二月三日(月)1: あれは失敗だった
二月三日(月)――
不意に落下するような感覚にとらわれ、体がぴくりと反応した。
「うお」
小さく発した俺の声に、周りの生徒は気づかなかったようで、教壇の英語教師の声に耳を傾けている。
一瞬、寝落ちしたのだろうか。あまりに現実的な落下感で、鼓動が少し早くなっている。
シャープペンシルを持つ自分の右手を見つめる。もしこの右手の骨が粉々に砕けたら、さぞかし痛いことだろう。しかし、今この右手には何も異常はない。左手でさすってみるが、やはり何も異常はない。
腰の辺りに触れてみる。こちらも特に異常はない。
「ふおあ」
後ろの席から、溜息が聞こえる。宮田だ。また深夜アニメで夜更しでもしたのか。
いや、違う、違うぞ。だんだん思い出してきた。
徐々に記憶が戻り、背中を汗が伝う。何か、とてつもなく辛い思いをしたような気がする。いや、気がするのではなく確信に近いが、それが何なのかは思い出せない。
「宮田くん、修学旅行が近いからって、気を抜きすぎです」
野村先生が宮田に注意し、教室に笑いが起こる。
どうやら、戻ってきたようだ。戻ってきたようだが、何だろうこの違和感は。
窓の外に目線を移す。隣のB組の生徒がグラウンドで体育をやっている。
鬼よりももっと恐ろしい安藤先生が、相変わらずの半袖シャツと短パンで、ホイッスルを吹き鳴らして生徒を鼓舞している。
安藤先生が立っているのは校舎に面した400メートルトラックのスタート位置だ。スタート位置は校舎に近いこちら側にあるとはいえ、それなりに距離はある。にも関わらず、窓を閉めて授業をしている教室にまで声が聞こえるというのは、安藤先生の声はいささか大きすぎだ。
「寒いと思っているから寒いんだ、気合を入れて走れば、これくらい、どうということは、ない」
いつの時代の精神論だよ。安藤先生が昭和時代からタイムスリップしてきたアンドロイドではないかという噂があるが、俺もその説に賛成票を入れたい。
B組の生徒が凍えるようにスタート位置付近に移動する。
「いいか、1600メートルだから、たったの四周だ。気合い入れて行け。走り終わったら、教室に、戻っていいからな」
安藤先生みたいにスポーツをやっていれば400メートルトラック四周くらい朝飯前なんだろうけど、普通の人にとって1600メートル走なんて無限の距離だっての。自分の常識が誰にでも通じるとは思わないでほしいものだ。
B組の生徒が走り始める。陸上部らしき生徒はハイペースで飛び出していくが、大多数の生徒は寒さに震えながらノロノロと走っているようだ。そして、その集団からもさらに取り残された女子が一人いる。白蕗空さんだ。
白蕗さんの足取りは覚束ない。100メートルも行かないうちにふらふらしている。このぶんだと400メートルトラックを一周する前に周回遅れにされるだろう。いや、半周で周回遅れになるかも知れない。いくら運動苦手キャラとはいえ、こんな体力でどうやって日常生活を送ってきたのだろうか。
白蕗さんはふらふらしながらも何とか一周走って、こちら側のスタート位置に戻ってきた。そして、しばらく休んで、背筋を伸ばし、祈りでも捧げるように胸の前で手を合わせた。白蕗さんの体がぼんやりと光る。表情はよく見えない。
白蕗さんが何かに気づいたようにこちらを見て、「ごきげんよう」という感じで会釈してきた。
そして、白蕗さんは、再び走り始める。白蕗さんは一周ごとに能力で体力を回復しつつ、トラック四周を走り切った。
何だろう、何度も見たいつもの光景なのに、何か違和感がある。
☆
12時40分、昼休みになった。宮田が声をかけてくる。
「光夫、おはよう」
宮田は何日も徹夜したみたいな顔をしている。ちょ、大丈夫か?
いつもなら宮田に「おはよう」と言われて「おはよう」と返すところだが、俺はちょっと別のことを試してみることにする。
「こんにちは」
宮田が少しくらいは驚いてくれるかと思ってドヤ顔の準備をしていたのだが、宮田は無表情だ。とはいえ、宮田からは徹夜したような疲労感がちゃんと抜けているようだ。どうやら成功したっぽい。俺の能力、体内時計のリセットは、「おはよう」と言えば体内時計が朝にセットされ、「こんにちは」と言えば体内時計が昼にセットされる能力のようだ。
廊下を見ると、A組の雲川潤さんが生徒ホールのほうに歩いて行くのが見える。宮田の言うとおり、雲川さんはこのタイミングでC組の前を通り、俺が能力を使っているところを目撃しているようだ。
それはそうと、宮田の反応が薄いな。「何でこんにちはなんだよ」とか言ってくれるだろうと期待していたのに。
「この時間に体内時計を朝にしちゃうと、夜眠れなくなるんだろ」
「ああ」
せっかくの俺のナイスアイデアに対して、宮田はまるで無関心なようだ。ちぇっ。
俺の能力の確認はいいとして、今後どうするか作戦を練らないと。
あのドアに関しては、腰にロープを結んでその瞬間を迎えたところまでしか俺の記憶はない。結果を含めて宮田に確認しよう。この時間の繰り返しを抜け出すためのヒントが得られていればいいのだが。
このあと宮田が購買に焼きそばパンを買いに行き、その間に日向さんが無自覚に能力を使って弁当を温めるイベントが発生する。日向さんの能力が炎属性かどうかはともかく、弁当を温める能力を持っているのは確かだ。
この時間の繰り返しを抜け出すために、日向さんの協力は必要だろうか。弁当を温める能力で、あのドアをどうにかすることができたりするだろうか。剣道三段だから木刀であのドアを破壊することができるかも。いや、俺は金槌を持って行ったがその結果を知らない。少しでも傷が付けられたならいいのだが。
いや、日向さんに協力してもらう以前に、女子は巻き込まないほうがいいような気がする。
巻き込む?
うっ、何だろう、巻き込むという言葉を考えると、偏頭痛のようなものを感じる。
ともあれ、日向さんにあまり関わらないように、目を合わせないようにしよう。
教室の時計をちらりと見た宮田が無言で立ち上がった。購買に焼きそばパンを買いに行く時刻だ。俺は宮田に声をかける。
「43分20秒だったな」
しかし宮田の返事はない。何となく機嫌が悪いようにも見える。
宮田が教室を出て行く。宮田の背中が小さく見える。いつもの覇気がない。いや、いつもは覇気があったかと言われれば、そんなものはなかった気もするが。
気にしてもしょうがない。俺は自分の弁当を取り出す。俺の弁当は、おかずとご飯が別々になっており、真空層によって外気温から隔離することによって保温されていて湯気が立つほど温かい。保温弁当箱とかランチジャーなどと呼ばれるものだ。今日のおかずは、ソーセージに卵焼き、ブロッコリー、ポテトサラダ、ミニトマトだ。見なくても知ってる。
保温弁当箱の蓋を開けると、湯気が立つ。おそらく日向さんは俺の弁当が温かいのを見て羨ましいと思い、無意識に能力を使って自分の弁当を温めてしまうはず。俺がその時に日向さんと目を合わせなければ明日の昼休みに屋上に呼び出されることはないはずだ。
その時、教室に悲鳴が上がった。
「きゃあっ」
見ると、日向さんが立ち上がっている。日向さんと一緒に食事をしようとしていたほかの女子たちも立ち上がっている。その顔は一様に怯えているように見える。
ランチョンマットの上の日向さんの弁当から盛大に湯気が立っている。いや、日向さんの弁当だけではない。ほかの女子たちの弁当からも湯気が立っている。自分の弁当だけでなくほかの女子たちの弁当まで温めてしまうとは、ちょっと日向さん張り切りすぎじゃないですかね。
いや待て、日向さんはこの時点ではまだ自分の能力を自覚していない。ということは、意図的にほかの女子たちの弁当まで温めたわけではないはずだ。じゃあ、何でこんなことが起こってるんだ?
などと考えていたら、日向さんと目が合ってしまった。いつもと違うことが起こって、俺のほうも我を失っていたようだ。
いつもと違う?
何だろう、英語の授業中と同じ違和感がある。
それにしても、困ったな。
日向さんを巻き込む必要もないし、日向さんと目を合わせないようにと思っていたから、日向さんが弁当箱を開けるところを見ていなかった。つまり、日向さんが能力を使うところを見ていなかった。
日向さんが意図してではなく無自覚にやったとして、日向さんの弁当だけでなく、ほかの女子たちの弁当まで温まってしまった原因は何だろう?
- 日向さんが無意識にほかの女子たちの弁当も温かいほうがいいと思った
- 日向さんの能力が向上して全員の弁当を温めてしまった
- ほかの女子たちも弁当を温める能力に目覚めた
- 気のせい
うん、気のせいだな、気のせい。って、何でだよ。
今気づいたが、この物語の構造的な欠陥は、俺が脳内でいろいろとボケたりしても、誰もツッコミを入れてくれないってことだな。自分でボケて自分でツッコミを入れるしかない。俺の思考に対して誰かがツッコミを入れてくれればいいんだが、そんな都合のいいツッコミ役が存在するわけがない。
俺が脳内で妄想している間に、教室がざわつき始めた。
前回と同じく「平常心」と言って日向さんを落ち着かせるのがいいだろうか。そうすれば、明日の昼休みにはまた日向さんに屋上に呼び出されて、俺の能力を見て目を真ん丸にする日向さんが見れるかも知れない。ただし、それだと日向さんを巻き込むことになる。うっ、頭が痛い。
逆に、この場で日向さんを放っておいたらどうなるんだろう。やっぱり明日の昼休みに屋上に呼び出されて「見たよね」と問い詰められるんだろうか。そして「何も見てないし、誰にも話さない」と約束させられるんだろうか。あのときの日向さんは怖かったな。ほんと怖かったな。何であんなに怖い感じになったのか知りたい気もする。このまま放置してみようか。
しかし、狼狽して少し涙目になっている現在の日向さんを見て、やっぱり気の毒になった。この場は何とかしたほうがいいだろう。
俺は立ち上がり、日向さんたちのいるほうへ歩いて行く。
「平常心」
ちょっと大きめの声でそう言うと、日向さんはビクッとして、急に落ち着きを取り戻した。そして、ほかの女子たちに「落ち着いて。火傷はない?」と確認している。ほかの女子たちも落ち着きを取り戻したようだ。
やっぱり、日向さんに「平常心」という言葉は効果覿面だな。平常心を失ってお父さんに怒られることを極度に恐れているわけだから、呪縛に近いのかも知れないけども。
さて、日向さんが平常心を取り戻したことだし、俺の役目もここまでだ。前回は日向さんの弁当に入っていた天ぷらのせいにしたが、今回は女子四人の弁当が温まってしまったから、天ぷら火災は無理がある。いや、元々無理があったけど。
「よく分からないけど、先生を呼んだほうがいいと思う」
とりあえず、先生に丸投げだ。名付けて先生に丸投げ大作戦だ。やはりツッコミ役がほしい。
「日向さん、火傷してない?」
「大丈夫みたい」
「念のため、水で冷やして、保健室で診てもらったほうがいい」
「うん」
「それにしても、剣道で鍛えてるだけあって、こんなときでも平常心を失わないとは、さすが日向さんだね」
そう、あなたは平常心を失っていない。あなたは平常心を失っていない。
あなたは、平常心を、失って、いな〜い。
そのあと、先生が何人か来て原因について議論を始めた。結論が出ることもないだろうが、あとは先生に丸投げ大作戦だ。
ようやく俺が席に戻ると、宮田が俺の前の席に後ろ向きに座り、感情のこもらない目を俺に向けてきた。そして、何も言わずに大きく息を吸うと、これ見よがしに溜息をついた。
「いや、すまん」
何を謝っているのか分からないが、つい謝ってしまった。
宮田はサンドイッチを包んでいるラップを外して、サンドイッチをグイグイと口に押し込んでコーヒー牛乳で流し込む。
サンドイッチ?
よく見ると、宮田の手元にはラップに包まれた焼きそばパンがあり、宮田はそれとは別のハムエッグサンドイッチを食べている。
「何でサンドイッチ食べてんだ?」
「そんな日もある」
宮田の返事はぶっきらぼうだ。いや、そんな日もあるって、同じ時間を繰り返しているのに、そんな日があってもいいんだろうか。そもそも、宮田が今までに買わなかったサンドイッチを買うと、本来サンドイッチを買うはずだった生徒がサンドイッチを買えず、影響が連鎖して大変なことになるんじゃないのか。
まあいい、そんなことにこだわっていると昼休みが終わってしまう。その前に、前回あのドアがどうだったのかを宮田に確認しないと。
「ところで、前回あのドアのところで、どういう結果になったんだ?」
「前回?」
沈黙が流れる。
おい宮田、お前が記憶を持ち越すのが頼みの綱なんだから、しっかりしてくれよ。
「腰にロープを巻いて、あのドアの様子を見ただろ。そのあとどうなったんだ?」
サンドイッチを食べ終え、焼きそばパンのラップを外していた宮田の手が止まる。心なしか宮田の顔が青ざめているように見える。宮田の手が小刻みに震え、焼きそばパンに指が食い込んでいる。おい、そういう丁寧な恐怖演出は勘弁してくれよ。不安になるだろ。
「あれは失敗だった」
「どう失敗したんだ?」
宮田は答えず、ラップを外した焼きそばパンをグイグイと口に押し込んでいる。答える気がないのか、答えたくないのか。
時間の繰り返しが起こる原因は俺の能力っぽいわけだが、俺はそのときに記憶も巻き戻ってしまう。前の周の記憶を持ち越せる宮田がいないと、いわゆるタイムリープが成立しない。宮田がそのときの話を振れば、宮田の能力によって俺の記憶も蘇るはずだが、宮田は焼きそばパンをもぐもぐするばかりで何も言おうとしない。
「そんなにひどい失敗だったのか?」
宮田の動きが止まり、宮田が目を逸らした。
結局、宮田から前回の結果を聞けないまま昼休みが終わってしまった。




