不意に落下するような感覚にとらわれ、体がぴくりと反応した。
「うお」
小さく発した俺の声に、周りの生徒は気づかなかったようだ。
一瞬、寝落ちしたのだろうか。ひどい夢を見たような気もするが、思い出せない。
今は英語の授業中で、俺は教師が板書した英文をノートに書き写しているところだ。
俺の名前は小林光夫、どこにでもいる普通の高校生だ。
学力体力ともに普通の高校二年生。両親は健在で、兄弟姉妹はいないし、幼馴染もいない。
うん、どこにでもいる普通の高校生だ。
「ふおあ」
後ろの席から、気の抜けた溜息が聞こえる。宮田だ。また深夜アニメで夜更しでもしたのだろうか。
「宮田くん、修学旅行が近いからって、気を抜きすぎです」
英語教師が宮田に注意し、教室に笑いが起こる。
修学旅行の三日前ともなれば、誰だって気が緩むってもんだ。
宮田は高校に入ってからの友達で、何かとつるんでる仲だ。
男同士でつるんでいるってことは、つまり、要するに、お互いに彼女はいないってことだ。
宮田は背も高くて顔も悪くない。黙っていれば女子にモテそうなのだが、言動がチャラすぎるせいか、女子受けはよくないようだ。
特に何の特徴もない俺が言うことでもないけどな。
ふと窓の外を見ると、隣のクラスの生徒がグラウンドで体育をやっているところだった。
二月だというのに外で体育、しかもグラウンドを走らせるとか、うちの学校の体育教師は鬼か。
これで修学旅行前に風邪でもひかされた日には、一生恨まれるぞ。
☆
授業が終わり、昼休みになった。宮田が声をかけてくる。
「光夫、おはよう」
「おはよう。って、おはようじゃねーよ、もう昼だ」
相変わらずマイペースなやつだ。
「おっと、焼きそばパンの救助に向かわねば」
「早く行ってこいよ」
いつものことではあるが、俺の昼食は母の作ってくれた弁当で、宮田の昼食は購買で買ってくるパンだ。
いつもの宮田なら、焼きそばパンを確保するため、昼休みになった瞬間に教室を飛び出していくのだが、今日はうっかりしていたようだ。
宮田が教室を出て行ったのを見届け、俺は自分の弁当を取り出す。おかずとご飯が別々になっており、保温されていて湯気が立つほど温かい。
宮田は俺の弁当を見て「なんかおっさんっぽい」などと言うのだが、やはり温かい弁当は何物にも代えがたい。
生徒が昼食をとる場所は様々だ。今の時期に校庭や屋上に行く生徒はあまりいない。主に使われるのは教室や生徒ホールだ。生徒ホールには食堂もあるし、購買もある。
教室では、女子のグループが机を動かして向かい合わせに並べて、そこに各自の弁当を広げていた。
わざわざ机をくっつけなくても、近くの席に集まって食べれば会話くらいできると思うのだが、きっと机をくっつけるという行為にも何か意味があるのだろう。
俺が弁当の準備を終えたころ、宮田が戦利品の焼きそばパンとコーヒー牛乳を持って戻ってきた。
「危うく最後のひとつだったぜ」
宮田は俺の前の席に後ろ向きに座り、焼きそばパンを頬張る。
いつも思うのだが、よく焼きそばパンだけで足りるものだ。
「お、うまそうな卵焼き。くれ」
宮田はそう言うと、俺の弁当から卵焼きをひとつ手掴みして、そのまま口に放り込んだ。
くれと言いつつ、否応なしだ。まあ、いつものことではあるが。
☆
ホームルームで担任教師から三日後の修学旅行に浮かれて怪我や病気のないように注意され、教室の清掃を済ませて、放課となった。
当たり前のように、宮田が声をかけてくる。
「光夫、アイス買って帰ろうぜ」
「この寒いのにアイスかよ」
「寒いからこそアイスを食うんだろ」
相変わらずマイペースなやつだ。
校舎を出てグラウンド横の道を通り、校門に向かう。
グラウンドでは、運動部が活動を始めている。修学旅行目前なのに、二年の姿もある。
野球部やサッカー部はユニフォームで走っているが、剣道部や弓道部は道着でグラウンドを走っている。
俺と宮田も、教室の清掃を終わらせてけっこう早く出てきたつもりだったが、運動部の連中はすでに着替えて走っている。瞬間移動できる能力でも持っているのだろうか。
弓道部の女子を見て宮田が感想を言う。
「お、弓道部の雲川だ。相変わらずクールビューティーだな」
「クールビューティーって、いつの時代だよ」
雲川潤さんは同じ学年の弓道部員の女子だ。去年の県大会で団体戦のメンバーに選ばれ、全国大会出場は逃したものの、かなりいいところまで行ったらしい。
クールビューティーってのはさておき、長身で細身、確かに美人だ。腰まで届きそうな長髪は、運動をするときは頭の後ろで団子にしているようだ。
俺はあまり運動に興味はないが、同じクラスに剣道部で活躍している女子がいることくらいは知っている。
走り込みをしている剣道部を見ると、先頭を走っていた。同じクラスの日向茜さんだ。小学校のころから剣道をやっていて、試合では身長の低さという不利を全く感じさせないらしい。
本人に身長の低さを言ってはいけないらしいが。
「そういえば光夫、英語のとき、隣の女子が走ってんの見てたろ」
宮田に声をかけられ、意味を理解するのに時間がかかった。
英語の授業のとき、隣のクラスが体育をしているのは見たが、特に女子を見ていたわけではない。
「白蕗っていいよな。学年トップの成績だけど、運動が全然駄目でさ」
「運動が駄目なのは別によくはないだろ」
「いや、分かってないな、光夫。運動が苦手なのに全然諦めない、ああいうのがいいんだよ」
そういえば、400メートルトラックを一周もせずにふらふらになって、ほかの生徒に周回遅れにされていた女子がいたな。
確かに、運動が苦手でも、頑張っている姿は感動を生むよな。
あれが噂に聞く白蕗空さんか。科学部で何か研究して文部科学省から表彰された天才女子とかいう噂は聞いた気がするが、運動が苦手とは知らなかった。
っていうか、宮田の頭の中は女子のことしかないのか。
宮田とくだらない話をしつつ駅に向かい、途中のコンビニでアイスを買った。やたら歯ごたえのある、当たり付きのアイスだ。
宮田はなにを生き急いでいるのかという勢いでアイスをかじり、アイスの芯棒を見て表情を曇らせた。
「なかなか当たんねーな」
「そういうもんだろ」
俺のアイスもハズレだった。
☆
そうして月曜日が終わり、火曜日、水曜日も特に何事もなく終わり――
木曜日、修学旅行の日が来た。
バスに揺られ、最初にやって来たのは、都内にある電波塔である。
「今どき、中学生でも修学旅行にこんな電波塔に来ないだろ」
宮田は文句を言っているが、近くに来て見上げると、その大きさに驚かされる。
エレベーターに乗り、展望台へと上がる。
平日の昼過ぎなのでそれほど混んではいないが、他校の生徒も来ているようで、それなりの賑わいはある。
宮田も地上では不満そうだったが、展望台まで来て眼前に広がる景色に圧倒されたようで、それなりに楽しんでいるようだ。
同じクラスの日向茜さんが興奮した様子で景色を眺めていた。
その時である――
突然、外の景色が真っ白になった。
真っ白になったというか、光に包まれて何も見えなくなったような感じだ。
『召喚の門に告ぐ、強き勇者をここへ召喚したまえ』
誰かの声が聞こえたような気がした。
そして、俺は、俺達は――