二月五日(水)2: 外乱を全て排除するもの
弓道着に着替えた雲川さんが射場に現れた。
認めたくはないが、弓道着姿の雲川さんは美しい。まさにクールビューティーだ。いつもの練習では腰まで届きそうな長髪を後頭部で団子にしているが、今回は髪を下ろしたままである。宮田の口から「ほお」という感嘆が漏れているのが聞こえた。
雲川さんは、行射の準備をしながら白蕗さんに聞く。
「それで、何射くらいすればいいのかしら?」
「一射で十分でございます」
雲川さんのほうから「ピキッ」と音が聞こえたような気がした。
目を見開いて白蕗さんを睨みつける雲川さんから「たった一射で何が分かるのか」という怒りのオーラが伝わってくるようだ。もしかして白蕗さんの能力もこんな感じに視えるのだろうか。
「行射を見るのはいいけど、真後ろには立たないように、あと会話とか物音は控えるように」
「はい。承知いたしました」
ああ、白蕗さんのにこやかな笑顔も、何かを企んでいるようにしか見えない。いや、もちろん何かを企んでいるんだろうけども。
雲川さんが射場に立ち、行射を始める。足踏みをし、胴造りをし、弓構えだ。雲川さんの体がぼうっと光を発すると、日向さんがかすかに息を呑む気配があった。これで日向さんにも、雲川さんに能力があることが分かったはずだ。
でも、雲川さん本人に能力があることを自覚してもらわないことには話が進まないわけで、どうするんだろう、と思ったその瞬間、射場に大きな物音が響き渡った。びっくりして物音のほうを見ると、白蕗さんが道具入れを倒して、中身が床にぶちまけられていた。
その白蕗さんは、雲川さんのほうを凝視している。慌てて雲川さんを見ると、今まさに、あらぬ方向に矢が放たれているところだった。
雲川さんは丁寧に残心まで済ませ、一呼吸おいて、わなわなと肩を震わせたあと、振り返って烈火のごとく怒りを身にまとって白蕗さんに詰め寄った。
「ちょっとあなた、なんて物音を立てているのよ」
「すばらしい」
「ちょっと、話を聞いているの?」
「なんてすばらしい」
雲川さんと白蕗さんの会話が聞こえてくるが、俺はその結果から目が離せない。
あらぬ方向に放たれた矢は、まるでそんなことはなかったかのように、さも当然かのように、的の中心に中っている。
隣に立っている日向さんの口から「嘘でしょ」という言葉が漏れる。信じられないものを見たような表情をしているが、たぶん俺も同じような表情をしているのだろう。宮田も目を見開いて固まっている。
「えっ」
雲川さんが俺達の様子に気づき、そして的のほうを見て、動きを止めた。
誰もが動きを止めた射場を、冷たい風が吹き抜ける。最初に我に返ったのは雲川さんだった。さすが明鏡止水である。
「ちょっとあなた、これはどういうことなの?」
雲川さんは再び白蕗さんに詰め寄る。
「はい。どういうことも何も、そういうことでございます」
うん、まあ、その、白蕗さんの答えが答えになっていないことがあるのは、俺もそろそろ慣れてきたけど、どういうことなのか俺も知りたい。
雲川さんは目を白黒させながら、手に持った弓、的中した矢、白蕗さんの顔に視線を彷徨わせている。
「それではもう一度、行射をお願いできますか。今度は先程のようにわざと大きな音を出すような失礼はいたしませんので」
「え、ええ、分かったわ」
ああ、やっぱりさっきのはわざとだったんだ。白蕗さんがうっかり失敗するなんてイメージがまるでないわけだが。わざと大きな音を出したと聞いて雲川さんが怒りを爆発させるのではないかと一瞬思ったが、そんなことはなかった。
「それで、今度の行射では、弓構えのあと、隣の的に向かって矢を放っていただきたいのですが」
「そんなこと、できるわけが、いえ、分かったわ、やってみるわ」
その結果であるが、弓構えしたときの的に的中していた。自分の目で見ていたにも関わらず信じられない。ちょっと気持ち悪い。
矢というものは、まっすぐに飛ぶわけではない。地球には重力があるからだ。では放物線を描いて飛ぶのかというと、そうでもない。空気抵抗があるからだ。バドミントンのシャトルほど極端ではないが、最後にはストンと落ちる。
雲川さんが隣の的に向けて射た矢は、地球の重力に引かれるばかりではなく、隣の的に向かって弧を描き、そして当たり前のように中心に突き刺さった。地球の重力って、気まぐれに横方向にも働いたりするんだっけか?
「雲川さんの能力は、簡単に申し上げますと、矢を必ず的中させるというものです」
えっと、何ですって?
雲川さんも事態が飲み込めていないようで、口をパクパクさせるばかりだ。
「弓道の『中る』ってのは然るべくして中るってことだな」
弓道歴数年の初心者、宮田の解説が突然始まった。
「弓道では、狙って『当てる』のではなく、然るべくして『中る』と教えていてな。心が正しく、体が正しく、技が正しければ、矢は必然的に中るってことらしいんだよ。逆に言えば、的を外すのは、雑念があったり、姿勢が悪かったり、技が未熟ってことだろうな」
えっと、これは宮田の解釈だから、とりあえず話半分に聞いておくにしても、何となくそれっぽい感じはする。
白蕗さんが、宮田の解説を引き継ぐように話す。
「そして雲川さんの能力は、それらの外乱を全て排除するものなのです」
なるほど、するとつまり、どうやっても矢は必然的に中るわけですね。
いや、いやいや、いやいやいやいや、そんな無茶苦茶な能力って、そりゃ無茶苦茶すぎでしょ。
雑念をなかったことにしたり、姿勢の乱れをなかったことにしたり、というところまでは理解できるけど、弓を放つ方向が間違っているのまでなかったことにするのは、いくら何でもおかしい。
「それ、とんでもない能力なのでは」
「はい。物理法則や因果関係を無視するわけですから、これはもうすばらしいとしか言いようがありませんね」
金魚のように口をパクパクさせていた雲川さんが我に返る。
「ちょっと待って、私の能力って、私が何かしているとでも言うの?」
そりゃそうだよね。自分にこんな不思議な能力があって、それによって百発百中で皆中してたとは思いたくないよね。
ちょっと俺の中の意地悪な部分が「不思議な力を使って矢をコントロールするなんて、とても卑怯だと思うわ。恥ずかしくないの?」とか言いそうになるが、なんだかひどい展開になりそうなので自重する。
白蕗さんが俺のほうをちらりと見て、小さな溜息をもらした。
あっ、もしかして俺、自重できてなかったのだろうか。うっかり本心を口に出してしまって、ひどい展開になってしまったのだろうか。そして時間を巻き戻して、自重した気になっているだけなのだろうか。
宮田を見ると、やれやれといった感じで横に首を振っている。やはり俺は失言してしまったようだ。
そもそも、雲川さんに卑怯だと言われたのは、俺が認識する二周目のことだ。今の雲川さんも俺のことを卑怯者だと思っているとは思うが、俺に向かって卑怯者だと言ったことはない。責めるようなことを言うのは筋違いだ。
「雲川さんには、ご自分の能力について納得行くまで確認していただきましょう」
白蕗さんの言葉により、そういうことになった。




