勇者ミッツォは俺を焼き尽くしてくれず、俺は無事に朝を迎えてしまった。心が重い。体も重い。ベッドから起き上がるのも面倒くさい。
二月四日(火)、今日の予定を確認しておこうか。
昇降口の下駄箱の前で日向茜さんに話しかけられ、昼休みに屋上に呼び出される。
昼休みに屋上に行くと、不思議な力を「見たよね」と問い詰められる。
前回の結果は、「何も見てないし、誰にも話さない」ということだった。
日向さんは自分が不思議な力を持っていることを、誰にも知られたくないのだろう。不思議な力を持っていることを知られたくない理由は分からない。そんな力を持っていることを知られれば奇異の目に晒されるだろうし、実は悪の組織との戦いに巻き込みたくないということかも知れない。ここは予想してもしょうがない。少なくとも、今日の昼休みに目撃者の俺に釘を差しておくことにすることだけが確定している。
俺としては、この時間の繰り返しを抜け出すという目的が最優先なので、日向さんが不思議な力を持っているかどうかなんて、できれば関わりたくないんだけど。
何とか日向さんを回避できないのかな。
宮田が言うには、同じことが繰り返されるわけではなく、少しずつ違っていくらしい。
同じ時間を繰り返していると認識している人間が、前回と全く同じ行動を取るのは難しいだろう。演劇の舞台だって、同じ内容で10回やったところで、完全に同じになるなんてことはありえないはずだ。
ならば、意図的にこれから起こることを変えることもできるはずだ。
それでは、日向さんを回避する作戦を考えようじゃないか。名付けて『日向さん回避作戦』だ。
まず思いつくのは、昇降口に行く時間をずらす作戦だ。ただしこの作戦は、日向さんと偶然ばったり出くわしたのではなく、日向さんが俺のことを待ち構えていた場合には失敗する。日向さんは俺を屋上に呼び出すという明確な目的を持っているわけだから、偶然ばったり出くわしたとは思えない。つまり、登校時間は日向さんが昇降口で待ち構えていると考えるべきだ。
では、日向さんが昇降口に来ることができない時間帯に昇降口に行く作戦はどうだろう。日向さんは剣道部の朝練習に行き、それから登校しているはずだ。剣道部の朝練習の時間帯に昇降口に行けば、日向さんを回避できる可能性がある。しかし、日向さんが剣道部の朝練習を休んででも俺を呼び出したいと思った場合、この作戦はやはり失敗する。
俺が敢えて学校に遅刻して行くというのはどうだろう。授業が始まってから昇降口に行けば、おそらく真面目な日向さんは授業を受けるために教室に移動したあとだろう。いや、これも、おそらく、だろうという希望にすぎない。楽観的な希望によって作戦を立てるなど、愚か者のすることだ。剣道部の朝練を休んででも俺に接触する可能性を考慮するなら、授業に遅刻することもいとわずに俺に接触する可能性も考慮すべきだ。
いっそ学校を休んでしまうか。いや、それは論外だ。同じ時間の繰り返しから抜け出すためには、少しでも情報を集めなければならない。
しょうがない、昇降口では、臨機応変に日向さんを回避しよう。名付けて『日向さん臨機応変に回避作戦』だ。
昇降口で日向さんを回避できなかった場合、どうすればいいだろうか。やはり作戦というものは最初の作戦が失敗したときのことも考えなければならない。次善策を考えないなど、愚か者のすることだ。
すでに呼び出しを食らったあとで、昼休みに屋上で日向さんと会うのを回避する作戦を考えてみよう。
たとえば、四限目の授業が終わった瞬間に先生に呼び出されて、残念ながらやむを得ず屋上には行けなかった、という状況を生み出せばいい。問題は、どうやって都合よく先生に呼び出されるかだ。都合よく先生が俺に頼み事を思いついて呼び出してくれる、などということはありえない。ならば、校舎のガラスを割りまくるという奇行に走って呼び出しをくらうのはどうだろう。それは日向さんに問い詰められるよりマシな結果になるだろうか。いやなるまい。
日向さんの呼び出しなんて無視してバックレてしまおうか。するとどうなるだろう。昼休みの間、寒い屋上で待ちぼうけを食らい、昼ご飯を食べそこねた日向さんは、俺のことを快く許してくれるだろうか。
駄目だ、これならおとなしく屋上に行って、「あなたは何も見ていない。誰にも何も話さない」とかいうスパイ映画みたいなことを言われるほうがマシだ。
では、俺が屋上に行く代わりに、誰か使いの者を屋上に送り込むのはどうだろう。いや、どうだろうって、頼むとしたら宮田くらいしかいないわけだが、宮田は断るだろう。宮田が引き受けてくれる理由が思いつかない。
宮田に一緒に屋上に行ってもらう作戦はどうだろう。って、保護者同伴かよ。女子一人に男子が徒党を組んで相対するなど、武士として恥ずかしい。武士じゃないけど。
駄目だ、思考がどんどん明後日の方向に行ってしまう。明後日といえば、もう修学旅行だ。あのドアを調べたいから、さっさと修学旅行になってくれると助かるんだが。
しょうがない、屋上では、臨機応変に日向さんに対応する作戦にしよう。名付けて『日向さん臨機応変に回避作戦』だ。
☆
そんなわけで、俺は今、学校の屋上に来ている。
あんなにぐだぐだと作戦を練ったのに、結局のところ前回と同じことを繰り返したほうがダメージが少ないという結論に達してしまったのだった。
さて、改めて状況を確認しておこう。二月四日火曜日。本日は快晴で、二月にしては暖かいが、風は冷たい。時刻は12時45分。12時40分から昼休みが始まり、昼休みが終わる13時15分までは、あと30分といったところだ。
「見たよね?」
日向さんが問いかけてくる。日向さんはどんな答えを期待しているのだろうか。二百文字以内で答えよ。
日向さんが「見たよね」と言っているのは、弁当箱のパンダの絵柄でもなく、スカートの中でもなく、不思議な力を使っているところを「見たよね」と言っていると思われる。では素直に「はい」と答えることを期待しているのか。だとすればその先はどういう話の展開になるだろう。逆に「いいえ」と答えた場合は、「あなたは何も見ていない。誰にも何も話さない」という結果に収束するのだろうか。
前回は考え事をしていたら日向さんが二回目の「見たよね」を言ったけど、同じことを繰り返すために敢えて考え事をしていると、意外に長く感じる。そろそろ言ってくれると助かるのだが。
「見たよね?」
日向さんは、さっきと同じ言葉を繰り返す。よっしゃ。俺は心の中でガッツポーズを取った。
次はどうするんだっけ。「えっと」と言いかけたら「ごまかさないで」って釘を刺されたんだったな。
いくら剣道三段で、相手の動きを読み、心を読み、フェイントを読み、隙を突いて打ち込む達人とはいえ、この先の未来を知っている俺には敵うまい。
「ふっふっふ」
「何がおかしいのよ」
しまった、何を笑ってんだ、俺。ごめんなさい、今のなしで、もう一回最初からお願いできますか。
って、駄目に決まってんじゃん。
どうする。どうする。もう元の会話の流れには戻れないだろうか。いっそのこと俺のほうから「俺は何も見ていない。誰にも何も話さない」って言ってみようか。それで納得してくれるだろうか。
っていうか、そもそも最初に俺のほうを見てたのは日向さんのほうだろ。俺が保温弁当箱を出して、湯気が立っているのを羨ましそうに見てたじゃん。
あれ、ちょっと待った。
「もしかして、俺の弁当が温かいのが、羨ましかった?」
「えっ」
日向さんが固まった。もしかして図星かな。寒い日が続くから、やっぱり温かい食べ物ってのは、何物にも代えがたいですよね。分かる。
日向さんは、俺の弁当が温かいのが羨ましいと思い、おそらく炎系と思われる不思議な力を使って弁当を温めたものの、俺に目撃されてしまって口封じする必要に迫られたんだろう。
体内時計をリセットしたりアイスの当たりを引いたりする俺が言えることじゃないけど、まさか弁当を温めるために不思議な力を使いますかね。不思議な力の無駄遣いってやつじゃないんですかね。
ともあれ、あの状況で不思議な力を使って俺に見られたのなんて、自業自得じゃん。何で俺が責められなきゃならないんだよ。
なんだか腹が立ってきたが、弁当箱を開けて慌てていた日向さんを思い出して、ちょっと笑えてきた。
「日向さん、弁当箱を開けたとき、ずいぶんと慌ててたよね」
日向さんは、顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。もしかして激怒しているのだろうか。なんか俺、とんでもない失敗をしてしまった気がする。うっかり煽るようなことを言ってしまったが、ここで爆裂魔法なんか使われて死んでしまった場合、時間の繰り返しによって俺は復活できるんだろうか。「バカじゃねーの」ってのは、俺が宮田にいつも言っている台詞だが、今は俺自身に言いたい。
俯いて肩を震わせていた日向さんが顔を上げる。爆裂魔法って、全身にめっちゃ力を入れたり歯を食いしばっていれば耐えられたりするだろうか。思わず身構えてしまう。
しかし、何の攻撃もないようだ。日向さんの顔を見ると、予想外の表情がそこにあった。
涙目である。
そして、日向さんが突然取り乱し、半泣き状態で懇願し始めた。
「お願い、誰にも言わないで。お父さんに怒られちゃう。ああっ、お父さんに怒られちゃう」
ええ、なにこれ。
この子、前回はめっちゃ怖いと思ったし、だから散々悩んで綿密な計画を練ってこの場に臨んだのに、思ってたのと性格が全然違ってんじゃん。
っていうか、この状況はまずい。理由はどうあれ、屋上で女子と二人きりで、しかも女子がパニックで泣いている。むしろ状況としては悪くなっちゃったんじゃないのこれ。誰かが屋上に来たら、俺が悪人にしか見えないじゃん。普通の高校生じゃなくて、普通に悪人じゃん。
「いや、落ち着いて、誰にも言わないから落ち着いて」
とりあえず、日向さんを落ち着けさせるところから始めよう。落ち着けってのは、半分は俺自身に言っていることでもあるが。
結局、日向さんが落ち着くまでに、5分以上かかった。
「落ち着いた?」
「うん。ごめんね。取り乱しちゃって」
いや、まあ、謝るようなことではない気もするけど。
「うちのお父さん、ちょっと厳しいところがあって」
そういえば日向さんは小学生の頃から剣道をやっていて、去年の冬に三段に合格したんだっけ。剣道の昇段試験には受審条件があって、三段を取れる最年少は十六歳だ。つまり、高校一年で三段を取った日向さんは、最速で剣道を修めているとも言える。本人のやる気や努力はもちろんのこと、親の協力も不可欠だろう。
「あの、日向さんのお父さんって」
「うちのお父さん、警察官で、剣道七段なの」
ぐはっ。ちょっと設定を盛りすぎじゃないですかね。大丈夫ですかね。剣道七段って、最短でも34歳以上でなければ取れないんですけど。
日向さんのお父さんが30代半ばから40代くらいとして、この年代で剣道七段を持っているとか、大丈夫ですかね。
ちなみに、うちの父は学生の頃に授業で剣道をやっただけの普通の会社員だ。普通の高校生である俺の親に相応しい。いや、ああ、うん。
剣道の段位について、もう少し詳しく見ておこう。全日本剣道連盟『剣道・居合道・杖道 称号・段級位審査規則』の第17条に、段位を受審しようとする者は、次の条件を満たさなければならないとある。
1 初段 一級受有者で、満13歳以上の者
2 二段 初段受有後1年以上修業した者
3 三段 二段受有後2年以上修業した者
4 四段 三段受有後3年以上修業した者
5 五段 四段受有後4年以上修業した者
6 六段 五段受有後5年以上修業した者
7 七段 六段受有後6年以上修業した者
8 八段 七段受有後10年以上修業し、かつ、満46歳以上の者
九段と十段の審査は西暦2000年に廃止されたため、現在は八段が最高段位だ。受審条件も八段はかなり厳しくなっている。八段の審査は合格率が1パーセントを切り、司法試験よりも狭き門と言われる。女性が八段に合格した例はなく、七段に合格すればニュースになるくらいだ。剣道の世界は今でも男社会なのだ。
いや、剣道の話はおいておこう。現実逃避している場合じゃない。
「日向さん、弁当のことだけど」
「ごめんなさい。小林くんのお弁当が温かそうで、いいなって思ったら、私の弁当までなんだか温かくなっちゃって」
おや。もしかして、日向さんは自分が不思議な力を持っていることを自覚していないのだろうか。いや、俺も昨日まで自覚していなかったから他人のことをとやかく言える立場ではないのだが。
「じゃあ、弁当が温かくなって、びっくりしたんだ」
「まさかお弁当から湯気が出るくらい温かいと思わなくて、すぐに蓋をして、飲み物を買ってきたらその間に冷めるかと思って、でも、気づいたら小林くんがこっち見てるし、もしこれが噂になってお父さんに知られたら、剣士が平常心を乱すとは何事かって怒られて、跳躍素振り二時間やらされちゃう。お父さんが、お父さんが」
お願い、パニックにならないで。っていうか、どんなお父さんなんですか。どんなレベルの平常心を要求しているんですか。
しかし、困ったな。日向さんは自分の力を自覚していない。これは、どう対処すればいいんだろう。あなたは不思議な力を持っています、そしてその力で弁当を温めただけですよ、と教えればいいのだろうか。教えても大丈夫だろうか。
いや、あなたは不思議な力を持っていますなんて言われたら、それこそパニックだよな。俺も授業に全く集中できなかったし。今の日向さんの精神状態でそんなことを告げられたら、どうなるか分からない。
それに、不思議な力の話を信じてもらえたとして、日向さんの弁当を不思議な力で温めたのが俺なんじゃないかと疑われてしまったら、誤解を解く言い訳が思い浮かばない。
「大丈夫だから。俺は何も見てないし、誰にも言わないから」
ああ、結局このスパイ映画みたいな台詞を言ってしまった。本来は日向さんが言った台詞だが。
「お弁当が温かかったのは、誰かがほら、日向さんをびっくりさせようと思って、暖房器具の上に置いて温めるとかしたんじゃないかな」
こんな筋書きでどうでしょう。納得してくれるといいのだが。弁当箱をランチョンマットの上に出したときはまだ温かくなかったとか冷静に思い出さないでくれると助かる。
日向さんは納得しきれない表情だが、かといって不思議な力の存在に思い至ったりはしないようだ。しばらくして、コクリと頷いた。
「昼休みもだいぶ過ぎちゃったから、教室に戻らなきゃ。うわ、宮田のやつ怒ってるだろうな」
腕時計を見ると、もう13時を回っている。昼休みが終わるまで15分もない。
俺は日向さんを促して、一緒に教室に戻った。
☆
教室に戻ると、宮田はすでに焼きそばパンとコーヒー牛乳を確保済みで、俺の前の席の椅子に後ろ向きに座って待っていた。かなりご立腹の様子である。
「遅っせえよ、何してたんだ」
「いや、ちょっとな」
宮田がぐっと顔を寄せて小声で言う。
「ちょっとじゃねーよ。日向に何したんだよ」
「えっ」
日向さんを見ると、女子グループに囲まれて、「大丈夫?」と声をかけられている。
よく見たら、いや、よく見なくても、日向さんはさっきパニックになって泣いたため、目の下が赤くなっているし、髪もなんだか乱れている。悲壮感が漂っていると言ってもいいくらいだ。
「せめて教室に戻るタイミングずらせよ」
女子グループには、日向さんが昼休み半分過ぎまで姿を見せず、俺と二人揃って教室に戻ってきたと思ったら泣いていた、というふうに観察されていると思われる。
つまり、これは、俺が日向さんを泣かせたと思われるパターンでしょうか。いや、実際に泣かせたのは俺だけど。この状況を第三者が見たら、誰だって俺が日向さんを泣かせた極悪人だと思うだろう。
日向さんを囲んでいる女子グループを見ると、日向さんを心配しつつも俺のほうを睨んでくる。やっぱりそうなりますよね。
「おい光夫、何してんだ、早く飯食おうぜ」
いや、そんな冷静にご飯を食べてる状況じゃないんだが。
とはいえ、飯抜きで午後の授業を切り抜けられるとも思えない。俺は保温弁当箱を取り出す。おかずとご飯の蓋を開けると、湯気が立った。いつもなら食欲をそそるこの湯気だが、今日はとても疎ましく感じる。
「光夫の弁当って、便利なんだろうけど、おっさんっぽいよな」
「おっさん言うな」
返事をしてから、宮田がやけに冷静だと気づく。しかも、台詞もきっちりいつもどおりだ。
なるほど。同じ時間を繰り返している宮田にとっては、これくらいのことは大した問題ではないのかも知れない。いつもと同じ振る舞いをしていれば、周りの反応もいつもどおりになっていくはずだ。
宮田はいつものように焼きそばパンを口に押し込んで、いつものようにコーヒー牛乳で流し込んでいる。そうか、俺もいつものように弁当を食べればいいんだ。
それに、同じ時間を繰り返すんだから、最悪の場合はやり直せばいい。
「言っとくけど光夫、やり直しするつもりでわざと失敗するのなしな」
ぐほっ。いきなり見破られた。
「正直言って、俺はもうこの繰り返しに飽きてんだ。今回で終われるなら、ためらわずに終わらせる。光夫が女子を泣かせた悪人のまま終わってもな」
宮田の気持ちも分かる。三日間を千周だとして、もう八年も繰り返しの時間を生きているんだもんな。いや、気持ちも分かるってのは嘘だな。宮田の気持ちはほかの誰にも分からないだろう。
「んな顔すんな光夫、俺もこの周で終われると思ってるわけじゃない。ただ、気持ちだけはな」
☆
午後の授業とホームルームが終わった。あとは教室の清掃を終えて、弓道部の見学に行って帰るだけだ。
そんなわけがなかった。
教室の掃除の時間が始まるとともに、十数人の女子に呼び出され、教室の隅で取り囲まれた。
「小林くん、何で日向さんを泣かせてるのよ」
「謝りなさいよ」
「何をしたのか分かってるの?」
「自分の胸に聞いてみなさいよ」
うおおお、そりゃこうなりますよねえ。
そして、日向さんに謝罪させられ、謝ったら謝ったで本気で謝ってないと言われ、開放されたのは30分も経ってからである。日向さんが「そろそろ剣道部の練習に行くから」と言って終わらせてくれなければ、開放されるのはもっと遅かったに違いない。
そもそもあの女子たち、日向さんとは普段そんなに仲良くしていない女子まで混ざっていた気がする。そりゃそうか、こんな楽しげな正義執行イベントに参加しない手はないよな。誰が正しいとか誰が悪いとか関係なく、悪いと思う相手を問い詰めるだけでいいなら、こんなに楽しいことはないだろう。やられる側は堪ったもんじゃないが。
宮田は俺が捕まると同時に姿を消していた。巻き添えを食らいたくなかったのだろう。もう弓道部の見学に行っているのかも知れない。
それにしても、「自分の胸に聞いてみなさいよ」という台詞をリアルに聞けるとは思わなかった。
校舎を出て、グラウンド横の道を通って弓道場に向かう。
今日の弓道部は通常練習だ。一年生は射法八節とゴム弓を引く練習で、二年生は巻藁稽古だ。
弓道場から少し離れたところで見学している宮田を見つけた。近づいて声を掛けようと思ったところで、雲川潤さんが宮田に近づいていくのに気づいた。
なんだっけ。このあと雲川さんに話しかけられて、ものすごく腹が立ったような気がする。思わず俺は、雲川さんに見つからないように植え込みに姿を隠した。
「こんにちは。あなた、いつも練習を見ているわよね?」
「はい、俺達はいつも練習を見ています」
「もう一人の男子がいないのね」
「はい、今ちょっと所用で席を外しています」
どこの会社員だよ。
宮田は前回と同じく、雲川さんに集中するコツなどを聞いている。
「私の座右の銘が明鏡止水なんだけど、この言葉を心の中で唱えると、心が落ち着いて集中できる、かしら」
「なるほど、それがあたなにとっての魔法の言葉なんですね」
「魔法ならいいけどね。全て練習の成果よ。正しい射法、正しい心。あとは、それをちょっと支える言葉ね」
そうか、日向さんと同様に、雲川さんも自分の不思議な力を自覚していないということか。
それはそうと、雲川さんはどうして宮田に話しかけたんだっけ。このあとの展開がよく思い出せない。
雲川さんは辺りを見回した。誰かを探しているかのようだ。
宮田が雲川さんに問いかける。
「ところで、今日はどういった用向きでしょう?」
「えっと、特に用ということもないの。そうね、弓道に興味があるなら、今からでも入部してみる気はない?」
「はい、前向きに検討します」
だから、どこの会社員だよ。
雲川さんは弓道場のほうに去って行く。
宮田しかいないときは弓道部に誘われるのか。俺が一緒にいるときはどうなるんだっけ。
雲川さんの姿が弓道場に消えたのを確認してから宮田に声をかける。
「やっと開放されたよ」
「ああ、うん」
宮田はなんだか上の空だ。
☆
しばらく弓道部の練習を見たあと、宮田とともに帰路につく。
雲川さんの巻藁稽古も見たが、弓構えのときに体がぼんやりと光るといっても、そのあと巻藁に矢を射るだけなので、何か特別なことが起きているのかどうか、素人には分からない。矢の威力が数倍になって、巻藁を貫通して背後の畳に突き刺さるとかなら別だが。仮にそんなことが起こったとしても、巻藁が古くなって交換時期だと思われるくらいか。
というか、雲川さんの不思議な力は明鏡止水という心を落ち着けるものらしいということは分かっているし、これ以上見ていたところで得られるものは少ないような気がする。宮田はどう思っているんだろう。
「なあ宮田、弓道部の練習を見続けるのって、意味あるのかな」
しかし返事はない。宮田の顔を見ると、なんだかだらしなく緩んでいる。
「おい宮田、弓道部、どうするんだよ」
「えっ、ああ、入部してみようかな。雲川に誘われたんだぜ、俺」
駄目だこいつ。
「何言ってんだ、そういう意味じゃない。それに二年の終わりの今から始めたところで、弓道なんて巻藁三年とか言われてるんだぞ。基礎をやってるうちに卒業しちゃうだろ」
あっ、言っている途中で気づいた。宮田に限ってはそうではない。肉体的な鍛錬が周回しても引き継げるのかは分からないが、弓道が精神を鍛えるものならば、同じ時間を繰り返していれば上達するはずだ。できるはずだ。
「雲川と一緒なら、俺、あと千周くらいしてもいいかな」
駄目だこいつ。「今回で終われるなら、ためらわずに終わらせる」とか言ってたくせに、終わらせる気ねーじゃん。
っていうかこいつ、単に雲川さんが好きなだけなんじゃないのか。
宮田がポンコツになってしまったので、俺は今日のことを振り返る。
日向さんに問い詰められるイベントは、余計なことを考えすぎて、前回とまるで違う展開になってしまった。同じ時間を繰り返すというからコピペみたいな展開が続くかと思ったが、全然そんなことはなかった。
そして、日向さんに問い詰められるイベントが違う展開になったせいで、清掃のときに女子に正義執行されてしまい、そのせいでさらに弓道部の見学イベントも違う展開になってしまった。
何かひとつ変わるだけで、連鎖していろんなことが変わるのかも知れないな。
そういえば宮田が「焼きそばパンについて語ると話が長くなる」と言っていたが、宮田が焼きそばパン以外のものを食べると連鎖していろいろと面倒なことが起こるのだろうか。
それはさておき、前回のことを思い出す。
前回は雲川さんに何か言われたあと、コンビニに向かう途中で意を決して不思議な力を持った生徒がいるという話を宮田にした。
『この高校に、不思議な力を持った生徒がいるってことだよ』
『不思議な力を持った生徒がいるって、マジな顔でなに言ってんだよ』
思い出してみれば、赤面ものだな。俺自身が不思議な力を持っているのに、不思議な力を持った生徒がいるって真剣な顔で言ってるんだもんな。
『もしかして、昨日アイスの当たりを引いてくれって言ったの、俺に不思議な力があるとでも思ったのか?』
『いや、光夫、ハズレ引いたじゃん。不思議な力ってのがあるなら当たりを引いてたんじゃないのか?』
ふむ。宮田はたぶん、俺が不思議な力を自覚していないと知って、この話を切り上げることにしたんだろう。不思議な力を持っているくせに自覚していない人を相手にするのはしんどい。今日それを俺も思い知った。
しかし、何か引っかかる。確かに俺は前回の月曜日にハズレを引いた。自分に不思議な力があるとは思っていなかったし、それで能力を発揮せずにハズレたのだとしたら、何もおかしなことはない。だけど、何か引っかかる。
コンビニに着いた。店内に入り、やたら歯ごたえのある当たり付きのアイスを買う。
宮田はまだ顔が緩んだままだ。今日はもう回復しない気がする。
アイスを食べて、芯棒を確認する。ハズレだ。昨日当たりを引いてしまったから、1箱32本が売り切れて次に補充されるまでは当たりはないと思われる。
ハズレの芯棒を眺めつつ、前回の月曜日の宮田の台詞を思い出す。
『何でハズレを引くんだよ、信じらんねー』
俺だって好き好んでわざとハズレを選んだわけじゃないっつーの。
いや、ちょっと待て、ハズレを選んだ?
昨日の宮田の台詞を思い出す。
『光夫はやればできる子だと思ってたけど、当たりを選ぼうと思えば選べたんだな』
どういうことだろう。まさかとは思うが、俺はわざわざハズレを選んだということだろうか。
そんなことをする理由が分からない。
☆
家に帰り、自室のベッドに寝転がって、本日の反省会を開催する。
反省会といっても、コンビニに向かう道ですでに振り返りをしてしまった。本日の最大の失敗は、いろいろと違うことを試みすぎて収集がつかなくなってしまったことだな。
問題は、明日も今日の展開が尾を引くのかということだ。いや、どう考えても影響あるよな。なにしろ、女子剣道部で団体戦の主将を務める日向さんを泣かせてしまったんだから。明日にはクラスどころか学年中に噂が広がっていてもおかしくない。いや、学校中だろうか。
明日、学校に行くのは気が重い。宮田はこんなことを繰り返して、よく心が折れないもんだ。俺は二周目ですでに挫折しかかっている。
ともあれ、明日は部活動も基本的に休みだから、雲川さんと関わるイベントは発生しないだろう。日向さんに関して白い目で見られるのを耐えれば、何とかやり過ごせるはずだ。
あと、何か忘れていないだろうか。
そういえば、白蕗さんとどこかのタイミングで会って話をすると思うんだが、どうもはっきり思い出せない。二人だけで話したような気もするし、宮田が一緒だった気もする。
明日になれば分かるだろう。明日が分からないのは不安だが、普通は明日なんて分からないものだ。