二月三日(月): 始めるのに遅すぎるということはない
二月三日(月)――
不意に落下するような感覚にとらわれ、体がぴくりと反応した。
「うお」
小さく発した俺の声に、周りの生徒は気づかなかったようで、教壇の英語教師の声に耳を傾けている。
一瞬、寝落ちしたのだろうか。あまりに現実的な落下感で、鼓動が少し早くなっている。
シャープペンシルを持つ自分の右手を見つめる。もしこの右手の骨が粉々に砕けたら、さぞかし痛いことだろう。しかし、今この右手には何も異常はない。
「ふおあ」
後ろの席から、溜息が聞こえる。宮田だ。また深夜アニメで夜更しでもしたのか。
いや、違う、違うぞ。だんだん思い出してきた。
「宮田くん、修学旅行が近いからって、気を抜きすぎです」
野村先生が宮田に注意し、教室に笑いが起こる。
どうやら、戻ってきたようだ。
窓の外に目線を移す。隣のB組の生徒がグラウンドで体育をやっている。
鬼よりももっと恐ろしい安藤先生が、相変わらずの半袖シャツと短パンで、ホイッスルを吹き鳴らして生徒を鼓舞している。
白蕗空さんがふらふらと走っている。そして、しばらく休んで、背筋を伸ばし、祈りでも捧げるように胸の前で手を合わせた。
白蕗さんの体がぼんやりと光る。
距離があって表情はよく見えないが、白蕗さんがこちらを見て、「ごきげんよう」という感じで会釈してきた。
そして、白蕗さんは、元気に走り始める。
☆
12時40分、昼休みになった。宮田が声をかけてくる。
「光夫、おはよう」
「おはよう」
さて、どうするか。作戦を練らないと。
「まず、俺は焼きそばパンの保護に行かなきゃな」
「43分だっけ?」
「43分20秒だ」
「細かいな」
それより、このあとすぐに、日向茜さんが不思議な力を――いや、もう不思議な力という呼びかたをすることもないか――能力を使うところを俺は見てしまうわけだが。
明日、日向さんに屋上に呼び出されないようにする方法はいくつかあると思う。ただ、そこを変えてしまってもいいのだろうか。前回はひどすぎたから、前々回と同じ結果にしておいたほうがいいような気もするのだが。
「なるべく変化させないほうがいいと思うか?」
「さあ。光夫に任せるよ。そろそろ時間だ」
お任せかよ。
宮田が教室を出て行ったのを見届け、俺は自分の弁当を取り出す。俺の弁当は、おかずとご飯が別々になっており、真空層によって外気温から隔離することによって保温されていて湯気が立つほど温かい。保温弁当箱とかランチジャーなどと呼ばれるものだ。
さて、ここで俺が保温弁当箱の蓋を開けると湯気が立ち、それを見た日向さんは羨ましいと思って、おそらく無意識に能力を使い、自分の弁当を温めてしまう。
つまり、俺が保温弁当箱の蓋を開けさえしなければ、日向さんは能力を使うこともなく、普通に女子グループの一員として今日の昼食会を楽しく終えることができるし、明日俺を屋上に呼び出す必要もなくなるわけだ。
俺は保温弁当箱の蓋を開けずに、手元に視線を落として、日向さんを視野の端ギリギリで捉えて様子を窺う。
女子四人のグループが、机二台を向かい合わせにくっつけて集まっている。
日向さんはパンダの描かれた可愛らしい小さなプラスチック製の弁当箱を取り出す。そして、ランチョンマットの上に置いて、蓋を開けた。
湯気は立たない。
やはり、剣道部の朝練習に出ている日向さんの弁当が、昼休みまでほかほかってことはないよな。
俺は一安心して、自分の弁当の蓋を開ける。湯気が立つ。見よ、保温弁当箱の性能を。
今日のおかずは、ソーセージに卵焼き、ブロッコリー、ポテトサラダ、ミニトマトだ。見なくても分かっているわけだが。
その時、教室に悲鳴が上がった。
「きゃあっ」
見ると、日向さんが立ち上がっている。いや、日向さんと一緒に食事をしようとしていたほかの女子たちも立ち上がっている。その顔は一様に怯えているように見える。
ランチョンマットの上の日向さんの弁当箱からは、盛大に湯気が立ち、それどころか、弁当箱も心なしか形が歪んでいるように見える。
日向さんはかなり狼狽しているようだ。無理もない。弁当をさあ食べようと思ったら盛大に湯気が立って変形して、驚かない人間がいたらむしろ会ってみたい。
その日向さんと目を合わせてはいけない。と思ったときにはもう遅かった。目が合ってしまった。
これって、また屋上ですかね。勘弁してくれませんかね。
っていうか、何で俺の能力は発揮されないんですかね。気に入らないことがあったら時間が巻き戻ってくれると助かるんですが。
教室がざわつき始めた。学校の昼休みに女子が悲鳴を上げるというイベントはそうそう起こらないだろうから無理もない。日向さんが弁当箱を温める能力を持っていると知っている俺はともかく、ほかの生徒には何が起こっているのか理解不能だろう。
普通の高校生としてクラスでもさほど目立つことをしてこなかった俺が、ここで急にクラス全員に「落ち着け」と言う展開を考える。ちょっとヒーローっぽくて格好いいかも。
狼狽して少し涙目になっている日向さんを見て、ちょっと気の毒になった。ヒーロー願望なんて置いといて、この場を何とかしよう。
俺は立ち上がり、日向さんたちのいるほうへ歩いて行く。
「平常心」
ちょっと大きめの声でそう言うと、日向さんはビクッとして、急に落ち着きを取り戻した。そして、ほかの女子たちに「落ち着いて。火傷はない?」と確認している。ほかの女子たちも落ち着きを取り戻したようだ。
さて、これで日向さんが平常心を失ってお父さんがお父さんがってことはなくなったはずだが、このあとどうしたらいいのやら。積極的に絡んでしまったから、このまま席に戻ってしまうのもあからさまに怪しい。
ちらりと日向さんの弁当箱に目をやると、間違いなく熱で形が歪んでしまっているようだ。これはびっくりするよな。日向さんは自分の能力を自覚していないんだもんな。しかもそれをクラスメートの前で披露してしまうとは。
つい絡んでしまったが、何とかこの場を収めないことには、最悪の場合、俺が何かしたのではないかと疑われかねない。
日向さんの弁当箱はポリプロピレン製の電子レンジ対応のものではなく、耐熱温度のやや低いポリスチレン製だったのだろうか。いや、そんなことは今考えることじゃない。日向さんだって、電子レンジ対応かどうかを確認して無意識に能力を使ったわけではないだろう。
日向さんたちが昼食のためにくっつけた二台の机の上を見ると、グループの女子が飲もうとしていたペットボトル飲料が置いてある。そうだ、これだ。冬場の日差しは低い。ペットボトル、花瓶、金魚鉢などが日差しを収斂して、収斂火災を起こすことがある。日向さんの弁当が急に加熱して溶けたのは、そのせいだということにして場を収めよう。
しかし、日向さん達が集まっている席は、窓際ではなく廊下際だ。冬の日差しがそこまで届くとは思えない。そもそも、いくら冬でも昼時に太陽がそんなに低いわけもない。
日向さんの弁当のおかずを見る。海老の天ぷらが入っている。海老フライではなく海老の天ぷらだ。やはり父娘ともに剣道を極めようという家だから、洋食ではなく和食なのだろうか。いや、そんなことは今考えることじゃない。それに剣道家が海老フライを食べてはいけない法はない。
いや、天ぷら。天ぷらだと。そうだ、これだ。天ぷら屋などで、粗熱の取れていない大量の天かすを集めて放置しておくと、天かすに含まれる油が酸化し、その反応熱で温度が上がって、天かす火災を起こすことがある。日向さんの弁当が急に加熱して溶けたのは、そのせいだということにして場を収めよう。
「ああ、これは、天ぷらがちゃんと冷めてなくて、それで加熱しちゃったのかも知れないね。悪いけど、誰か先生を呼んできて。たぶん燃えたりはしないと思うけど」
って、そんなわけあるかい。
天かす火災というものがあるのは本当だが、海老の天ぷら一本で弁当箱が溶けてたら、日本中の弁当屋が大パニックだ。
とりあえず、彼女たちが疑念を抱く前に、話を逸らす。
「日向さん、火傷してない?」
「大丈夫みたい」
「念のため、水で冷やして、保健室で診てもらったほうがいい」
「うん」
あとは、念には念を入れて。
「それにしても、剣道で鍛えてるだけあって、こんなときでも平常心を失わないとは、さすが日向さんだね」
そう、あなたは平常心を失っていない。あなたは平常心を失っていない。
あなたは、平常心を、失って、いな〜い。
そのあと、先生が何人か来て、天かす火災ってことはないだろうとか、じゃあ原因はなんだと先生同士で議論になったりしたものの、とりあえずこの場は有耶無耶にすることができた。
ようやく俺が席に戻ると、宮田が俺の前の席に後ろ向きに座り、心底呆れたという表情をしていた。
「こんなに激しく変えるヤツがあるか」
「いや、すまん」
何を謝っているのか分からないが、つい謝ってしまった。
「まさか、弁当を開けるタイミングが違うだけで、こんなことになるとは」
「どんな小さなことでも、流れが大きく変わることがある」
宮田は焼きそばパンを包んでいるラップを外して、焼きそばパンをグイグイと口に押し込んでコーヒー牛乳で流し込む。
そういえば、焼きそばパンについて語ると話が長くなるんだっけ。おそらく、宮田が焼きそばパン以外のものを買うと、流れが大きく変わってしまうのだろう。
次は気をつけよう。何かを変えてしまうのは控えよう。
昼食を済ませてから宮田と作戦会議をしようと思っていたのだが、バタバタしてしまって昼休みには時間が取れなかった。
☆
ホームルームが終わり、教室の清掃が終わった。
「あれ?」
教室の清掃が終わったのに、宮田が声をかけてこない。
それどころか、宮田の姿が見当たらない。
もしや、昼休みの出来事が影響して、宮田の身に何かあったのだろうか。
胸騒ぎがする。しかも、なんだかとても残念な感じの胸騒ぎがする。
荷物を持って、校舎を出る。グラウンドでは、運動部が活動を始めている。弓道部の女子の先頭を走るのは雲川潤さんで、剣道部の先頭を走るのは日向茜さんだ。
雲川さんは相変わらずクールビューティーだな。
弓道場に来た。いつもの見学窓にも、宮田の姿はない。
走り込みを終えた弓道部員が練習を始める。今日の弓道部は、試合を想定して遠的の的前稽古だ。俺としては、もう雲川さんの百発百中を見ても、得るものはなさそうな気もするのだが。
射場では、四人の二年生が出てきて、順に行射していく。それが終わると、ブザーが鳴り、赤色灯が光って、一年生が矢取りに向かう。矢取りをしているときは決して矢を射てはいけない。なぜなら、矢が人間に当たると、矢のほうはともかく、人間のほうはとても痛いからだ。どれぐらい痛いかは個人差もあるが、矢が体を貫通しても平気という人はあまりいないだろう。
一年生が矢取りをするのは、野球部で言うところの球拾いみたいなものか。指導者によっては自分の矢は自分で取りに行くように指導していることもあるようだが、この学校では一年生が担当している。
一年生が矢取道を歩き、安土に向かう。小柄な女子と、大柄な男子だ。
的の上にある幕を押し上げて、的の前に腰を下ろし、右手で矢を引き抜く。羽根が地面についているときは、持ち上げてから引き抜けば羽根を傷めずに済む。抜いた矢は左脇に収める。
矢を抜き終えたら、安土の横の小部屋で、矢を1本ずつ布巾で拭く。先端部分、矢尻は特に汚れやすいので念入りに拭く。
矢取道を戻る時は、羽根を強く握って傷めないように気をつけ、壁にぶつけないように反対の脇に抱える。そしてなにより大切なのが、途中で転んでしまわないよう、細心の注意を払うことだ。矢は武器である。こんなものを持って転んではいけない。体を貫通しても平気というなら別だが。
射場に戻ったら、矢を矢立てにしまう。矢を丁寧に扱い、矢に敬意を払うことも、弓道の大切な教えだ。
というようなことを、今日は弓道の顧問が説明している。いつもはこんな説明はしていなかったのにな。なにしろ一年生もこの二月までほぼ一年練習をしてきたわけだし、今さら矢取りの説明をする必要はないはずだ。
小柄な女子のうしろにいる大柄な男子は、うしろを着いて行って動作を見ていただけのようだ。ということは、顧問が説明していたのは、この大柄な男子のためか。
大柄な男子?
って、こいつ、俺のよく知っている顔じゃないか。
おい宮田、こんなところでなにをしてるんだ。
☆
弓道部の練習が終わった。
しばらくして、弓道場から制服に着替えた宮田が出てきた。
宮田はいかにもいい汗をかいたスポーツマンのような爽やかな表情で言う。
「いやあ、スポーツって、やってみると意外に面白いんだな」
いや、お前は玉拾い、もとい、矢取りを見学してただけだろ。
「入部届けを出したらさ、どんなことでも始めるのに遅すぎるということはないとか言われてさ、顧問の先生、マジかっこいいわ」
いや、早すぎるとか遅すぎるとかいう問題じゃないだろ。
「二年の終わりから始めても、基礎だけで終わっちゃうかも知れないけど、ここで身に付けたことは将来必ず役に立つってよ」
いや、この時間の繰り返しを抜け出さないと、将来なんて来ないんだが。
というかこいつ、俺に「こんなに激しく変えるヤツがあるか」とか言っておいて、お前はなにをしてるんだ。
「おい宮田、まさか本気で千周するつもりじゃないだろうな」
浮かれていた宮田の体がビクッとして、動きが止まった。マジか。マジなのか。
この三日間を繰り返し、そのうち二日を練習に費やせば、千周するうちに、二千日、つまり五年半近い練習ができる。そうすれば、雲川さんほどではないにしろ、かなりの腕前にはなるだろう。
しかし、マジか。マジなのか。
『正直言って、俺はもうこの繰り返しに飽きてんだ。今回で終われるなら、ためらわずに終わらせる』
お前、この繰り返しには飽きたって言ってただろ。何で弓道をやる気満々になってんだよ。
いや、まあ、前回の火曜日、雲川さんに弓道部に誘われた宮田の浮かれっぷりを思い出すと、こんなことになりそうな気はしていたのだが。
ちょっと待て、宮田が雲川さんに誘われたの、前回の明日じゃん。
「宮田、言っておくけど、今回はお前、まだ雲川さんに弓道部に誘われてないぞ。誘われるのは明日火曜日だぞ」
「えっ」
宮田がぽかんとした顔をする。こいつ、自分が周回しすぎて、いろいろとネジが緩んでるな。
「うおお、しまった、確かにまだ俺のことを誘ってくれてねー」
「まだっていうか、お前が入部しちゃったから、明日も誘われないぞ」
宮田がこの世の終わりのような顔をした。いや、それくらい予想してなかったのかよ。
そもそも、今日の展開の変わりっぷりだと、明日もいろいろと大変なことになって、前回と同じ展開になるとは思えないけどな。
「そうだ、俺の能力を使って、雲川に俺を誘ったことを思い出させればいいんだ」
「んで、雲川さんも俺達の仲間に巻き込むのか?」
宮田がぽかんとした顔をする。そして頭を抱えて暴れ始めた。
「駄目だ、それは駄目だ、雲川を巻き込むわけにはいかない。うおお俺はどうすればいいんだ」
「バカじゃねーの」
っていうか、やっぱり宮田は雲川さんが好きで、仲良くなりたいくせに、巻き込みたくはないんだな。なんて面倒なやつだ。
もう宮田抜きで、俺だけでこの時間の繰り返しから抜け出したい。
しかし、宮田の能力によって記憶を固定してもらわないと、俺は今周の記憶を次周に持ち越せない。
ええい、なんてくそったれな設定なんだ。




