エミリエールの朝は早い。
日の出前、まだ地平線も明るくならぬうちから、エミリエールは封魔国シクスィードのメインストリートを歩いている。
この封魔国シクスィードは、六本の巨木を城壁で結んだ正六角形の領土を持つ国である。封魔国に任じられた由来や、何を封じているのかは一般国民には知らされていない。
封魔殿で巫女として働くエミリエールも詳しくは知らないし、日々を生きていくだけのお金を稼ぐためには知る必要もなかった。
つまり、結構適当だった。
封魔殿は、封魔国シクスィードの中央の丘の上、王城の隣に建てられている。エミリエールは封魔殿に続く坂道を徒歩で上っているところだ。メインストリート沿いに建ち並ぶ高級住居も、まだ目を覚ます気配はない。見上げれば満点の星々が、夜明け前の輝き納めとばかりに瞬いている。
なんて平和で、いつもと変わらない日なんだろう。この国の王と護衛軍が隣国の救助要請を受けて出払っているが、日銭を稼いで生きられればいいエミリエールには特に関係のないことだった。
つまり、結構適当だった。
ふと、エミリエールは遠くからかすかな地鳴りが聴こえたような気がして足を止めた。
城壁の内側を見渡してみたものの、星明かりと街灯に照らされた街は薄闇に包まれており、いつもと変わらぬ風景が広がるばかりだ。
この国を囲う城壁の高さは今いる丘とほぼ同じ高さであり、城壁の外側を見渡すことはできない。城壁の外側を、暴力を携えた数千匹の魔物が息を潜めて迫ってきていることなど、エミリエールには知る由もなかった。
そして、今度また遅刻したら給料を下げると言われていたことを思い出して、エミリエールは道を急いだ。
封魔殿に着き、巫女姿に着替えたエミリエールは、いつもの開店作業を始めた。
ほかの巫女や女官も出勤してきて、各自がそれぞれの開店作業を進めていく。床掃除よし、テーブル清掃よし、紙ナプキンの補充よし。
封魔国の要衝であるこの封魔殿は、どういった理由なのかは分からないが、平常時にはレストランを営んでいる。売り文句は「本物の巫女に会える店」であり、コアな客層に受け入れられている。
イリスティーナ姫も出勤してきて、いよいよ開店を待つばかりとなったころ、明白な地響きが伝わってきた。
バックヤードのモニタールームから転がるように出てきた女官が血相を変えて報告する。
「大変です、魔物、たくさんの魔物が、外壁の門をぶち破ってこっちに向かってます」
エミリエールは「女官ともあろう者が、ぶち破ってという言葉遣いは何事ですか」と指導すべき立場であったが、その口をついて出た言葉は「嘘でしょ、まずいじゃん」だった。
イリスティーナがモニタールームに入りメインスクリーンを確認すると、身長6メートルを超える狗頭の巨人が外壁の門をぶち破り、その足元から小型の獣人がわらわらと壁内に入ってくるところだった。
狗頭の巨人が10体、小型の獣人は100匹や200匹どころではない数のようだ。四足獣も何頭かいる。コンピューターによる推定総数を見ると、千匹を超えると表示され、しかもその数値はどんどん増えていく。
この国の外壁には電磁バリアや退魔レーザー砲塔などの恐ろしげな装置が多数設置されていたはずだが、すでに外壁の門が破られているということは、おそらく何の役にも立たなかったと思われる。強化セラミック製の城壁に設置されたチタニウム製の城門は電磁バリアで守られており、触れるものは魔物であれ人間であれ瞬時に消し炭になるはずだが、そんな城門がなぜこうも簡単に破られたのかを調査する時間はなさそうだ。
イリスティーナは「ああ、こりゃあかんかな」という言葉を飲み込み、手を叩いて注意を促す。
「はい、みなさん、落ち着いて聖堂に移動しますよ」
イリスティーナは自分自身の動揺を押し隠しながらそう言うと、聖堂に向かった。有事にはシェルターとしての機能も持つ聖堂であるが、この聖堂にこそこの国が封魔国である理由すなわち「封印」があり、ここが喪失することはこの封魔国の存在意義が喪失することと同義である。
巫女と女官が全員聖堂に避難したことを確認し、イリスティーナはドア横にあるガラスで覆われたスイッチに右拳を叩きつけた。ガラスが粉々になってスイッチが押され、聖堂の入口の巨大な木扉が音を立てながら閉じていく。封魔殿の窓という窓にシャッターが降り、警報音が鳴り響く。これでこの封魔殿は完全防御モードに移行したはずだ。
「痛ってぇ」
イリスティーナは叩きつけた右拳をさすりつつ、ひとまずは安堵した。そしてガラスカバーを持ち上げてからスイッチを押せば、こんなに痛い思いをする必要はないことに気づいて激怒した。誰だよこれ設計したの。
ともあれ封魔殿が完全防御モードに入ったことで、イリスティーナにできることはもうなくなった。あとは防御機構がどれだけ魔物の攻撃に耐えてくれるかだ。とはいえ完全防御モードは「完全に防御に徹しますよ」という意味でしかなく、外壁の門がぶち破られている現状では非常に心許ないのだが。魔物襲撃の一報は王に自動送信されているはずで、王と護衛軍が帰還するまでは持ってくれると信じたい。
イリスティーナが聖堂内のモニターを操作して魔物の様子を確認すると、状況は芳しくないようだった。防御機構の退魔レーザー砲塔が魔物にダメージを与えているようではあるが、何匹かの魔物を焼き殺したところで、その圧倒的な物量に押されて、次々と破壊されてしまっている。
情報画面を見ると、王の帰還予想時刻が今から4時間半後と表示されている。イリスティーナはいったん目をそらしてから再び情報画面を見たが、表示は変わらなかった。
イリスティーナの背後から、エミリエールが蒼白な顔で声をかける。
「イリスティーナ姫、私の家の、両親は無事でしょうか」
イリスティーナはモニターの表示を中級住居街に切り替えた。エミリエールの住居は南地区だったっけ。
モニターには市街地とそこに住む人々が魔物の手によって破壊されていく様子が映し出された。あっ。イリスティーナはすぐに別カメラに切り替えたが、どのカメラも凄惨な場面を捉えるばかりだった。
イリスティーナは見るに耐えかねてモニターの表示を他愛のない風景映像に切り替えた。振り返ってエミリエールを見ると、事態を察したようだった。
封魔国は、封魔を目的として作られた国である。魔物を封印し、その封印を守ることが最優先である。
封印の破壊を目論む魔物の攻撃によって人命が喪われることも、もともと想定されている。嫌なら住むな。
この200年ほどは魔物の襲撃もなかったとはいえ、何でこんな土地に住んでしまったかなぁ。ここに引越してきたご先祖様は、そのあたりの説明をちゃんと聞いたのかなぁ。
イリスティーナがそんなことを考えていると、聖堂の扉に何かとてつもなく重いものがぶつかるような衝撃が伝わってきた。
「えっ、もう来たの?」
イリスティーナがモニターを聖堂の外観映像に切り替えると、身長8メートルほどの狗頭の巨人が、今まさに助走をつけて自らの身体を聖堂の扉に叩きつけようとしているところだった。
直後、閉ざされた扉から轟音が響き、聖堂全体に振動が伝わって、天井から細かな埃が落ちてきた。
封魔の要であるこの聖堂がなぜ木造なのか分からないが、これはもうあと何分も持たないかも知れない。
さらに轟音が響き渡り、聖堂が軋みを上げる。怖い。マジ怖い。
「イリスティーナ姫、もう扉が持ちません」
エミリエールの悲鳴のような声を、イリスティーナは蒼白な顔で聞いていた。
なぜ、今なのか。なぜ、私のシフトのときなのか。思考を巡らせても、答えにはたどり着かない。
いや、自分のシフトのときじゃなかったとしても、自分が城下町で魔物にすり潰されただけの話なので、どちらにしても絶望しかないのだが。
聖堂の分厚い木製の扉が、破城槌などの知恵の産物ではなく、魔物の体当たりという暴力によって、今まさに破られようとしている。人間相手なら絶対に破られっこなさそうな頑丈な扉ではあるが、身長8メートルの巨人の体当たりを防げるほどの性能は有していないようだった。
いや、扉が破壊されるか、この聖堂自体が破壊されるか、どちらが先かは分からない。いっそ聖堂ごと押しつぶされてしまったほうが、怖い思いをしなくてもすむだろうか。痛かったり苦しかったりしないだろうか。
数人の女官が扉を押さえているが、これから起こるであろう破壊に対し、人間が支えることがどれだけ効果を発するかは甚だ疑問である。
それにしても、よりによって王とその護衛軍が隣国からの救援要請による遠征で不在のこの時を狙ったかのように魔物が襲ってくるとは。
そもそも、封魔国は封魔を最優先としているのに、何で隣国からの救援要請でのこのこ出かけちゃうかな。隣国なんて滅びさせておけばいいじゃん。自分の国が滅びちゃったら何にもならないじゃん。
いや、この人口1万2千人のこの封魔国が滅びようとも、封印だけは守らなければならない。封印が喪われることは、この国だけでなく、人類全体の滅亡につながるおそれがあるからだ。
でもなあ、自分が死んじゃったら、そのあと人類がどうなろうと、たぶん気にしないと思うのよね。というかむしろ、みんな滅びちゃったほうがすっきりしないかな。
そこまで考えたところで、さすがのイリスティーナも不穏な考えを振り払った。
イリスティーナは意を決した。ここはヒロインらしいところを見せておかねばならぬ。
「この国を滅ぼさせるわけにはいきません。最後の手段を用います」
エミリエールの体がびくりと震える。
「しかし、あれは」
エミリエールが何かを言いかけるが、もはやそれ以外の手段が残されていないことは明白であった。
というか、最後の手段を使うなら、もっと早く使ってくれてれば、私の両親も死なずに済んだのではないかという考えが脳裏をよぎった。いや、まだ両親が死んだとは限らない。きっと生きてる。でも、最後の手段を使ったところでこの事態が打破できるかどうかも分からない。エミリエールの心の中の希望と絶望の戦いは、絶望が優勢に進みつつあった。
イリスティーナは首飾りにしていた古びた鍵を懐から取り出し、聖堂の奥にある禁呪の部屋の扉を解錠する。
扉を押し開けると、淀んだ空気が禍々しい気配とともに流れ出てきた。
空気が流れ出てくるということは、禁呪の部屋の空気圧のほうが高かったということであろうか。だとすると扉を押し開けるのにもけっこうな力が必要なわけだが、これは禍々しい演出のひとつということで読み流していただきたい。
『できることなら、これは使いたくないものだな。これは諸刃の剣だ』
王の言葉が思い出される。しかし、その王はここから4時間半の距離にいる。なんて使えない王なのか。
そもそもこの古びた鍵を持たせた時点で、王はこの禁呪に関する責任を完全にイリスティーナに丸投げしてしまっているということだ。こんなものは王が自ら管理し、王はどこにも出かけないでずっと引きこもっていればいいんだ。
王への恨みの言葉を飲み込んで、イリスティーナは禁呪の部屋へと踏み入れた。
禁呪の部屋の床には魔法陣が描かれている。直径数メートルもある、高度な魔法陣である。魔法陣というものは「世界の理」へのアクセス手段であり、イリスティーナの知識に照らし合わせても、ただの召喚魔法がこれほど複雑な魔法陣を必要とするとは思えなかった。
果たしてこの魔法陣は、この国の救いとなるのか、それとも――
『できることなら、これは使いたくないものだな。これは諸刃の剣だ』
王の言葉が再び脳裏に蘇る。王はほかに何と言っていただろうか。
『100年前、これのせいで人口の9割が喪われる災禍が起こった――しかし、いざとなれば使わねばならぬときが――』
王は何かいろいろと話していたと思うが、正直言ってよく聞いてなかった。とにかく不吉な感じのことを言っていたような気がする。
イリスティーナは不吉な予感を振り払うように、左右に首を振った。悩んでいる時間はもはや残されていない。たぶん、いざとなったら使えというようなことを言っていたような気がするから、今こそ使ってもいいはずだ。
「出でよ、召喚門」
イリスティーナが両手を掲げて魔力を込めると、魔法陣がぼんやりと光を発し、唐突にそれが現れた。
その門は、魔法陣から1メートルほど上に、何の支えもなく浮かんでいた。
門というよりは、アーチ型の門扉だけが空中に浮いている。門扉は閉ざされており、材質は石のようにも鉄のようにも見える。表面には何の装飾もない、ただの一枚板だ。把手もなく、門扉なのかどうかも疑わしい。
門扉の最上部に女性の胸像が設えられており、その女性がアーチに沿って両腕を広げている。腕は門扉と一体化しており、手首から先は判然としない。
門扉には継ぎ目はなく、女性の胸像も一体化しているため、これが本当に門扉だったとして、開くときにどうなるのか想像もつかない。
ただ、召喚門と呼ばれるものだから、門なのだろう。
イリスティーナは強烈な既視感に襲われた。この光景は前にも見たことがある気がする。そして、過呼吸に陥りそうなほど辛い気持ちになる。治療していない親不知まで痛み始めた。
いや、そんなことを考えている場合ではない。この状況を打破できる存在、そう、たとえば、ものすごく強い勇者とか召喚してくれると助かる。マジ助かる。
「召喚の門に告ぐ、強き勇者をここへ召喚したまえ」
魔法陣がまばゆい光を放ち、イリスティーナが、召喚門が、禁呪の部屋が、そして聖堂が、白い光に包まれた。
「汝の依頼、しかと了解した」
やがて白い光が徐々に収まっていく。
眩しさに目を閉じていたイリスティーナが恐る恐る目を開けると、そこには先程と同じように魔法陣と召喚門があるだけだった。
イリスティーナの求めた強き勇者は、そこにはいなかった。
「えっ、どういうことなの」
どこかから声が聞こえる。
「召喚魔法は成功した。ただし召喚は成功しておらぬ」
イリスティーナが「なんじゃそりゃ」と叫ぶよりも前に、聖堂の扉が破壊される轟音が鳴り響いた。
こうして、イリスティーナは死に、この国は滅びたのだった――