二月六日(木): 異世界召喚は電波塔で
ちょっと痛そうなシーンがあります。
二月六日(木)、修学旅行の朝である。
昨日は普通の高校生として過ごすことができたとはとても言えない気がする。
『これから大変でしょうけど、頑張ってくださいね』
白蕗空さんの言葉を思い出す。何が大変なのか、何を頑張るのか、さっぱり分からない。できれば俺は、普通の高校生として、普通に過ごしたいのだが。
とはいえ、修学旅行という非日常のイベントにおいては、普通の高校生として過ごすのは難しいかも知れない。せめて、普通の修学旅行生として過ごせればいいのだが。
いつもより早く起き、いつもより早く朝食を済ませ、いつもの制服に着替えて、準備しておいた旅行鞄を持って高校に向かう。
集合時刻は7時半だが、7時20分に学校に到着した。10分くらい早めに到着するのが普通の高校生として当然の嗜みだろう。
校庭にはすでにバスが五台待機しており、何人かの先生が運転手やバスガイドと話している。
7時半になり、点呼によって生徒が揃っていることが確認され、生徒はクラスごとにバスに乗り込む。ちょっと元気な男子が後方の席に陣取り、乗り物に弱い生徒が不安げな顔をしているあたりは、遠足も修学旅行も大差ない。
☆
バスに揺られ、最初にやって来たのは、都内にある電波塔である。正式名称は日本電波塔。高さ333メートルの鉄骨構造の電波塔である。
電波塔としての役目は2012年に竣工した高さ634メートルの新しい電波塔に譲っているのだが、なぜかうちの高校の修学旅行の行き先は古いほうの電波塔である。
歴史を学ぶという意味では、竣工から六十年のこの電波塔のほうが相応しいということになっているが、単にこちらの電波塔が好きな教師がゴリ押ししただけという噂のほうが有力だ。
「今どき、中学生でも修学旅行にこんな忌々しい電波塔に来ないだろ」
宮田が電波塔に向かって怨嗟の声を上げている。忌々しいとか言うなよ、失礼だろ。焼きそばパンに先祖を殺されただけではなく、この黄赤と白で塗り分けられた電波塔とも何か因縁があるのかも知れない。
文句を言っている宮田は放っておいて、電波塔を見上げると、その大きさに驚かされる。この電波塔は末広がりな形をしているが、その足元からてっぺんを見上げると、美しいカーブが天を貫いているようだ。
電波塔の下部は鉄筋コンクリート構造で、地下一階、地上五階の、フットタウンと呼ばれる建物となっている。以前は大展望台と呼ばれていた、地上150メートルのメインデッキへは、フットタウン一階からエレベーターで行くことができる。フットタウン屋上からは、五百九十段の階段でメインデッキに上がることもできる。
さすがに、修学旅行の高校生がぞろぞろと階段を上がるということはなく、エレベーターである。そもそも、階段は土曜・休日・祝日のみ一般開放されるとのことで、木曜日は利用できない。無駄に元気な生徒が階段で登りたいと先生に直談判しているが、当然ながら却下されて、しょんぼりとしていた。心なしか、却下した安藤先生もしょんぼりとしていた。
メインデッキのさらに上には、以前は特別展望台と呼ばれていたトップデッキがある。こちらは地上223.55メートルだ。ただし、トップデッキまで行けるチケットはメインデッキのチケットの二倍以上の値段で、うちの高校の修学旅行のプランには組み入れてもらえなかったようだ。
☆
エレベーターに乗り、地上150メートルのメインデッキへと上がる。
平日の昼過ぎなので、それほど混んではいないが、他校の生徒も来ているようだ。あっちにいるのは悟暁高校の生徒だろうか。
日向茜さんが興奮した様子で景色を眺めている。
白蕗空さんが近づいていって、何か話しかけているようだ。
そして、その様子を、少し離れたところから雲川潤さんが見つめている。
日向茜さん、白蕗空さん、そして雲川潤さんか。
俺はこのシーンを前にも見たような気がする。既視感というやつだろうか。
何か、忘れてはいけないことを忘れている気がする。
宮田はどこに行ったんだろう。ここには宮田がいたはずだ。
その時、背後から肩を叩かれた。
「おい光夫、ちょっとこっちに来てくれ」
宮田だ。いつになく真剣な表情の宮田だ。なぜか、ひどく憔悴しているようにも見える。
こんな表情の宮田を、どこかで見た気がする。そうだ、何日か前、英語の授業が終わった時の宮田の顔が、こんな感じだった気がする。
「どうしたんだよ宮田」
「いいから、急いでこっちに来てくれ」
宮田に急かされて向かった先は、男子トイレだった。
「あのなあ」
真剣な顔をして何事かと思ったら、連れションかよ。
そう言おうとした瞬間、どこかから叫び声が聞こえた。トイレの中ではない。トイレの外で何かが起きたようだ。トイレにいた人達が、慌ててトイレから出ていく。
外の様子を見ようとした俺を、宮田が立ちふさがって止めた。
トイレの外はなぜかやたら明るく、真っ白な光が差し込んでくる。そのため、宮田の表情は逆光になっていてよく見えない。
「光夫、お前、うちの高校に不思議な力を持った生徒がいるって言ったよな」
「なんだそれ、それが今関係あるのか?」
トイレの外からは、叫び声だけでなく、悲鳴や怒号まで聞こえる。何か、ただならぬことが起きているのは間違いない。
「光夫の言う通り、不思議な力を持った生徒はいる。そして俺は、そいつを探していたんだ」
ちょっと待て、一昨日それを話したとき、宮田は泣くほど笑ってたじゃないか。そんなことあるわけないという否定じゃなかったのか。
いや、問題はそこではない。今、なんて言った?
「探して、いた?」
「探している」ではなく「探していた」ということは。
「ああ、やっと見つけた」
さて、困った。
ではここで問題です。宮田が見つけたというのは、いったい誰のことでしょうか?
いや、クイズ形式はうざいよな。宮田が誰かを探していて、やっと見つけたという。そういう場合、人はどういう行動を取るだろうか。やっと見つけたくらいだから、接触するか、監視するか、あるいは、攻撃するか。いきなり第三者に話すだろうか。話さないよな。
宮田が見つけた相手が、このトイレ内のどこかにいるという可能性を模索してみる。しかし、外の叫び声を聞いて、トイレにいた人達はみんな出て行ってしまった。いや、まだ個室に人が残っている可能性もある。宮田が「おい、そこにいるんだろ、出てこいよ」とでも言えば全て解決だ。
振り返って個室を見てみると、全てのドアが開いていた。つまり、個室には誰もいないということだ。さすがにこの状況でドアを開けたまま用を足している剛の者がいるとも思えない。
視線を宮田に戻すと、宮田は苦笑していた。
「まあ、そういう反応になるよな」
ですよね、やっぱり俺ですよね。
ちょっと待て、宮田の表情が見えている。そして、外の真っ白な光も消えて、悲鳴や怒号も聞こえなくなっている。むしろ、あまりに静かすぎる。
宮田の肩越しに外の様子を窺う。外はしんと静まり返って、誰の声も聞こえない。
いや、違う。誰の気配もしない。
宮田の顔を見る。笑っている。歓喜の表情だ。俺は背筋が泡立つのを感じた。
「そろそろいいか。光夫、こっちへ来てくれ」
宮田がトイレを出て行く。今度はなんだ。事態が飲み込めなくて、心がついていけない。
しばし躊躇して、俺はトイレを出た。展望フロアには、誰の姿も見当たらない。宮田が少し離れた前方を歩いているだけだ。
展望フロアは、まるで竜巻でも通り過ぎたかのような惨憺たる有様だ。床には帽子や鞄、土産物、ドリンクのカップなどが散乱している。
いや、竜巻ではない。突風が渦巻いたのではなく、ひとつの方向に流れたとしか思えない。そして、その方向に、宮田は歩を進めている。
誰一人いない。展望フロアにいた人達は、どこへ行ってしまったのだろう。
宮田は恐ろしくないのだろうか。まるで躊躇なく歩いているように見える。
宮田の足が止まった。曲がり角の先の、離れた位置の何かを見ている。俺の位置からは見えない。
ここから何歩か進んで、宮田のいる位置に行き、宮田と同じモノを見たら、俺の普通の高校生としての生活は終わる。なぜか、確信に近いものを感じる。
逃げ出したい。しかし、どこに逃げればいいだろう。この誰もいない異常な状態で、エレベーターは動いているのだろうか。そうだ、階段があるはずだ。いくら木曜日は開放されていないとは言え、バリケードで塞がれているということもないだろう。ただ、外階段を降りているときにまた突風が襲ってきたら、果たして無事でいられるだろうか。
俺は、半ば諦めた気持ちになり、宮田の元へ歩み寄った。
そして、宮田の見ているモノを、俺も見た。
「ドア?」
それは、ドアのようなものだった。
その両開きのドアのようなものが、どんな材質でできているのか、よく分からない。木のようでもあり、石のようでもある。ドアの上には女性の胸像が設えられており、まるで来る者を歓迎するかのように両腕を広げて、ドア上部のアーチと一体化している。ドアは開いているが、その向こうは真っ白な光に包まれており、何があるのか見えない。
さて、ここまでなら何か特殊な催し物のための舞台装置だと思い込むこともできるのだが。
このドアが、何の支えもなく1メートルほど空中に浮かんでいるのは、どう理解すればいいのだろうか。
宮田がドアに近づいていく。危険はないのだろうか。いや、怖くはないのだろうか。
宮田はドアから一定の距離を保ちつつ、ぐるりと回り込んで観察しているようだ。どうやら、何かが起こる気配はないらしい。
俺も、恐る恐るながら、ドアに近づいてみた。ドアはどう見ても空中に浮いている。細いワイヤーで吊っているのではと目を凝らしてみたが、何も見えない。ドアの最下部の高さが床から1メートルくらいなので、俺のヘソの高さくらいの位置だ。そして、ドアの向こうは真っ白な光に包まれていて何も見えない。
宮田と同じように、ドアの裏側に回ってみた。裏側から見ると、ドアはただの枠のみに見える。その先には、展望フロアが見えるだけだ。どうやら正面からの一方通行らしい。
これはなんだ。現実世界のモノではないのか、それとも、遠い未来に作られるモノなのか。
俺は再びドアの正面に回り込んだ。
向こう側は真っ白な光に包まれているが、目を凝らせば何か見えるのではないか。そう思って、顔を近づけた。
その時、背後から宮田に声をかけられた。
「すまん光夫、あとで謝る。覚えておいてくれ、これが――」
何を謝るんだと聞く前に、宮田に突き飛ばされた。
反射的に俺は右腕を伸ばして手を付こうとする。しかし、そこにあるのはドアだ。正確には、ドアの向こうの真っ白な世界だ。
何をするんだと言いかけたが、激痛のために言えなかった。右手が、右腕が、ミキサーに掛けられたように粉々になっていく。
何だこれ、何だこれ、痛い。痛い。死ぬ。死ぬ。死んでしまう。
腕を引き抜こうとするが、何か強い力で引き込まれるように、肘が、そして肩が巻き込まれていく。
宮田、これはどういうことなんだ。
謝る。謝るってなんだよ。死ぬ。死ぬ。痛い。痛い。頭が。
そして、俺は、俺達は――