不意に落下するような感覚にとらわれ、体がぴくりと反応した。
「うお」
小さく発した俺の声に、周りの生徒は気づかなかったようで、教壇の英語教師の声に耳を傾けている。
一瞬、寝落ちしたのだろうか。あまりに現実的な落下感で、鼓動が少し早くなっている。
ひどい夢を見たような気もするが、思い出せない。
忘れてはいけないことを忘れている気がする。
改めて、自分の置かれた状況を確認する。今は英語の授業中で、俺は教師が板書した英文をノートに書き写しているところだ。
俺がノートに書いていた英文を見ると、特に文字の乱れはなく、寝落ちしたようには見えない。
シャープペンシルを持つ自分の右手を見つめる。もしこの右手の骨が粉々に砕けたら、さぞかし痛いことだろう。しかし、今この右手には何も異常はない。
いやいや、英語の授業中に骨に異常が起こるって、どんな状況だよ。
もう馬鹿なことを考えるのはやめよう。
俺の名前は小林光夫、どこにでもいる普通の高校生だ。
都心部から電車で20分ほどのところにある、公立芙鶫高校の二年生だ。
公立芙鶫高校は芙と鶫を校章にする、文武両道の普通の普通科高校だ。一学年は各クラス40人でA組〜E組の5クラス。俺はC組だ。制服は男女ともにブレザーで、スラックスとスカートから選択可能だが、スカートを選択した男子は一人もいないし、スラックスを選択した女子は数えるほどしかいないようだ。
どこにでもいる普通の高校生が、こんなふうに脳内で自己紹介をするのかという疑問もなくはないが、それはさておき、身長、体重、学力、体力など、どこを取っても普通の高校二年生だ。
いや、普通と言いきってしまったが、果たしてそうだろうか。身長168センチメートル、体重60.5キログラムで、背は高くも低くもなく、太っても痩せてもいないから、普通だと思う。
学力に関しては、入学以来ずっと偏差値55くらいを維持しているから、まずまず普通だと思う。
体力は二年になってすぐの五月の体力テストで、50メートル走のタイムが7.5秒、1500メートル走は6分38秒だった。運動部の連中はもう少し足が早いが、帰宅部の俺は普通くらいだと思う。
両親は健在で、父は普通の会社員、母は週に三回スーパーでパートタイム労働をしている普通の兼業主婦だ。その両親と俺の三人で、都心部から電車で30分離れた土地の、最寄駅から徒歩11分の2LDKのマンションで暮らしている。
俺には兄弟姉妹はいないから、可愛い妹にお兄ちゃんなどと呼ばれることもない。幼馴染という存在もいなかったし、小学校や中学校の友達はこの高校には誰も通っていない。
そんな感じの、どこにでもいる普通の高校生だ。ちょっと設定を盛りすぎなくらい普通の高校生だ。
「ふおあ」
後ろの席から、溜息が聞こえる。宮田だ。また深夜アニメで夜更しでもしたのだろうか。いや、単に眠気に襲われているというより、まるでこの世の終わりのような悲壮感を漂わせる溜息だ。ただならぬ気配に、振り返って宮田の様子を伺うのを躊躇するくらいだ。
「宮田くん、修学旅行が近いからって、気を抜きすぎです」
野村先生が宮田に注意し、教室に笑いが起こる。
そうは言っても、修学旅行の三日前ともなれば、誰だって気が緩むってもんだ。野村先生だって、生徒を引率する義務と責任はあるものの、いつもより少し楽しそうに見える。
いや、修学旅行の三日前で正しかっただろうか。俺の感覚ではもう明日くらいのような気がするのだが。腕時計を見ると、今日は二月三日の月曜日だ。二月六日の木曜日から修学旅行だから、三日前で正しいはずだ。そうは思うものの、そんなに先だっただろうか。
野村先生は若い女性の英語教師で、この高校に新任教師として赴任したのは三年前らしい。野村先生は、このクラスの担任でもある。宮田に言わせれば「お姉さんくらいの距離感のお姉さんキャラ」だとか。そりゃ、お姉さんの距離はお姉さんくらいだろう。お姉さんキャラかどうかはともかく、親しみやすい人柄で、男子だけでなく女子からも人気がある。教師になって三年目の修学旅行ということで、普通に旅行として楽しみな部分もあるんだろう。A組担任の国語の熊田先生は「教員生活30年ともなると、修学旅行なんて同じところに行くばかりで、ただの精神修行です」と言っていたが。
さておき、宮田は、野村先生がお気に入りなのが理由かどうかは分からないが、英語の授業だけはいつも真面目に聞いていて、ほかの教科は赤点スレスレでも、英語だけは満点近い点数を取ったりする。そんな宮田が、英語の授業中に気を抜くなどあっていいものだろうか。
野村先生は、宮田の普段の態度が真面目だからこそ、少し気が緩んだだけだろうと軽く流したのかも知れない。しかし、背後の宮田の気配は、気が緩んでいるという雰囲気ではない。何か差し迫った空気を感じる。そして、ほかの誰にも聞こえないような小さな声で何か呟いている。
「くそ、またかよ。もう残ってねえじゃねえか」
ちょっと怖いんですけど。
宮田は高校に入ってからの友達だ。一年のときに同じクラスになり、たまたま見ていた深夜アニメの話題が合ったことをきっかけに仲良くなり、それ以来何かとつるんでる。
宮田の名前は、いわゆるキラキラネームとかいうやつで、名前を呼ぶと不機嫌になるので、苗字を呼ぶようにしている。
小林光夫という普通の名前の俺にはキラキラネームをつけられた苦労はよく分からないが、宮田に言わせれば俺の名前は「死ぬほど羨ましい」らしい。確かに、中学のときに左右対称だと言われた以外、名前に関して困るようなことはなかった。
宮田は高校を卒業したら改名するつもりらしい。不本意な名前を与えられた場合、漢字はそのままで読み方を変えるという手もあるらしいが、読み方を変えてもどうにもならないので改名するらしい。ただ、高校を卒業して大学生になって一人暮らしを始めるまでは親の顔を立てて名前はそのままにしておくそうだ。
名前のことはさておき、宮田は背も高くて顔も悪くない。黙っていれば女子にモテそうなのだが、言動がチャラく、女子からの受けはよくないようだ。特に何の特徴もない俺が言うことでもないけどな。
ただ、その軽薄なキャラは、宮田打悪というキラキラネームの印象を打ち消すために身に着けたものなのかも知れないと考えると、少し気の毒な気もするが。おっと、名前を呼ぶと不機嫌になるんだった。
背後の宮田からは、普段の軽薄なキャラからは想像もできない、闇そのものの気配すら感じられる。まさにダークだ。
って、闇の気配とか、俺は何を考えているんだ。
ふと窓の外を見ると、隣のB組の生徒がグラウンドで体育をやっているところだった。
二月だというのに外で体育、しかもグラウンドを走らせるとか、うちの学校の体育教師は鬼だろうか。いや、鬼よりももっと恐ろしい、安藤先生の姿が見えた。ホイッスルを吹き鳴らして生徒を鼓舞している。いわゆる熱血教師というやつだ。昭和時代からタイムスリップしてきたという噂もあるが、さすがにそれはないだろう。筋骨隆々という言葉が相応しいその肉体は見事だとは思うが、まるで見せびらかすように半袖シャツと短パンという薄着なのはどうかと思う。見ているこっちのほうが寒くなる。
走らされている可哀想な生徒たちを見ると、400メートルトラックを一周もせずにふらふらになって、ほかの生徒に周回遅れにされている女子がいる。
白蕗空さんだ。科学部で人工知能か何かの研究をしていて、文部科学省から表彰されたらしい。俺には何がすごいのかすらよく分からないが。
そんな白蕗さんも、運動は苦手ということか。そりゃ誰にだって得手不得手というものがあるよな。
白蕗さんは立ち止まって両手を膝について少し休んでいたが、背筋を伸ばして、何か祈りでも捧げるように胸の前で手を合わせ、再び走り始めた。さっきはかなりふらふらしていたが、意外に元気な走りだ。
見間違いだろうか。いや、きっと見間違いだろうと思うが、胸の前で手を合わせた白蕗さんの体が、何となく、ぼんやりと光ったような気がする。いや、見間違いだろうとは思うのだが。
☆
結局、全く集中できないまま授業が終わり、昼休みになった。宮田が背後の席から声をかけてくる。
「光夫、おはよう」
「おはよう。って、おはようじゃねーよ、もう昼だ」
相変わらずマイペースなやつだと思いつつ、振り向いて宮田の顔を見て、ぎょっとした。
さっきの授業中、背後から感じたただならぬ雰囲気は勘違いではなかった。宮田は余命宣告された末期患者みたいな死にそうな顔をしている。
俺は思わず椅子から腰を上げた。宮田を保健室に連れて行かなければ。野村先生に相談しよう。しかし、教壇のほうを見ると、野村先生はすでに教室を出ていったあとだ。
宮田に視線を戻し、大丈夫かと声をかけようとしたところで、俺は気づく。そこにいるのは、いつもと変わらない宮田だ。
もしかして、疲れているのは俺のほうだろうか。
「さて、まずは焼きそばパンの救助からだな」
「あ、ああ、早く行ってこいよ」
いつものことではあるが、俺の昼食は母の作ってくれた弁当で、宮田の昼食は購買で買ってくるパンだ。これはもはや習慣と化しており、何年も変わっていない。いや、何年もってことはないな。さすがに話を盛りすぎだ。
いつもの宮田なら、焼きそばパンを確保するため、昼休みになった瞬間に教室を飛び出していくのだが、今日もやけにのんびりしているようだ。
いや待て、いつも教室を飛び出していくのに、今日ものんびりしているとか、自分でも何を言っているのか分からない。ただ、宮田がのんびりしているように見えるのは確かだ。宮田は教室の時計を眺めて、「そろそろ行くか」と言って教室を出ていった。
宮田が教室を出て行ったのを見届け、俺は自分の弁当を取り出す。俺の弁当は、おかずとご飯が別々になっており、真空層によって外気温から隔離することによって保温されている。保温弁当箱とかランチジャーなどと呼ばれるものだ。
宮田は俺の弁当を見て「なんかおっさんっぽい」などと言うのだが、やはり温かい弁当は何物にも代えがたいし、正直言ってうちの母の料理はかなり美味しいほうだと思う。今日のおかずは、またいつものソーセージに卵焼き、ブロッコリー、ポテトサラダ、ミニトマト。どれも美味しそうだ。
生徒が昼食をとる場所は様々だ。二月という今の寒い時期に校庭や屋上に行く生徒はあまりいない。主に使われるのは教室や生徒ホールだ。生徒ホールには食堂もあるし、購買もあるので、生徒ホールで昼食をとる生徒のほうがやや多いだろうか。
教室では、女子のグループが机を動かして向かい合わせに並べて、そこに各自の弁当を広げている。二台の机を向かい合わせにくっつけて、そこに四人の女子が集まっている。女子の弁当箱の大きさなら、机二台で充分な広さなのだろう。あるいは、単に机を動かす労力を惜しんだだけかも知れない。
その女子グループの一人は、剣道部の日向茜さんだ。小学校のころから剣道をやっていて、去年の冬に三段に合格したらしい。高校生では三段が最高段位らしいから、かなり強いってことだろう。段位と強さは関係ないと話していたのを聞いたことがあるが、女子剣道部で団体戦の主将を務める彼女が弱いってことはないはずだ。
ちなみに、高校生の最高段位が三段なのは、昇段試験に受審条件があるからだ。最初の段位、初段を取ることができるのは十三歳からで、そこから最速で二段を取れるのは一年以上の修行を積んだ十四歳からだ。三段を取れるのはさらに二年以上の修行を積んだ十六歳からで、その次の四段は、ご想像のとおり、さらに三年以上の修行を積む必要があり、十九歳になる頃には高校を卒業してしまうのだ。つまり、高校一年の十六歳で三段を取るというのは、最速で剣道を修めているとも言える。
そんな日向さんが、ランチョンマットの上にパンダの描かれた可愛らしい小さなプラスチック製の弁当箱を取り出す。小さな体に見合わぬ負けず嫌いな性格だが、パンダが好きというギャップもあって、ファンも多いらしい。小さいという言葉は禁句だが。
日向さんが弁当箱の蓋を開けると、湯気が立ったように見えた。いや、日向さんが何かを思い出したかのように再び弁当箱の蓋を閉じたので、湯気は見間違いかも知れない。
「ちょっと購買に行って飲み物買ってくるね。先に食べてて」
日向さんは女子グループの仲間にそう言って立ち上がると、パタパタと教室を駆け出していく。
教室のドアを開けて出ていく日向さんと、一瞬目が合った。明らかに俺のほうを見ていた。
いや、俺も日向さんを見ていたわけだから、お互い様というべきか。
そうじゃない、問題はそこじゃない、それと、弁当箱の湯気も気になったが、本当に気になったのはそのことじゃない。
弁当箱を開ける直前の日向さんの体がぼんやりと光ったように見えた気がするのだが、やはりあれも気のせいだろうか。
日向さんと入れ替わるように、宮田が戦利品の焼きそばパンとコーヒー牛乳を持って戻ってきた。教室を出ていく日向さんを、まるで闘牛士のように華麗にかわして教室に入ってくる。そして、日向さんをかわした勢いのままくるりと一回転して教室のドアを閉めた。器用なやつだ。
宮田は日向さんの出ていったドアをしばらく見つめていたが、俺の前の席に後ろ向きに座った。
宮田が戻ってきたので、俺は「いただきます」と手を合わせて弁当を食べ始める。宮田は焼きそばパンを食べずに、俺の顔をじっと見てくる。
「何だよ」
「いや、何でも」
宮田はまるで外国人のように大げさに肩をすくめて見せると、焼きそばパンを包んでいるラップを外して、焼きそばパンを頬張った。グイグイと口に押し込んでハムスターのように頬を膨らませ、コーヒー牛乳で流し込むという大胆な食べ方だ。口の中で焼きそばとコーヒー牛乳の味が混ざっていると思うのだが、宮田はちゃんと味わっているのだろうか。
それに、いつも思うのだが、高校二年の育ち盛りが、よく焼きそばパンだけで足りるものだ。放課後には俺と一緒に買い食いをしたりするわけだが、それでも必要な栄養を摂れているのか気になる。
まあ、俺は宮田の母親でもないから気にしてもしょうがない。実際のところ、宮田は母子家庭で、母親はかなり早朝から仕事に出かけるため弁当は用意できないらしい。夕食は母親が作り置きした手料理を食べているそうだが、宮田もこのあたりのことはあまり話さないし、他人の家庭の事情を詮索するものでもないから、詳しくは知らない。
「どうかしたのか?」
宮田に聞かれて我に返る。宮田を気にしすぎて自分の食事の手が止まっていたようだ。
そういえば、いつもの宮田なら、卵焼きをくれとかソーセージをくれとか言って強奪していくはずだが、今日はちらりと一瞥しただけで手を出してこない。ちなみに、卵焼きとソーセージが狙われるのは、宮田が野菜嫌いでブロッコリーやミニトマトは論外なのと、ポテトサラダは手掴みで食べるにはちょっと難易度が高いというのが理由だ。
俺は卵焼きを口に放り込む。甘い味付けが口の中に広がる。俺は自分のことを普通の高校生だと言ったが、こうして母の作ってくれた弁当を毎日食べられるのだから、ずいぶんと恵まれた普通の高校生ではあるよな。
ただ、この卵焼きもソーセージも、ずっと食べ続けていると、ありがたみが薄れてくるような気もする。
いや、なんてことを考えるんだ。俺はちょっと母に申し訳ない気持ちがして、その考えを振り払った。
☆
ホームルームで担任の野村先生から三日後の修学旅行に浮かれて怪我や病気のないように注意され、教室の清掃を済ませて、放課となった。
帰宅部である俺と宮田は、いつものように買い食いをして帰る。例のごとく、宮田が声をかけてきた。
「光夫、アイス買って帰ろうぜ」
「ん、ああ、寒いからこそアイスだな」
校舎を出てグラウンド横の道を通り、弓道場に向かう。買い食いをする前に弓道部の練習を見に行くのも俺と宮田の日課だ。
グラウンドでは、運動部が活動を始めている。修学旅行目前なのに、二年生の姿もある。三年生はすでに引退しているので、練習しているのは二年生と一年生だけだ。
野球部やサッカー部はユニフォームで走っているが、剣道部や弓道部は道着でグラウンドを走っている。道着で走る理由は、制服から運動着に着替えて走り、そのあと道着に着替えるのは時間の無駄であり、洗濯物を増やすだけだからだろう。
俺と宮田も、教室の清掃を終わらせてけっこう早く出てきたつもりだったが、運動部の連中はすでに着替えて走っている。瞬間移動できる能力でも持っているのかと疑っていたが、そうではなく、運動部の連中は清掃が終わった瞬間に部室に走っているようだ。熱心なことだ。
「お、雲川だ。相変わらずクールビューティーだな」
「ああ、そうだな」
弓道部の女子の先頭は、同じ学年の雲川潤さんだ。長身で細身の美人で、モデルとしてもやっていけそうだ。実際、街でスカウトされたこともあり、弓道以外には興味がないと断ったらしい。腰まで届きそうな長髪は、運動をするときは頭の後ろで団子にしているようだ。
雲川さんは、去年の県大会で団体戦のメンバーに選ばれ、我が高校は全国大会出場は逃したものの、かなりいいところまで行ったらしい。逆に言えば、いいところ止まりだったわけだが、敗因は雲川さんの後半の集中力の乱れだったらしい。実際にそれだけが敗因だったのかは分からないが、先輩の足を引っ張ってしまったと悔いた雲川さんは練習を重ねて腕を上げ、今では女子弓道部のキャプテンである。
宮田は雲川さんを見るたびにクールビューティーだと言っているが、そのエピソードからすると、クールというよりは、けっこう熱いものを感じる。男子にも女子にもファンがいるのは納得だ。
そういえば俺達が放課後に弓道部の練習を、いや、雲川さんの練習を見に行くようになったのは、いつからだっただろうか。
剣道部は男子と女子に分かれずにごちゃ混ぜで走り込みをしているが、その先頭を日向茜さんが走っている。負けず嫌いだから先頭を走っているのか、小さいから集団に紛れると周りが見えなくなるから先頭を走っているのか。いや、小さいは禁句だったな。
その日向さんがこちらを見て、すぐにぷいっと視線を逸らせた。これは自意識過剰とかじゃなくて、俺を見たよな。ただ、好意を寄せられているとかいうことは全くないようだ。単に俺を見ただけという感じか。まさか、小さいって考えた心を読まれたんじゃないだろうな。
「そういえば光夫、英語のとき、隣の女子が走ってんの見てたろ」
「ん、ああ、白蕗さんか。なんか頑張って走ってたな」
宮田に言われてそう答えたが、宮田はどうも俺の答えが気に入らなかったようだ。
「そうじゃなくて、白蕗を見て、何か気づいたこととかないのかよ」
俺は一瞬ぎくりとする。白蕗さんの体がぼんやりと光ったような気がするなんて言えるだろうか。
俺が答えあぐねていると、宮田は呆れたように首を振った。
「気づいてないのか光夫、白蕗が隠れ巨乳だってことに」
「バカじゃねーの」
宮田も、こんなことばかり言ってなければ、女子にモテそうな気がするんだけどな。
宮田とバカな話をしながら弓道場に行くと、走り込みを終えた弓道部員が練習を始めるところだった。
弓道場は、矢が外に飛び出してしまわないよう、全体的にネットで覆われていて外から見ることはほとんど不可能だが、見学用の小窓があって、行射を後ろから見ることができる。俺と宮田はいつもの見学窓に陣取った。
今日の弓道部は、試合を想定して遠的の的前稽古をするということで、見学している生徒の数も多い。弓道部の練習内容を把握して見学に来るとか、どれだけマニアックなんだ。
弓道部は、月曜日、火曜日、木曜日、金曜日は通常練習で、水曜日は試合のない週は休み、試合のある週は自主練習だ。土曜日は試合形式で練習、日曜日は練習試合や休みだ。今週末は二年生が修学旅行に行くため、平日に試合形式の練習をするらしい。二月末に春季遠的大会があるので、なるべく試合形式の練習を重ねておきたいということらしい。
練習が始まった。二年生が四人ずつ並び、順に矢を射ていく。なお、見学は特に禁止されていないが、会話や声援は禁止で、矢が的に中ったときに拍手することだけが許される。
雲川さんの組が出てきた。矢を二本持っている。前後に足を開き、床を踏みしめるように立つ。凛とした立ち姿が美しい。雲川さんが弓構えすると、辺りはまさに水を打ったように静まった。雲川さんの射た矢が60メートル先にある的の中心に中って、拍手が沸き起こった。
しかし、最初のうちは拍手していた生徒たちも、雲川さんが矢を射るたびに、何かがおかしいと気づき始めて、ただ唖然と見守るだけになっていった。
四射して全て正鵠を射る。それがすでに五回である。集中力が課題とか、そんな次元の話だろうか。
そして、雲川さんが弓構えするときに、その体がぼんやりと光っているように見えるのは、俺だけなのだろうか。
☆
弓道部の見学を終えて、俺と宮田はいつものように駅に向かう。いつも途中のコンビニで買い食いするのだが、俺の頭には買い食いのことなどなく、今日見たことがぐるぐると渦巻いている。
今日見たことを、宮田に話してみるべきだろうか。話したところで、信じてもらえるだろうか。そう考えているうちに、コンビニに着いてしまった。とりあえず、一旦気持ちを切り替えて、アイスを食べてから考えよう。
やたらと歯ごたえのある、当たり付きのアイスを買うわけだが、いつものようにアイスの冷凍庫に向かった宮田が、振り返って神妙な表情で俺に言った。
「なあ光夫、変なことを言うが、お前ちょっとこのアイスの当たり引いてくんね?」
「バカじゃねーの」
何を言ってんだこいつ。アイスの当たりを狙って引けるわけがないだろ。
もしかして、雲川さんが正鵠に皆中させていたのと何か関係があるのだろうか。
冗談を言っているのかと思ったが、宮田の目を見ると笑っていない。
「頼む、できるかどうかはともかく、当てるつもりで選んでみてくれ」
「無茶を言うなよ」
真剣な宮田に促されて、俺はアイスを選ぶ。こういうときって、一番上から取るといいのか、一番下から取るといいのか。それとも別のところから取るといいのか。俺がアイスを選ぶところを、宮田は凝視していた。
コンビニを出て、俺は買ったアイスを食べる。宮田も同じアイスを買ったが、何か考え事をしているようで、食べていないようだ。
俺はアイスを食べ終えて、芯棒を確認する。ハズレだ。そりゃそうだよな。狙って当たりを引けるわけがない。
「何でだよ!」
「何がだよ?」
宮田が少し怒ったように言うが、俺にしてみれば宮田が何に怒っているのか分からない。
「何でハズレを引くんだよ、信じらんねー」
「バカじゃねーの」
宮田はいつもバカなことを言っているが、宮田をバカだと思ったことはなかった。しかし、今日の宮田はバカだ。どう考えてもバカだ。まさか、本気で俺が当たりを引くと思っていたばかりか、わざとハズレを引いたと思うほどバカだとは思わなかった。
「ところで、このアイスの当たりを引けってのは、雲川さんと何か関係があるのか?」
宮田はしばらくぽかんとしていたが、急に笑い始めた。
「弓道の『中る』ってのは然るべくして中るんだよ。アイスみたいにたまたま『当たる』ってのは関係ねーよ」
「バカじゃねーの」
だったら、何で思わせぶりに当たりを引いてみろなんて言ったんだ。
何かはぐらかされたような気がしないでもないが、駅に着いたので、そこで宮田と別れた。
☆
電車で20分ほど揺られ、駅から15分ほど歩き、マンション6階の家に帰り着いた。
「ただいま」
「お帰り光夫」
夕食の支度をしている母に挨拶し、保温弁当箱を鞄から出して、台所の洗い場に置く。ご飯の容器には水を注ぐ。ちゃんとやらないと、うちの母はちょっとへそを曲げてしまう。
それから俺は、いつも言い忘れていたことを母に伝えた。
「あ、弁当ごちそうさま」
「あら、どういたしまして」
今日の昼休み、なぜか母の弁当のありがたみが薄れてくるなどと考えてしまったので、ちょっと後ろめたい気持ちで言ったのだが、母が嬉しそうなのでよしとしておこう。
「修学旅行の準備はできてるの?」
「ん、だいたい終わってる」
修学旅行に必要なものといっても、四日分の衣服と下着、寝間着、学校ジャージ、洗面用具、タオル、雨具はもう旅行鞄に詰め込んである。制服で集合だし、運動靴はいつも履いているやつでいい。あとは必要ないものをどれだけ持って行くかだろうか。
夕食の支度をしている母に今日見たことを話そうかと思ったが、どう話していいかもわからず、声をかけることはできなかった。
自室に入り、鞄を放り出して、ベッドに寝転がる。そして、今日見たことを改めて思い返す。
同じ学校に、何か不思議な力を持った生徒がいる。少なくとも三人だ。超能力と呼んでいいのか、魔法と呼んでいいのか、よく分からない。体がぼんやりと光って、何かが起こっているのか、何かを起こしているのか。
こういうことに気づいてしまった場合、どうすればいいんだろう。見て見ぬ振りをすればいいんだろうか。それとも、人類に敵対するなら阻止したりしなければならないのだろうか。
おかしい。俺はただの普通の高校生なのに、普通の高校生活を送ろうと思っていたのに、どうしてこうなるんだ。