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青空に焦がれる娘

 見合い会場へと疾走する馬車の小窓に顔を寄せて、オルドリッチ伯爵令嬢ソフィー・フロレンスは流れゆく景色を眺めた。


 林の木々が飛びすさってゆく。ソフィーが外に出るのは久しぶりだ。オルドリッチ伯爵家の邸宅は遥か後ろに遠ざかり、今世の母親の自慢の庭園も、今や緑色の草地にしか見えない。伯爵家所有の林を抜けると、木々の緑から視界が開けて突然、広い空が現れた。


 真っ白な空が、窓の外に広がる。


 ソフィーは悩ましい小さな吐息を漏らした。冷えた窓硝子(がらす)(うっす)らと曇る。


「冷えるからカーテンを閉めなさい、ソフィー」

「これくらい平気よ、お父様」


 肩をすくめて笑ってみせ、ソフィーはまた小窓に顔を寄せた。


 久しぶりに見る娑婆(しゃば)の景色は相変わらず魅力に欠けている。空のせいだ。この世界の空は好きになれない。ソフィーが愛したのも、今も愛しているのも、かつて暮らした世界で見た青い空だ。


 まるで白濁しているかのようなこの世界の空は、一生好ましく思えないと、ソフィーは既に確信していた。


 だが、白い空はソフィーの不快感を他所に、まるで明るい曇天のように全体が発光している。決して眩しくはないその光は常にこの世界を照らしていた。昇りそして沈む太陽は、この世界には存在しない。


 ━━オーロラってフィンランド? いつか行きたいねえ。コケモモのジャムとかおいしそうだし。


 テレビの旅番組で、駆け出しの俳優が極寒の地にいるのを眺めながら、かつての母親がそう言っていたのを今でもまだソフィーは覚えている。近所のスーパーで買った、安いチョコチップクッキーを齧りながらのひととき。ソファは父親が会社の社長から譲り受けた中古品だった。伯爵令嬢である今とは比べ物にならない、庶民的な暮らしだ。それでも戻れるなら、ソフィーは何を差し出してもあの暮らしに戻るつもりである。


 今でもソフィーは、たまに夢に見る。そして起きる度に、失ったものを、失ったことを知る。懐かしい、などという言葉では追いつかない。ただ、失くしたという事実に打ちのめされる。届かないという事実に焦がされる。暫くは動けない。


 そういう日は、ソフィーは今の家族の顔を見るのが辛くなる。使用人は別に良かった。ある意味、どうでも良いといえる。ただどういうわけか家族だけが、受け付けなくなるのである。


 今日もそういう日だった。だからソフィーは今の家族を見る一分、一秒ごとに、小さな絶望を重ねていった。


 ━━抱き締めて欲しい母親はこれではない。話しかけたい父親はこれではない。巫山戯合(ふざけあ)いたい兄弟はこれではない。これではない。これではない。


 朝の挨拶をかわしながら、朝食を摂りながら、着ていくドレスを相談しながら、出発の挨拶を告げながら、ソフィーは絶望していた。絶望するまいと、絶望していた。


 だが、ソフィーが(くすぶ)る違和感から目を背けて笑っていたことに、誰も気付くことはなかった。家族の全員が、寝起きが悪い娘であると承知しているからだ。お陰でソフィーは、空元気を振り絞ろうとしなくとも許される。つまり、絶望していられる。


 絶望している内、また別の罪悪感がソフィーを苛むのも、いつものことである。


 ━━この人たちを一番に想えない。ごめんなさい。頭では分かってる。受け入れなきゃいけない。でも受け入れようとすると、うっかり、本当に心から笑うと、裏切った気がして何だか消えたくなってくる。死ぬ勇気はないから、消えたい。


「ソフィー」

「もう少しだけ……」


 ソフィーだって今世の家族を愛していないわけではない。それでも、帰りたいと思わない日はない。今の家族に負けまいとしている憎しみは、代わりにこの世界へと向いている。


 この世界では、朝も、昼も、夜も、時間帯を指す記号に過ぎない。ソフィーが知る限りこの世界の空はいつだって白い。只管(ひたすら)に白い。青く晴れ渡ることも、灰色に曇ることも、黒く光を飲み込むことも、星々が(きら)めくこともない。


 ただ白い。白く濁り続けている。


 ソフィーは発光している空を睨んだ。白い空というカンヴァスに、暗く小さな穴のようなものが点在しているのが微かに見えた。遠く上方の島が創り出す影である。この世界の大地は、すべからく空に浮かぶ島として存在している。


 この世界には星という概念が存在しなかった。ただ、空と、浮かぶ島があるばかりである。


「ソフィー」

「あと少しだけ」

「風邪でも引いたらどうする」

「これくらいなら平気よ」


 今世のソフィーの父親が、たかだか冷たい窓硝子に顔を寄せるだけで心配するのには理由がある。


「お前は風邪を引いたら長引くじゃないか。言いたくないが、魔力もないし魔法治療もできないんだから━━」

「━━人より気を付けろ? 分かってるわよ」


 皮肉なことだった。せめて魔法が使えたなら、ソフィーだってこの世界に愛着が持てたに違いなかった。負け惜しみに聞こえようが、そう思う。所謂チート級だなんて贅沢はいわないが、人並みの魔力が欲しかった。


「でも家からここまで離れるのは久しぶりなんだもの」

「この辺りに面白いものなどないだろう」

「まあ、それはその通りだけれど」


 ━━お父さんなら此処まで五月蝿くないのに。


 喉まで出かかった気持ちを飲み込む。


 飛ぶように過ぎ去る景色を尻目に、ソフィーは出がけのやり取りをぼんやりと思い出した。

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