不意に落下するような感覚にとらわれ、体がぴくりと反応した。
「うお」
小さく発した俺の声に、周りの生徒は気づかなかったようだ。
一瞬、寝落ちしたのだろうか。ひどい夢を見たような気もするが、思い出せない。
忘れてはいけないことを忘れている気がする。
改めて、自分の置かれた状況を確認する。
今は英語の授業中で、俺は教師が板書した英文をノートに書き写しているところだ。
俺がノートに書いていた英文を見ると、文字に乱れはなく、寝落ちしたようには見えない。
シャープペンシルを持つ自分の右手を見つめる。何も異常はない。いや、英語の授業中に異常なことなど起こるだろうか。
もう馬鹿なことを考えるのはやめよう。
俺の名前は小林光夫、どこにでもいる普通の高校生だ。
どこにでもいる普通の高校生が、こんなふうに脳内で自己紹介をするのかという疑問もなくはないが、それはさておき、学力体力ともに普通の高校二年生だ。
両親は健在で、父は会社員、母は週に三回スーパーでパートタイム労働をしている兼業主婦だ。
俺には兄弟姉妹はいないし、幼馴染もいない。
うん、どこにでもいる普通の高校生だ。
「ふおあ」
後ろの席から、気の抜けた溜息が聞こえる。宮田だ。また深夜アニメで夜更しでもしたのだろうか。
「宮田くん、修学旅行が近いからって、気を抜きすぎです」
英語教師が宮田に注意し、教室に笑いが起こる。
修学旅行の三日前ともなれば、誰だって気が緩むってもんだ。
いや、三日前で正しかっただろうか。腕時計を見ると、今日は二月三日の月曜日だ。
二月六日の木曜日から修学旅行だから、三日前で正しい。
むしろ、俺はなぜ三日前で正しかっただろうかと疑問に思ったんだろうか。
宮田は高校に入ってからの友達で、何かとつるんでる仲だ。
宮田の名前を呼ぶと不機嫌になるので、苗字を呼ぶようにしている。
宮田は背も高くて顔も悪くない。黙っていれば女子にモテそうなのだが、言動がチャラすぎるせいか、女子受けはよくないようだ。
特に何の特徴もない俺が言うことでもないけどな。
ふと窓の外を見ると、隣のクラスの生徒がグラウンドで体育をやっているところだった。
二月だというのに外で体育、しかもグラウンドを走らせるとか、うちの学校の体育教師は鬼か。
見ると、400メートルトラックを一周もせずにふらふらになって、ほかの生徒に周回遅れにされている女子がいる。
白蕗空さんだ。面識はないが、科学部で何か研究していて文部科学省から表彰されたとかいう噂を聞いた気がする。
白蕗さんは、少し立ち止まって休んだあと、再び走り始めた。さっきはかなりふらふらしていたが、意外に元気な走りだ。
おっと、あまり女子を見ていると、あとで宮田に何を言われるか分からないな。
☆
授業が終わり、昼休みになった。宮田が声をかけてくる。
「光夫、おはよう」
「おはよう。って、おはようじゃねーよ、もう昼だ」
相変わらずマイペースなやつだ。
「さて、焼きそばパンの救助に向かうとするか」
「早く行ってこいよ」
いつものことではあるが、俺の昼食は母の作ってくれた弁当で、宮田の昼食は購買で買ってくるパンだ。
いつもの宮田なら、焼きそばパンを確保するため、昼休みになった瞬間に教室を飛び出していくのだが、今日はやけにのんびりしているようだ。
宮田が教室を出て行ったのを見届け、俺は自分の弁当を取り出す。おかずとご飯が別々になっており、保温されていて湯気が立つほど温かい。
宮田は俺の弁当を見て「なんかおっさんっぽい」などと言うのだが、やはり温かい弁当は何物にも代えがたい。
生徒が昼食をとる場所は様々だ。今の時期に校庭や屋上に行く生徒はあまりいない。主に使われるのは教室や生徒ホールだ。生徒ホールには食堂もあるし、購買もある。
教室では、女子のグループが机を動かして向かい合わせに並べて、そこに各自の弁当を広げていた。
二台の机を向かい合わせにくっつけて、そこに四人の女子が集まっている。女子の弁当の大きさなら、机二台で充分な広さなのだろう。あるいは、単に机を動かす労力を惜しんだだけかも知れない。
その女子のグループの一人は、剣道部の日向茜さんだ。小学校のころから剣道をやっていて、かなりの強さらしい。
日向さんはランチョンマットの上に置いた可愛らしい小さな弁当箱の蓋を開け、何かを思い出したかのように、再び弁当箱の蓋を閉じた。
「ちょっと購買に行って飲み物買ってくるね。先に食べてて」
日向さんは女子グループの仲間にそう言って立ち上がると、パタパタと教室を駆け出していく。
ほぼ入れ替わるように、宮田が戦利品の焼きそばパンとコーヒー牛乳を持って戻ってきた。
「最後のひとつだったぜ」
宮田は俺の前の席に後ろ向きに座り、焼きそばパンを頬張る。
いつも思うのだが、よく焼きそばパンだけで足りるものだ。
「お、うまそうなソーセージ。くれ」
宮田はそう言うと、俺の弁当からソーセージをひとつ手掴みして、そのまま口に放り込んだ。
くれと言いつつ、否応なしだ。まあ、いつものことではあるが。
俺は卵焼きを食べつつ、さっき英語の授業中に感じた、何かを忘れているような感覚を思い出していた。
☆
ホームルームで担任教師から三日後の修学旅行に浮かれて怪我や病気のないように注意され、教室の清掃を済ませて、放課となった。
当たり前のように、宮田が声をかけてくる。
「光夫、アイス買って帰ろうぜ」
「この寒いのにアイスかよ」
「寒いからこそアイスを食うんだろ」
相変わらずマイペースなやつだ。
校舎を出てグラウンド横の道を通り、校門に向かう。
グラウンドでは、運動部が活動を始めている。修学旅行目前なのに、二年の姿もある。
野球部やサッカー部はユニフォームで走っているが、剣道部や弓道部は道着でグラウンドを走っている。
俺と宮田も、教室の清掃を終わらせてけっこう早く出てきたつもりだったが、運動部の連中はすでに着替えて走っている。瞬間移動できる能力でも持っているのだろうか。
弓道部の女子を見て宮田が感想を言う。
「お、雲川だ。相変わらずクールビューティーだな」
「クールビューティーって、いつの時代だよ」
雲川潤さんは同じ学年の弓道部員の女子だ。去年の県大会で団体戦のメンバーに選ばれ、全国大会出場は逃したものの、かなりいいところまで行ったらしい。
長身で細身、確かに美人だ。腰まで届きそうな長髪は、運動をするときは頭の後ろで団子にしているようだ。
走り込みをしている剣道部を見ると、日向さんが先頭を走っている。
一瞬、日向さんがこちらを見たような気がする。いや、気のせいか。
「そういえば光夫、英語のとき、隣の女子が走ってんの見てたろ」
「ん、ああ、白蕗さんか。頑張って走ってたな」
「お、分かってるな、光夫。運動が苦手なのに全然諦めない、ああいうの、いいよな」
「運動が苦手でも、頑張っている姿は感動を生むよな」
なんか、宮田とはこんな話ばかりしているような気がする。
宮田とくだらない話をしつつ駅に向かい、途中のコンビニでアイスを買った。やたら歯ごたえのある、当たり付きのアイスだ。
宮田はなにを生き急いでいるのかという勢いでアイスをかじり、アイスの芯棒を見て頬を緩めた。
「お、当たりだ」
俺のアイスはハズレだった。
☆
そうして月曜日が終わり、火曜日、水曜日も特に何事もなく終わり――
木曜日、修学旅行の日が来た。
バスに揺られ、最初にやって来たのは、都内にある電波塔である。
「今どき、中学生でも修学旅行にこんな電波塔に来ないだろ」
宮田は文句を言っているが、近くに来て見上げると、その大きさには何回見ても驚かされる。
エレベーターに乗り、展望台へと上がる。
平日の昼過ぎなのでそれほど混んではいないが、他校の生徒も来ているようで、それなりの賑わいはある。
宮田は展望台に来ても、やはりつまらなそうだ。せっかくだから、この景色を楽しめばいいのに。
日向さんが興奮した様子で景色を眺めている。
白蕗さんが近づいていって、何か話しかけているようだ。
そして、その様子を、少し離れたところから雲川さんが見つめている。
日向茜さん、白蕗空さん、そして雲川潤さんか。
まあ、俺みたいな普通の高校生とは一生縁のなさそうな高嶺の花が揃っている感じではあるよな。
その時である――
突然、外の景色が真っ白になった。
真っ白になったというか、光に包まれて何も見えなくなったような感じだ。
『召喚の門に告ぐ、強き勇者をここへ召喚したまえ』
誰かの声が聞こえたような気がした。
そして、俺は、俺達は――