二月六日(木): 失礼なことを考えてごめんなさい
二月六日(木)――
修学旅行の朝である。俺にとっては三周目の修学旅行だ。
いつもより早く起き、いつもより早く朝食を済ませ、いつもの制服に着替えて、準備しておいた旅行鞄を持って高校に向かう。
旅行鞄の中には、四日分の衣服と下着、寝間着、学校ジャージ、洗面用具、タオル、雨具のほか、金槌とロープが入っている。
金槌は家の工具箱の中にあった。ロープは父に聞いたところ、キャンプで使ったロープがあった。キャンプブームのときにいろいろ買い揃えたものの、一回か二回くらい使って荷物置きで眠っていた。なんてありがちな話なんだ。うちの父が普通の人でよかった。
校門には6時半に着いた。我ながら、ちょっと張り切りすぎな気もする。
いつもは7時に開けられる校門だが、今日は修学旅行のバスを校庭に入れるため、早めに開けるようだ。
安藤先生が校門を開けていると、バスが校門前に到着し始めた。全部で五台だ。早く中に入れないと、校門前の道路がバスで埋まってしまう。
校門が開いたので、校庭に向かう。一番乗りというわけでもなく、何人かの生徒も一緒だ。
校庭にバスが入ってきて、順に並んでいく。
改めて見ると、40人の生徒を乗せるバスは、かなり巨大だ。これを破壊するのは無理がある。それに、今までバスというものをあまりじっくり見たことがなかったが、車体も窓もピカピカに磨かれている。おそらくバス会社の人たちが愛情を込めて綺麗にしているのだろう。こんなものを壊すなんてとんでもない。
バスが整列する様子を眺める。バスガイドが誘導して、切り返してバックで所定の位置についていく。最初のバスガイドはホイッスルを鳴らしていて、安藤先生っぽいと思ってしまった。二台目のバスガイドは、ホイッスルを使わずに声で「オーライ、オーライ」と言ってバスを誘導している。ホイッスルを忘れてきちゃったのだろうか。
三台目のバスガイドは、ホイッスルで誘導していた。どうやらホイッスルを忘れたのは、二台目のバスガイドだけらしい。
と思ったら、四台目のバスガイドも声でバスを誘導している。どういうことだ。ホイッスルを忘れるようなうっかりさんが二人もいるというのか。
そして、五台目のバスガイドがホイッスルでバスを誘導しているのを見て、俺は自分の勘違いを悟った。
そうか、なるほど、全員がホイッスルを鳴らしていたら、音が混ざってしまって誰がホイッスルを鳴らしているのか分からない。それで、奇数号車はホイッスル、偶数号車は声で誘導しているのだろう。ホイッスルを忘れちゃったなどと失礼なことを考えてごめんなさい。
いや、早起きは三文の徳というが、たまには早起きしてみるものだ。勉強になった。この教訓を今後に活かしたい。
7時を回る頃には、校庭にはバスが五台並んだ。何人かの先生が運転手やバスガイドと話している。
7時半になり、点呼によって生徒が揃っていることが確認され、生徒はクラスごとにバスに乗り込んだ。
さあ、修学旅行の始まりだ。
☆
バスに揺られ、都内にある電波塔に来た。正式名称は日本電波塔。高さ333メートルの鉄骨構造の電波塔である。
「今どき、中学生でも修学旅行にこんな忌々しい電波塔に来ないだろ」
宮田が電波塔に向かって怨嗟の声を上げている。だから、忌々しいはやめろ。
電波塔を見上げる。待っていろ、忌々しいドアめ。
☆
フットタウン一階からエレベーターに乗り、地上150メートルのメインデッキへと上がる。以前は大展望台と呼ばれていた場所だ。
平日の昼過ぎなので、それほど混んではいないが、他校の生徒も来ている。あっちにいるのは、宮田が言うには悟暁高校の生徒だ。
日向茜さんが興奮した様子で景色を眺めている。
白蕗空さんが近づいていって、何か話しかけている。
そして、その様子を、少し離れたところから雲川潤さんが見つめている。
さて、のんびりしている時間はない。
宮田とともに、大展望台一階の目的の場所に向かう。カフェと女子トイレの間、下りエレベーター乗り場の前である。
下りエレベーターの前、あのドアがあるべきところには、まだ何もなかった。この世のものとも思えないあのドアは、これから現れるのだろう。この世のものじゃなさそうだし、床から生えてこようが天井から生えてこようが驚かない。あのドアが最初からここにあるなら、今のうちに金槌で叩いて壊せるかどうか調べられたのだが。いや、あんな怪しげなドアが最初からここにあったら、誰かが気付いてとっくに大騒ぎになっているに違いない。
カフェの少し先、下りエレベーターが見えるあたりで、宮田と二人で並んで窓に張り付く。旅行鞄からロープを取り出し、手すりを通してから、それぞれの端を腰に巻き付けて結んだ。目立たないように制服のブレザーで隠す。
ここまでは事前に宮田に説明したとおり進んだ。ロープの長さも調整してある。あとはその時を待つだけだ。それまで、警備員に「君たち何をやっとるのかね」と聞かれないことを祈る。金槌を持ってお互いをロープで結んだ高校生が何をやっているのか、どう説明すればいいのか分からないからだ。
俺と宮田は窓を背にして、エレベーターのほうを見る。
すぐ近くに、スカイウォークウィンドウという、床の一部がガラスになっていて145メートル真下の様子が見える窓があり、悟暁高校の生徒がその上に立って写真を撮ったりしている。この中に、宮田が喧嘩をふっかけたりナンパしたりした生徒がいるのだろうか。景色を見もせずにエレベーターを見ている俺達に気づいて不審げな表情をする生徒もいるが、気にしないことにする。
もしかすると、この生徒達が最初にあのドアに巻き込まれるのかも知れない。
これで準備はほぼ整った。あとひとつ、残るは記憶の固定だけだ。俺は宮田に声をかける。
「宮田、そろそろ頼む」
「ああ。光夫、覚えておいてくれ」
しばらくして、それは現れた。
あのドアがいつもある場所の、床から2メートルくらい上だ。何か光るものが現れ、それが次第に大きくなっていく。そして大きくなるとともに、光の量が増し、辺りは白い光に包まれ始めた。
最初に気づいたのは、スカイウォークウィンドウの上で写真を撮られていた女子生徒である。景色を背にしてエレベーターのほうを見ていたからいち早く気づいたのだろう。ただならぬ出来事に、悲鳴を上げる。そうか、いつも最初に聞いている叫び声は彼女か。
俺と宮田は光のほうに歩き始める。もう周囲の目は謎の光に向けられていて、俺達のほうを見る人もいないだろう。ロープを引きずりながら肩を並べて歩く男子高校生二人を、誰も咎めることはない。
俺は旅行鞄から金槌を取り出して握りしめた。金槌は用意したものの、今回はあのドアがどういうふうに人々を吸い込むのか見るのが主な目的なので、ロープは短めにしてある。もし余裕がありそうなら、宮田がうしろに下がれば、俺がその分前に行けるので、あのドアが誰かを巻き込む前にぶん殴ることができるかも知れない。
突然、あのドアが現れた。徐々に現れるとかではなく、動画を切り貼りしたかのようにいきなり現れた。
『召喚の門に告ぐ、強き勇者をここへ召喚したまえ』
どこかから声が聞こえた。女性の声だ。召喚の門だと?
その声に呼応するかのごとく、両開きのドアがゆっくりと開き始める。いや、ドアじゃなくて、門なのか。
急激に体が引き寄せられる。
ドア、もとい、門のほうに引き寄せられる。空気が吸い込まれているのではなく、まるで門のあるほうに落ちるような感じだ。
ロープが腰に食い込む。ロープを腰に結びつけてぶら下げられているようなものだから当然か。胴が千切れることはないだろうが、かなり痛い。よく考えれば、大の大人が吸い込まれているのだ。それくらいの吸引力は予想しておくべきだった。
俺と宮田は、とにかく引きずり込まれないように、ロープを掴んで踏みとどまる。周りを見ると、耐え切れずに門の中に吸い込まれつつある人がいた。
「ぎゃああ、痛い、痛い、痛い」
門に腕を吸い込まれた男子生徒が、悲鳴を上げている。その顔は苦痛に歪んでいる。
何が起こっているんだ。
次々と人々が門に吸い込まれていく。悲鳴や絶叫が続く。地獄かこれは。
その瞬間、背後から体当たりを食らった。いや、体当たりではない。カフェのほうから飛んできた男性が、俺の背後からぶつかってきたのだ。
そりゃそうか、このフロアにいた人々がみんな吸い込まれていなくなってしまうのだから、カフェにいた人達も飛んでくるよな。
ロープが猛烈に腰に食い込んだと思った瞬間に、ぶつっという音とともにロープが切れた。
そして、宮田と俺も門のほうに真っ逆さまに落ちていく。
せめて一撃でも。俺は右手に持った金槌で門を殴ろうとして、その右手が門の中に吸い込まれた。
激痛。
右手が、右腕が、ミキサーに掛けられたように粉々になっていく。
何だこれ、何だこれ、痛い。痛い。死ぬ。死ぬ。死んでしまう。
腕を引き抜こうとするが、何か強い力で引き込まれるように、肘が、そして肩が巻き込まれていく。
死ぬ。死ぬ。痛い。痛い。頭が。
そして、俺は、俺達は――




