13時。
今日は少し遅めの起床だった。
「寝すぎかなー、頭痛ぇ……」
頭を押さえながらベッドから起き上がる。桜の木はもう新緑の葉を茂らせて、より一層明るくなった太陽の光を受けている。
ふとやった視線の先のコピー用紙は3、4枚ほど減っている。
その行方はその隣、ゴミ箱。
「今日は久しぶりに進めるか……」
そうつぶやいてみるも、それがもはや形骸化しておりなんの決意にもなっていないことを自覚していた。
今日は食料を切らしているため、何も部屋に飢えをしのぐものがない。
つまり外へ買い出しに行かなければならない。
「だる……暑いしなぁ……」
そうは言うものの行かなければ食事などできないので、しぶしぶバッグを持ち、ポケットに小銭入れを突っ込んで外へ出る。
「……もう夏か……」
外を歩きながら思う、季節は移り変わっていくのに周りの風景には何も代わり映えがない。
このコンビニまでの道だってそうだ。近くの公園に子供が数人遊んでおり、あとは閑静な住宅街。なんの趣もないってものだ。
そしてそれは自分とて同じ。もうこの生活になってしまってから1年近くが経とうとしている。それなのに外面どころか生活の中身も同じ。全く生産性のない日々が続くだけ。
今まで賞に応募した回数、4回。その一度たりともまともな結果を残したことがない。
回数や日数にしてみればたいしたことはないのかもしれない。それでも人間ってのは――少なくとも俺という人間は─―わずかな期間、ちっぽけなきっかけだけでどこかおかしくなってしまう生き物らしい。
コンビニに着く。とはいってもパンやお茶なんかを買ってすぐ帰るだけだろうけども。
適当な食料品を買って、レジまで持って行き精算をする。
財布の中には――もう使い道のない大学の学生証。もう卒業して2年以上経つ。
あのころ共に過ごしていた同期たちは元気にしているだろうか──そんなことを考えているうちに会計が終わる。無機質に礼を述べる店員を横目にコンビニをあとにする。
「学生証もさっさと捨てねぇとな……」
財布を取り出すたびに毎回そう思っている記憶があるが、結局そうしたためしは一度もない。今回もそうであろう。
全部そうだ。小説家なんかをめざして早数年、何一つ成し遂げられないまましがらみにとらわれ続ける。交友関係さえ捨てると決めたのに、未だに大学生のときの記憶にすがりつづけている。
自覚してもなお、この自堕落な生活も、それを是としてしまっている自分も変わらない。
いつかは報われるだろう、という妄想ばかりが肥大化していくばかりで。
「……嫌なこと考えちまったな……遠回りして帰るか」
起きたときから続く空腹感は不快であったが、それ以上にこの回想が不快に感じられた。
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小さな公園があった。
ベンチと自販機と、それから誰かの足跡のついた砂場。
初夏の昼下がりに休むには丁度良い場所だった。
「飲み物は買ったばっかなのになぁ……」
そう言いつつ、唯一売り切れていなかったサイダーを自販機で購入し、少し離れたベンチに腰掛けた。
キャップを開けたとたんに、プシュッ、という心地の良い音とともにサイダーの香りが広がる。
……まぁ悪いもんでもないか、こういうのも。
こうふと思いながら、サイダーを飲もうとしたそのときだった。
「あらー、全部売り切れてる……ユウ君、ジュースはまた今度にしよっか」
「えー、飲みたかったのに……」
自販機のほうから声がした。会話内容から察するに、親子連れであろうか。
俺が買ったときはこのサイダーだけは売り切れてなかったから……これが最後の一本だったのか。
「っ……」
柄でもないなと思いながら、その親子連れの方へと向かう。
見たところ母親はまだ若いし、子供もまだ小さい。小学校低学年くらいであろうか。
俺は話しかけた。
「あのこれ、まだ飲んでないんで、よかったら。最後の一本だったっぽいです」
えっ、といった表情をこちらへ向ける母親。子供は物欲しげな顔で俺の持っているサイダーを見つめている。
「いえ、先に買われたわけですし……。大丈夫ですよ」
やはりこういうときは皆遠慮するものなのだろう。まぁ引き下がってもいいが、気まぐれだ。
「お気になさらず。俺は飲み物、まだ持ってるんで」
俺がそう言うと、自分の子供の視線に気づいたのだろうか、じゃあ……と母親は俺のサイダーをつつましげに受け取った。
「お兄ちゃん、ありがとうー」
子供が満面の笑みを浮かべるのを見て、俺はあいよーと生返事をしてその場を後にしようとした。
「あの、お金……」
「あぁいいですよ、そのぐらい。それじゃ」
「そんなわけには……」
そう言い淀む母親を尻目に公園を去った。
そういえば今日は日曜日だった。休日の昼に親子で散歩、といった感じだろうか。
俺も昔はこんな時期があったんだよな……とふと思ってしまう。そうすると自然と自分の小学生時代を思い出し、あぁあのときにはこんなことがあったな……と回想にふけってしまう。
だがこれはよくない。過去を思い返すという行為には、今という時代との対比がつきまとう。
せっかく気分転換に回り道をしてみたのに、これでは堂々巡りではないか。
「……はぁ」
もういいや、と思い、不快感を携えたまま家へと帰ることにした。
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今日は一段と遅い寝覚めだった。
午後3時。世間はもうおやつを嗜んでいるような時間帯だ。
「……昨日の晩に夜更かししすぎたせいだな……はぁ」
寝起きに溜息をつくのがもはや習慣化してしまっている。それもそのはず、朝起きるたびに毎回無常感に襲われるのだから。
いつも眺める桜の木は、今日も変わらず真緑の葉を茂らせてこちらを見守っている。
そして同じく部屋の中も代わり映えがない。多少違う点といえば、あの山積みのコピー用紙がさらに増えているところぐらいだろうか。
実家から仕送りと一緒に送られてきたものだ。未だに賞一つ取れないというのに、変わらず遠く離れた地元から応援し続けてくれている。
だがこういうものはかえって無力感を増幅させるだけだ。とりあえず段ボールから出しはしたが、多分そこまで。あれを使うのは何年後になるのだろうか。
「……今日はバイトがあるんだったな。4時からか……」
幸いバイト先は家から歩いて数分の距離にあるので、3時起きだからといって焦る必要はない。
ゆっくりと支度をして、それからなんとなく働くだけだ。
──『Cafe la vie』フランス語で「生活」という意味らしい。大学1年のときによく足を運んでいた喫茶店であり、店主にあるときたまたま声を掛けられそこから4年くらい働いている。
こんな俺の生活とは打って変わってお洒落な内装をしており、近所の女子大生や主婦から人気があるとか。俺がここによく来ていたのも、友人の勧めあってのことだった。
「いらっしゃいませー」
最初は緊張していた接客も、4年経ってしまえばそれは日常だ。以前と同じように、慣れた仕事を繰り返すだけ。
今はこのバイトで食いつないでるからいい加減に仕事をするわけにはいかないが、だからといって張り切って行うわけでもなければ、対価以上の働きをしているわけでもない。つまるところ「自堕落」の一部に過ぎなくなってしまっている。
「あと……3時間か。長ぇ……」
もはやただただ無意識に終わりを待つだけの時間と化していた。……そう、何もなければ、だ。
「いらっしゃいませ……、……、あ」
新たな来客を出迎えようとしたら、それは先日サイダーを譲った子供の母親がいた。
今日は平日なのもあって母親一人であった。
「あのときの……あの、サイダーありがとうございました」
「いえー、お気になさらず。こちらへどうぞー」
とはいえ面識はそれくらいだし一人の客にすぎない。そう思い、俺は一言交わして厨房へと戻っていった。
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長いようであっという間だったバイトの時間が終わり、帰宅しようとしていたときであった。
「あ、ちょっと桐生くん」
俺は店長に呼び止められた。
「なんでしょう店長」
「実はなー、夕方に来たお客さんに、君に渡してくれって預かったものがあってね」
「え、俺に、ですか?」
俺はあの母親であろうか、と推察しつつも困惑している。お礼がしたいというのならなんと律儀なことだろうか。
「ああ、手紙?かな?はいよ」
俺は手渡された紙を受け取る。
なんだろうか、と思いつつ、店を後にした。
「……?」
気になって帰り道でその手紙の内容を読んでみた。
そこにはこう書いてあった。
『あのときはサイダーを譲っていただきありがとうございました。
些細なことかもしれませんがお礼がしたいので、良ければこの番号まで電話してください』
この文章の下の方には母親のものらしき電話番号が記されていた。
サイダー一本でここまでとは。俺は母親の律義さに感心しつつも、半ば困惑を抱いていた。^
だがまぁ、わざわざ見知らぬ赤の他人にここまでするくらいだ、もしかしたら何かあるのだろうか……、そう思って電話してみることにした。
「……あ、あの」
「ああ、あのときの。重ね重ね、ありがとうございました……」
「いえ……サイダー一本でそんな。それで、いったい……」
「なに、お礼をさせていただきたいな、と。よければ都合のつく日に……」
なんということだろうか。直接お礼がしたいから、今度食事でもどうだろうか、お代は出しますよ、と。サイダー一本に見返りがここまでとは。
俺は不審にすら思っていた。
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そしてその約束の日、当日。
「……ここに12時、でよかったよな。もう10分前だが……」
「あ、桐生さん、でよろしかったでしょうか。わざわざすみません」
「いえ……」
母親は俺より先に待ち合わせ場所に来ていたのだろうか、俺が到着するやいなやすぐに声をかけてきた。
「では行きましょうか」
「あ、はい……」
俺は先導する母親に困惑しつつついていくばかりだった。
「……あの、つかぬことを聞きますが」
俺は意を決して口を開いた。
「……?なんでしょう」
先を歩く母親は振り返る。
「なんでサイダーごときでここまで?どうせほっといても何もないんですから、こんな大層なお礼なんて……。正直、戸惑ってます」
俺は思っていることをぶつけてみた。
すると母親は予想外の反応を見せた。
「……ここではなんですし、そのあたりの話もまとめて……」
「……はぁ」
俺はそれ以上は何も言えず、ただ母親についていくことしかできなかった。
「……ここです。予約してあるのですぐ入れますよ」
予約。そういうシステムがある店の時点で、大衆的な食事処ではないことは察しがついた。
店員に促されて予約された席についてすぐに、温かそうな料理が出てきた。
「……ごめんなさい、こんな大層なことをしてしまって。もし迷惑でしたら帰っていただいて構わないのですが……」
「いえ……それよりも、話の続きを」
俺が促すと、母親は俺をここへと呼んだわけを話した。
この母親は日野というらしい。
どうやら出産後すぐに夫の不貞で離婚、以降6年半にわたってシングルマザーとしての務めを果たしてきた。しかし最近というもの一人でただ育児家事をするばかりで精神的に病んでしまっていた。
そしてそんなさなかに息子と公園を歩いていると、俺がいて……ということだそうだ。
つまるところ、心労が募っているところに俺の気まぐれの親切心が刺さったらしく、お礼がてら話がしたいということだろうか。
こんな話は公の場でするものでもないし、こうした場所で話しているのだろう、と感じた。
「……お金に関しては養育費などがありますし、貯金もあるので問題ないんですけどね。人と話さないとなんだか……いや、外出すればいくらでも人と会えるんですけどね」
母親は力なく苦笑いした。
俺はこの母親の話と様子から、なんとなく精神的に拠り所が欲しいのでは……と感じていた。
だがそれをこんな無職の若い男に求めても仕方ない。それも分かっているのではないだろうか?
「……あの、せっかく頼ってもらったところ申し訳ないんですけど、」
俺は無意識にこう口走っていた。
「俺には何にもできないただの一般人ですよ。大学卒業してからというもの、何もできてないんですよ」
「そ、それはどういう……?」
「いやね、こう見えても実は小説家志望なんですよ。数年前から。だから親も必死に説得して、わだかまり抱えたまま取った内定も蹴って、さあ本格的にやろう、って決心したんですよ」
俺は身の丈を述べる。
「でも無理だったんです。もう1年以上経ちますが、結局全部1次選考止まり。ただの、哀れな無職なんですよ」
だから、と俺は続ける。
「あなたの力になれそうなことは何一つできないと思うんです。せいぜい、こうして話を聞くぐらい」
俺は自分でもわからなかった。
別に話の筋として俺の身の丈を話す必要は全くなかった。それに母親が精神的に不安定であることも知っているのだから、そこは嘘でもええ何かしますよ、とでも言っておくのが道理だった。
なのに気づいたら俺は激情に苛まれていた。
「あなたは女手一つで息子さんを6年以上育てているんですから、俺なんかよりもよっぽど立派ですよ。俺は周りの人の助けまで借りて、それでこの現状ですよ。
そうそう、あの日ですよね。俺、寝起きだったんですよ。あの時間帯で。飯がないからコンビニまで買いに行って、でもふと現状に嫌気がさして公園に寄ったんですよ。そしたらあなたがいたんです」
どこか饒舌になっていく自分に驚き困惑しつつも、俺は言葉を止めない。
「もし俺が成功していたら、あるいは普通の人生を歩んでいたら、俺もゆくゆくはこんな感じで暖かい家庭でも築けていたのかなーなんて考えてたんですよ。でもそうしたらさらに空しくなっていく。どうしたらいいんですかね……あれ、なんかごめんなさい。俺の方が相談しちゃってますね」
俺は作り笑いを浮かべる。母親の表情は驚いたままだった。
「……結局あなたと同じかもしれません。誰もそばにいないぶんとことん堕ちて、それで今こうなってる」
なんのめぐり合わせか、似た者同士が偶然出会ったわけだ。だがこの人は俺とは決定的に違う。
「でもあなたは大丈夫ですよ。俺と違って、息子さんがいる」
この答えにはきっと自分でも辿り着いたことがあるのだろう、もの言いたげな表情を浮かべる。
「確かに息子さんじゃあ埋まらない穴かもしれません。ですが息子さんはあなたをずっと見ているはずですよ」
「でも……」
「息子さんに話を聞いてますか?彼の交友関係の話から、その友人の話を人づてで聞いて……、って」
母親ははっとする。
「そうして、息子さんから始まる縁がある、んじゃないんですかね。まぁ俺は子供なんか持ったことないんですけどね」
俺は話しながら、自分でなんと浅い助言だろうか、と感じていた。結局虚無の人生しか送っていないから、中身のあることなんて何も言えない。
「そう、ですね……。……なんか肩の荷が下りた気がします」
母親の声がかすかに震える。
「私、ずっと気張ってたのかもしれませんね。一人でユウを育てなきゃ、って、ずっと」
でも、と母親は続ける。
「ユウを助けるだけじゃなくて、ユウに助けられてもいいんですよね。なんて単純……」
俺は涙を流す母親に、これ以上何も言えなかった。
料理はもう冷めきっていた。
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「今日はありがとうございました。あなたとお話できて、よかったです」
母親は笑みを浮かべながら、それでは、と俺と別れる。
「……」
俺は結果的に言えば母親の力になれたのかもしれない。
でもそれはあくまでたまたまのもので、結局俺に芯のある言葉をひねり出すことはできなかった。
最近はいつもそうだ。
どんな小説を書こうとしても、そのキャラの一挙手一投足が、吐き出すセリフすべてが、上滑りしている上っ面のようなもののような気がして、何も書けない。
でも両親が応援してくれている以上、形式的にでも賞に出さないといけない。
だからそうした嫌悪感を抱えたままの作品を適当に編集社に放り投げるしかなかった。
それが嫌で、だんだんパソコンを動かすのすら嫌になって。
構想をメモするためのペンすらも埃をかぶってしまって。
その延長線上にあった、この自堕落。
「……久しぶりに何か書いてみるか」
結局、自分で感じる「上っ面さ」がどうしたら消えるのかはわからない。
それでも今、母親の一助になったことで、その不快さはいくばくか和らいだのを感じる。
「……そうだな、本当に久しぶりだ。何か書くのは」
俺はこの言葉が、いつもの形式的なものではなくて、本心がいくらか混じっていることを自覚していた。
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今日の起床は午前10時半だった。
俺にしてはそこそこ早い部類である。
「……暑っついな、今日も」
窓の外から、まぶしい日航が部屋へと差し込んでいた。
その光を受けて、いつもの桜の木は一層緑を濃く表していた。
「……そうそうに着替えて洗濯するか」
俺はこうつぶやいて、クローゼットから無造作にシャツとズボンを取り出す。
そのシャツの内側を見ると、何かぶらさがっているものがあった。
「うわ……これタグついたままじゃんかよ」
このタグだけ取り忘れてたのか……と思いつつ、そのタグをハサミで切ってゴミ箱へ放り投げる。
「……また外した」
タグは狙いをわずかに外れて、隣のコピー用紙の山へ。
その山は数か月前と比べると、1、2割ほど減っている。
「……ったく、後で使うんだからこんなところに飛ぶなよ……」
後で使うと言っておきながら、俺はこの言葉がいつものようにうわべのものだけであり、実際には触れもしないであろうことに気づいていた。
さぁ、今日もまた自堕落な生活が始まる。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。
もしよければ評価やコメントをしていただけると非常に嬉しいです。
ちなみに作者は無職の小説家志望でもなければシングルマザーでもないので、リアリティに欠けるかもしれません。そうした突っ込みがあればぜひお願いします。