またいう日まで
家に帰れば、妹が珍しくも、ソファーで寝ていた。
可愛い寝顔の妹を起こすのは、少しはばかられたが、このまま寝ていたら、体が冷えてしまうので、毛布を掛けてやる。
それからキッチンに行って、今日の夕食の支度をする。
中学生の時まで、俺は祖父母の家に泊まらせてもらっていた。だが、高校に進学が決まってからすぐ、俺は自分の夢をかなえるために、上川文庫のとある賞に応募した。賞こそ取れなかったものの、出版社の方が、俺の作品を気に入ってくれたそうで、今の担当編集者さんなのだが、それから俺の作品が出版されることになった。当初は賞をとった作品と一緒に発売されたのであまり売れることはなかったが、それでも、読んでくださった方々が絶賛してくれて、今ではかなり売れるようになっていた。ひとまず自分で稼ぐことができるようになったので、お世話になった祖父母に話をして、妹とも別れを告げようとしたのだが、「兄さんと離れたくない!」と、駄々をこねられたので、妹一人くらい養えると思ったので、妹もつれることになったのだ。高校に入って、初めての梅雨が明けたくらいのことだったか。
そんなこんなで今は妹と二人暮らしをしているわけなんだが、食事や家事は毎日交代制で行っている。今日は、妹の当番なんだが、すやすやと寝ている以上、起こす訳にもいかない。なので今日の夕食は俺が作らなくてはならないのだ。ご飯を作ること自体は好きなので構わないのだが、洗い物をするのは少々面倒ではある。それは妹に頼めばいいか。
作り始めてから一時間半ほどで今夜の夕食が出来上がった。今日のメニューは、サーモンのソテーのデグラッセソース仕立てに、トマトのオリーブオイルがけ、きのこと大麦のリゾットだ。うん、今日はうまくできたな。
夕食が出来上がったので、そろそろ妹を起こそうと思い、リビングへ向かうと、すでに妹は起きていた。
頬に涙を伝わせて…。
「…!どうした陽菜!…なんか悪い夢でも見たのか?」
「……あれ、どうしたんだろ。…わかんない。でもなんか、大事なことを忘れた気がする」
「…?まぁ、いいや、大丈夫そうだしな」
「うん」
「ごはん、できてるぞ。一緒に食べよう」
「え!ホントに?今日、私が当番なのに…」
「いいんだよ、かわいい寝顔見られたから」
「…っ!?か、かわいい……!」
「……?」
なんだか、陽菜の顔が赤くなった気もしたが、気にせずダイニングへと向かう。
ちなみに、この家は、俺が独り立ちするときに、叔母から貸してもらっているものだ。なんでも、「もうお父さんたちに泊めてもらってるからようないんだよね」とのことだった。だから、ありがたく使わせてもらっているのだけど、もうすでにローンが支払われているみたいで、叔母に聞いたら、五年で済むようにしてたたからね。と言われた。五年でどれだけのお金が飛んで行ったのか、この家はなかなか広くて、豪邸と言っても大丈夫なくらいなので、ホントに想像の域でしかないが、一年で二千万くらいはかかったんじゃないだろうか。そう思ったらヤバイな。叔母が。
ダイニングも広々としていて、二人で囲むには少々広すぎる。何席か、余りが出ている。でも向かいに座れば、それ程二人の距離は、遠くは感じない。今日も今日とて、二人で楽しく食事をする。
なんだか今日は、妹の表情が、とても明るい気がした。
☩ ☩ ☩
気づいた時には、ソファーの上で、涙を流していた。
……そっか、私寝てたのか。
……あれ、でもなんで、私泣いてるんだろ。
「…!どうした陽菜!…なんか悪い夢でも見たのか?」
悪い夢。その言葉に、ふと、何かを忘れているような気がした。
「……あれ、どうしたんだろ。…わかんない。でもなんか、大事なことを忘れた気がする」
☩ ☩ ☩
「兄さん、今日は文化祭の打ち上げで帰るの遅くなるのか。ごはんも今日は食べてくるみたいだし、今日はコンビニで済ませてもいいよね」
あの蒸し暑い夏の余韻がまだ残る九月の下旬。だんだんと短くなる日はもうすでに落ち切っている。夏至の日ならばあるいは、と思ったりもしたが、さすがに七時四十五分ともなれば、夜の街灯も役割を果たしているころだろう。もしくは、電池が切れそうで、チカチカと不気味な雰囲気を出しているころだろうか。まぁ、どちらも夜には変わらないことなのだが、今から外に出る女の子としては、少々出るのがためらわれてしまうかもしれない。
だが、そんなことも気にせず、というか、真夜中ですら何も感じることがない陽菜にとっては、そんな考えに至ることはないのだろう。もしくは超人か…。
なんて、作者が語っている隙に、もう玄関の扉を出て行ってしまった陽菜は、少し足早に、コンビニへと歩いてゆく。
これは寒さに対する行動か、それとも…、
「寒いなー。ちょっと薄着だったかな」
それともも何もなかった。ただ寒いだけでした。それともなんて言ってすいません。
いや、でも、それとも、というのは、強ち間違いではないかもしれない。なぜなら、
――東雲陽菜は、怯えていた。
何かの気配を感じて、怯えていた。無意識的に歩く足が強張って、早くなっていた。
何とも言えない、何か霊的なものなのか、あるいは……。そんなものに意図せず感じていたのだ。
寒いといったのは、あるいは気づいていたか。それを認めたくなくて、どこかで否定していたか。
振り返ることなく陽菜はコンビニまで、いつもより一.数倍倍速い速度で歩いていた。………ときだった。
――東雲陽菜は、地面に倒れたのだ。背中に、月夜に銀色に輝くモノを刺しながら。
その背後には、月の照らすことのない、真っ黒に身を包んだ男が立っていた。
――……………………へ?
――……私、どうなったの?
――なんか背中が熱い。
――……助けて。…………助けて兄さん‼‼
――……私、死んじゃうの?
――……やだ。……やだよそんなの‼
――……兄さん。……兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん。
――……あ。……もう、だめ。
――まだ、兄さんに好きって言ってないのに。
――ごめんね、兄さん。私、先に行ってるね。
――……さようなら。兄さん。
――..................
――........................................
――.............................................................
――………………やだ‼‼まだ死にたくないよぉ‼‼
――まだ、まだ、死にたく……死にたく……ないよ。……まだ……。
――................................................................................
男は、まるで元からいなかったように、その場から消えていた。
☩ ☩ ☩
「そうだ、陽菜。今日な、俺、愛希に会いに行ったんだよ。随分奇麗だったんだけど、陽菜、逢いに行ったりしたか?」
兄さんの声。かっこいい兄さんの、かっこいい声。
「ううん。私は言ってないよ。真希さんたちじゃないのかな」
「そっか。陽菜も今度行って来いよ。多分愛希、逢いたがってると思うよ」
「うん。そうする。兄さん、愛希さん、嬉しがってた?」
「全然わからん。なんてったって、表情が石だからな。真希さんとかは、わかるみたいだけど、俺にはさっぱり。…だけど、嬉しいと思ってくれてると思う。なんか、そんな感じがした」
「そっか。よかったね。私も今度行ってくるよ」
「そうしてやってくれ」
兄さんが作ってくれたご飯で、兄さんと楽しい話をする。私は忘れたと感じているものの正体はさっぱり分からないけど、なぜか、この暖かさを忘れてはいけない感じがした。そう、強く感じた。
そしてこの暖かさを続かせようと心に決めたのだった。暖かさを共有するものを増やして。
しかし、陽菜が愛希に会うことは、それから一度もなかった。あるいは、逢っているかもしれないと、その後、思いを馳せるのであった。