不意に落下するような感覚にとらわれ、体がぴくりと反応した。
「うお」
小さく発した俺の声に、周りの生徒は気づかなかったようで、教壇の英語教師の声に耳を傾けている。
一瞬、寝落ちしたのだろうか。あまりに現実的な落下感で、鼓動が少し早くなっている。
シャープペンシルを持つ自分の右手を見つめる。もしこの右手の骨が粉々に砕けたら、さぞかし痛いことだろう。しかし、今この右手には何も異常はない。
「ふおあ」
後ろの席から、溜息が聞こえる。宮田だ。また深夜アニメで夜更しでもしたのか。
「宮田くん、修学旅行が近いからって、気を抜きすぎです」
野村先生が宮田に注意し、教室に笑いが起こる。
「逆に小林くん、あなたはそんな怖い顔で私の授業を受けなくていいのよ」
野村先生の言葉に、また教室に笑いが起こる。これって、前周にも言われたよな。
前周の記憶をなんとか手繰り寄せる。くそ、月曜日の俺はポンコツだから、記憶が曖昧だ。
前周の月曜日、科学部の部室に集まって報告会をやって、俺はさらにその前の周で召喚の門に対して能力を使いもせず、白蕗さんにポンコツ認定されたんだった。
翌日の火曜日、俺は自分の能力が複数の相手にも使えるということ、つまり範囲魔法として使えることに気づいた。ただし、クラス全員に対して能力を使うと、ものすごい疲労感に襲われ、数回連発すると倒れてしまう。
そして水曜日、宮田が能力をどういう風に使ったのかは分からないが、宮田は体がズタズタになるくらいのダメージを負って死にかけた。
そうだ、宮田は死にかけたんだ。白蕗さんの能力によって九死に一生を得て、それで病室で「覚えていてくれ」って言いやがったんだ。
俺の記憶はそこで途絶えていて、その先どうなったのかは今の俺には分からない。そして気づいたらこの教室にいた、というわけだな。
窓の外に目線を移す。隣のB組の生徒がグラウンドで体育をやっている。
鬼よりももっと恐ろしい安藤先生が、相変わらずの半袖シャツと短パンで、ホイッスルを吹き鳴らして生徒を鼓舞している。何だか安心する。
安藤先生が立っているのは校舎に面した四百メートルトラックのスタート位置だ。スタート位置は校舎に近いこちら側にある。
「寒いと思っているから寒いんだ、気合を入れて走れば、これくらい、どうということは、ない」
B組の生徒が凍えるようにスタート位置付近に移動する。その中には白蕗さんの姿もある。白蕗さんは走り始める前からすでにふらふらしているようだ。
白蕗さんは過去の周回の記録を持ち越しているペナルティーなのか、周回するたびにかなりの疲労感に襲われているはずだ。これは白蕗さんの能力では回復できず、俺の能力でなければ解消できない。
俺の能力は距離に関係ない。それを白蕗さんに教えてもらったのは、前周の月曜日だっただろうか、火曜日だっただろうか。
「こんにちは」
俺は誰にも聞こえないような小声で、グランドにいる白蕗さんに向かって呟いた。すると白蕗さんは何かに気づいたようにこちらを見て会釈してきた。
B組の生徒が走り始める。陸上部らしき生徒はハイペースで飛び出していくが、大多数の生徒は寒さに震えながらノロノロと走っている。そして、白蕗さんはその集団に遅れることもなく走っている。
えっと、白蕗さんは別に運動が苦手なキャラってわけじゃなかったんだな。
うちのクラスには運動が得意なキャラがいるわけだけど。
日向さんは運動が得意だとはいえ、記憶を持ち越すことによる疲労感は運動による疲労とは別物のはずだ。
「こんにちは」
俺は日向さんに向かって小声で呟いた。日向さんがぴくりと反応したので、効果はあったと思おう。
あとは俺の後ろの席の宮田と、昼休みになるとこのC組の前を通りかかる雲川さんだな。前周は雲川さんが教室に入ってきて俺に挨拶をするように言うもんだから、ちょっとした騒動になったんだった。今日は雲川さんの姿が見えた瞬間に「こんにちは」って言おう。そうすれば、雲川さんはこの教室に入ってくることなく通り過ぎるはずだ。
宮田もかなりキツい時差ボケのはずだが、後ろの席だと声を掛けづらいな。先生に叱られるかも知れないが、一瞬だけ振り返って「こんにちは」と言ってあげたほうがいいだろうか。昼休みまで回復しないのはキツいかも知れない。
俺は背後の宮田の席を一瞬だけ振り返って、何も言わずに前を向き直した。
心臓がドキドキする。宮田の席に、宮田にそっくりな老人が座っていた。宮田のお爺さんが変わりに授業に出ているのだろうか。いや、それなら野村先生が気づかないはずがない。
俺は再び振り返る。お爺さんではない。宮田だ。しかし、極度の疲労のためなのか、何十歳も老けて見える。なんなら今にも寿命を迎えそうだ。
「こ、こんにちは」
俺はそう呟いて、すぐに前を向き直した。俺の能力で何とかなるレベルだろうか。
しばらくして、背後から宮田の声が聞こえた。
「サンクス」
妙に真面目な英語の発音だったせいか、野村先生は聞き逃さなかったようだ。
「宮田くん、どうしましたか?」
「いえ、すみません、小林くんに消しゴムを借りました」
俺は振り返って、宮田に貸した消しゴムを受け取る風を装った。そして宮田の顔を確認する。高校生の宮田がそこにいた。