「それでは、私が宮田さんに何をしたのかをお話ししましょう」
白蕗さんは、前回の続きを話し始めた。白蕗さんのことだから、前回の話を読み飛ばしても大丈夫なように、前提条件を改めてまとめてくれるに違いない。
「まず、私が風の力を借りてちょっとした疲れを癒やすことができるのは、等価交換によるものです。疲労の原因である余剰の活性酸素を取り除き、それを風に捧げることで血糖値を上げるなどの見返りを得ています。風にとって活性酸素はブドウ糖などと等価なようです。なお、私の倫理観ではカフェインとの交換までは許容できるのですが、快楽物質への交換はいたしておりません」
なんか、疲れを癒やす能力って、もうちょっと夢のある感じだと思ってた。
「そして、等価交換という言葉でお気づきとは思いますが、逆の交換も可能です」
えっ。
「それって、相手を疲れさせることもできるってこと?」
日向さんが訊く。
「はい。血糖を取り除き、必要以上に過剰な活性酸素と交換することで強制的に疲労状態にすることができます。活性酸素は免疫機能や細胞伝達物質として必要な一方、多すぎる活性酸素は血管や内臓を傷つけてしまいます。つまり、使いようによっては細胞組織を弱らせることもできるのですよ。たとえば癌の治療のひとつである放射線治療は、放射線によって癌細胞のDNAを直接傷つける効果もありますが、癌細胞内に活性酸素を生成することで癌細胞のDNAを損傷させて細胞死を促すという効果もあるのです。活性酸素は薬にも毒にもなるのです」
そうか、白蕗さんが記録に書き込むために腕の細胞組織にダメージを与えていたというのは、疲れを癒やす能力とは別の能力ではなくて、同じ能力の延長線上にあったのか。
「先ほど、校舎の屋上で小林さんを回復いたしましたが、極度の疲労を回復しただけでした」
「そうなんだ」
俺は屋上での白蕗さんとの会話を思い出す。
『えっ、俺の状態って、そんなによくなかったの?』
『はい。脳と内臓と精神に損害があります。血管が破れているなどの問題はないようですが、現代医療では数日以上の安静による自己治癒しか期待できないと思われます。何しろ私達の身体は部品を交換して修理完了というわけにはいきませんから』
そういえば、白蕗さんは俺の脳と内臓と精神にダメージがあるとは言ったものの、回復したとは一言も言ってないな。
『じゃあ、白蕗さんが宮田を回復しても、そんな状態だった宮田を医者は修学旅行に行かせたりはしないか』
『はい。むしろそんな状態から突然回復などしようものなら、医師としては原因を調べるためにしばらく病院に留めようとするでしょう』
白蕗さんが宮田を回復できると思い込んでいたのは俺だけで、白蕗さんは否定せずに受け流してたな。
「はい。屋上で話をしたあの時点では、小林さんの脳と内臓と精神の損害は自覚症状もない程度でしたし、放置でよいと判断いたしました。そもそも風の力を借りても怪我や病気は治せませんので、治ったと思い込んでくださればそれでいいのですよ。別に命に別状があるわけではありませんので」
そういう風に言われると、なんだか胃が重くなった気がする。
「ですが、誤算だったのは、宮田さんの状態が本当に命に関わるものだったことでした」
そうだった。それを思うと、本当に胃が重い。
「でも、宮田くんは、目を覚まして会話できるくらい回復したんだよね。一体、どうやって?」
日向さんが白蕗さんに疑問をぶつけた。
「はい。宮田さんは、重度の過労によって、通常ではありえないほどの大量の活性酸素によって生命の維持に必要な重要な臓器が傷つけられ、多臓器不全を起こしていました。この大量の活性酸素は取り除くことができたのですが、すでに傷つけられた臓器は風の力を借りて修復することはできませんでした。同様に、過度の力で破壊された全身の筋組織も修復はできませんでした」
白蕗さんの声が震えている。宮田は全身の筋組織がずたずたで、剥離骨折までしているんだっけか。話を聞いた俺でも背筋が凍る思いだが、風を視ることで宮田の状態を知った白蕗さんの心中はいかなるものだろうか。
「それでその活性酸素はどこに行ったの?」
日向さんが訊く。そうだ、白蕗さんの回復の能力が等価交換なら、何かと交換したはずだ。
「はい。大量の活性酸素の代わりに血糖値を上げてしまうと、宮田さんの体調が急変して予期せぬ事態を招く恐れがありました。あの状態で血糖値スパイクなどを起こせば、命取りになりかねません。そこで私は、私自身の血糖値を上げることにしました。血糖値スパイクというのは、炭水化物を大量摂取するなどして急激に血糖値が上がった際に、血糖値を下げるために膵臓から大量のインスリンが分泌されて、急激に血糖値が下がる現象です。これによって、眠気や目眩を引き起こすことがあります。健康な人なら耐えられるとは思いますが、宮田さんにそんな危険を冒させるわけにはいきませんでした」
白蕗さんが膝から崩れ落ちそうになり、日向さんが支えたことを思い出した。
『これは、なかなか大変ですね』
いや、なかなか大変ですねで済まされる程度のことではないと思うのだが。
「血糖値を抑えるためにインスリンが分泌されると、血中の糖分は筋肉や脂肪に蓄えられるのですが、それでも間に合わなくなった糖分は中性脂肪に変換されて体に蓄えられます。つまり、私は今、こうして話している今も、どんどん肥り続けているのです。何ということでしょう!」
白蕗さんが目を閉じて天を仰いだ。えっと、反応に困るのですけど。
「だったら、その血糖値を、私にも分けてくれてもよかったのに」
日向さんが提案する。いや、それもなかなかぶっ飛んだ発想だと思うけど。
「いいえ。お言葉はありがたいのですが、私の能力によって他人を傷つけることは、私にはとても耐え難いのです。それにそもそもこの等価交換が可能なのは、対象者の体内のみか、対象者と私の間のみなのです」
なるほど。万能だと思っていた白蕗さんの能力も、制約があったんだな。
「じゃあ、白蕗さんの血糖値を、私を対象者にして移すとかはできないの?」
「それは」
白蕗さんが返答に詰まった。なるほど、理屈的にはできそうだ。しかし、白蕗さんがそれに気づかないということはあるだろうか。いや、気づいていながら、指摘されなければやり過ごせると判断したのだろうか。確かに白蕗さんの脳のパフォーマンスはずいぶん落ちているようだ。
すかさず日向さんが間合いを詰める。
「私は剣道で鍛えているから、少しくらいの疲労は大丈夫だと思うの。白蕗さんの血糖値を等価交換して、私を疲れさせれば、白蕗さんはずっと楽になるんじゃないの?」
そんなバケツリレーみたいな感じに他人から他人へ元気や疲労を受け渡せるものなのだろうか。
「はい。それではお言葉に甘えさせていただきます。ただ、私の血糖値を下げるために日向さんの活性酸素を増やす必要はなく、日向さんの血糖値を上げさせていただいてもいいはずです。血糖値の上昇によって脳の満腹中枢が刺激されることで食欲減退の副作用が現れる可能性はあります。日向さんなら夕食で少しくらい食欲減退しても、おそらく大した影響はないかとは思いますが」
白蕗さんはそう言って胸の前で両手を合わせた。白蕗さんが表情を歪めたように見えたが、気のせいだろうか。白蕗さんの体がぼんやりと光る。すると、日向さんが驚いたような表情をした。
「あっ、疲れたときに甘いものを食べたみたいな感じがする」
どうやら血糖値が上がったらしい。
「はい。健康に害のない程度に糖分を分けさせていただきました。私の体内にはすでに大量のインスリンが分泌されているので、私の血糖値を下げすぎても低血糖症のおそれがありますので。ああ、なんて使い勝手の悪い能力なんでしょう」
ああ、白蕗さんに言わせれば、どんな能力も使い勝手が悪いのかも知れない。
「あ、俺にも血糖値を」
「いいえ。小林さんの状態もそれほどよくありませんので、無茶はさせられません」
そうですか。
「それで、宮田くんはどうやって回復したの?」
日向さんが訊く。
そうだ。また話が長くなってしまったが、今回のメインテーマは、どうやって宮田を回復させたかだ。
「はい。正直申しますと、私は困りました。宮田さんの疲労は取り除けたものの、傷つけられた臓器の回復はできません。ですが、私の視たところによりますと、このままでは宮田さんは明日を迎えるのは難しい状態でした。何か手を打たなければならない。私は悩みました」
宮田の病室で、白蕗さんは最初に能力を使ったときに宮田の疲労を取り除いた。二回目のときは、両手を合わせたあと、なかなか能力を発動しなかったように思う。
「そのとき、雲川さんのすすり泣きが聞こえました。そこで、雲川さんの能力について考えたのです」
えっと、雲川さんの能力『明鏡止水』は、あらゆる外乱を排除して必ず矢が的に中るというものだけど、それがこの話の流れでどう関係するのだろうか。白蕗さんは、雲川さんの能力について、ほかになんて言っていただろうか。
『はい。物理法則や因果関係を無視するわけですから、これはもうすばらしいとしか言いようがありませんね』
俺は思わず「あっ」と声を出していた。
「そうです。雲川さんの能力は、物理法則や因果関係を無視するものです。因果関係を無視する能力があり得るならば、等価交換によって因果を交換することは可能なのかと考えました。いえ、正確に言い直しましょう。因果関係とは原因と結果の関係ですが、そのうちの結果だけを交換することは可能なのかと考えたのです」
ちょっと待って。俺は束の間の目眩に襲われた。俺は再び白蕗さんの言葉を思い出していた。
『はい。疲労は回復できるのですが、傷んだ体組織の修復などは私としましても初めての試みでしたから、少しばかり、私の体の中身もいろいろ代償として削ってしまいました』
なんてことを。
いや、他に方法なんて思いつかないけど、なんてことを。
「白蕗さん、それってつまり」
日向さんが恐る恐る聞こうとするものの、言葉に詰まってしまった。
「はい。宮田さんが多臓器不全を起こしている内臓の損害のうち、それぞれ三割ほどの『結果』を、私に差し替えました」