二月三日(月)1: 記憶が混乱する
不意に落下するような感覚にとらわれ、体がぴくりと反応した。
「うお」
小さく発した俺の声に、周りの生徒は気づかなかったようで、教壇の英語教師の声に耳を傾けている。
一瞬、寝落ちしたのだろうか。あまりに現実的な落下感で、鼓動が少し早くなっている。
ひどい夢を見たような気もするが、思い出せない。
忘れてはいけないことを忘れている気がする。
シャープペンシルを持つ自分の右手を見つめる。もしこの右手の骨が粉々に砕けたら、さぞかし痛いことだろう。しかし、今この右手には何も異常はない。
「ふおあ」
後ろの席から、溜息が聞こえる。宮田だ。また深夜アニメで夜更しでもしたのか。
いや、待て、何かがおかしい。鼓動が早まってくる。
「宮田くん、修学旅行が近いからって、気を抜きすぎです」
野村先生が宮田に注意し、教室に笑いが起こる。
俺は振り返り、宮田を見た。宮田は両手を合わせ、小さな声で言った。
「ごめん」
心臓の鼓動がまるで早鐘のようだ。
「小林くん、どうかしましたか?」
野村先生に声をかけられ、俺は正面に向き直る。
何だこれ、何が起こってる?
宮田は何を謝っている?
宮田はあとで謝るって言ってたっけ。
そんなこと、いつ言ったっけ。
窓の外に目線を移す。隣のB組の生徒がグラウンドで体育をやっている。
鬼よりももっと恐ろしい安藤先生が、相変わらずの半袖シャツと短パンで、ホイッスルを吹き鳴らして生徒を鼓舞している。
白蕗空さんがふらふらと走っている。そして、しばらく休んで、背筋を伸ばし、祈りでも捧げるように胸の前で手を合わせた。
白蕗さんの体がぼんやりと光る。
確かこのあと、白蕗さんは意外に元気に走り始めるはず。いや、どうしてそう思うのか分からないが。
距離があってよく分からないが、白蕗さんがこちらを見て、まるで「ごきげんよう」という感じで会釈してきた。
そして、白蕗さんは、元気に走り始める。
☆
昼休みになった。宮田が声をかけてくる。
「光夫、おはよう」
「おい、どういうことなんだよ」
どういうことなのか、宮田を問い詰めなければ。
「どこから話せばいいものやら」
宮田は大きなため息をつき、がりがりと頭を掻いた。
よく見ると、宮田は何日も徹夜したかのような憔悴しきった顔をしている。
「まず、焼きそばパンについて説明するとだな」
「早く行ってこいよ」
焼きそばパンなんて、どうでもいい。
宮田は教室の時計を見る。12時40分。昼休みは始まったばかりだ。
宮田はいつも通り焼きそばパンを買いに行くはずだが、なぜか立ち上がろうともしない。
「焼きそばパンだけど、あの時計で43分20秒に教室を出れば間に合う」
「はぁ?」
何を言っているんだと言おうとして、思い出した。
そうだ、いつも昼休みになると同時に教室を飛び出して行く宮田だが、最近はやけにのんびりしていた。
最近だと?
「んじゃ、そろそろ行くか。光夫、日向だけじゃなく、俺の華麗な回避も見てくれよ」
宮田が小声で妙なことを言って立ち上がる。いや、そうだな、そうなるよな。何が?
宮田が教室を出て行ったのを見届け、俺は自分の弁当を取り出す。俺の弁当は、おかずとご飯が別々になっており、真空層によって外気温から隔離することによって保温されている。保温弁当箱とかランチジャーなどと呼ばれるものだ。
宮田は俺の弁当を見て「なんかおっさんっぽい」などと言うのだが、いや、まだ言っていない気がする。
今日のおかずは、またいつものソーセージに卵焼き、ブロッコリー、ポテトサラダ、ミニトマト。いつものおかずだ。そう、いつものおかずだ。
宮田に言われたからというのもあるが、剣道部の日向茜さんの様子をそれとなく窺う。
女子四人のグループが、机二台を向かい合わせにくっつけて集まっている。今まで気づかなかったが、日向さんは俺の保温弁当箱から湯気が上がるのを見ていたようだ。そして、パンダの描かれた可愛らしい小さなプラスチック製の弁当箱を取り出す。
日向さんが弁当箱を開ける直前、彼女の体がぼんやりと光を発した。
弁当箱の蓋を開けた日向さんは、あっという表情をして、すぐに蓋を閉じた。そして、俺のほうを見て、俺と目が合ったことに気づき、ひどく狼狽しているようだった。
「ちょっと購買に行って飲み物買ってくるね。先に食べてて」
日向さんは女子グループの仲間にそう言って立ち上がると、パタパタと教室を駆け出していく。
教室のドアを開けて出ていく日向さんと、一瞬目が合った。なるほど、今まで気づかなかっただけで、日向さんは俺が弁当を出すところから何回もこちらを見ていたようだ。
日向さんと入れ替わるように、宮田が戦利品の焼きそばパンとコーヒー牛乳を持って戻ってきた。教室を出ていく日向さんを闘牛士のように華麗にかわして教室に入ってくる。まるで日向さんが教室から出てくることを知っていたかのようだ。そして、日向さんをかわした勢いのままくるりと一回転して教室のドアを閉めた。
宮田は日向さんの出ていったドアをしばらく見つめていたが、俺の前の席に後ろ向きに座った。
「俺の華麗な回避も見てくれたか?」
「ああ、見たよ」
宮田は満足気に頷くと、焼きそばパンを包んでいるラップを外して、焼きそばパンを頬張った。グイグイと口に押し込んでハムスターのように頬を膨らませ、コーヒー牛乳で流し込むという大胆な食べ方だ。
「相変わらずひどい食べ方だな」
「むごむご」
「飲み込んでしゃべれ」
宮田は口の中の焼きそばパンをコーヒー牛乳で流し込む。
「さすがにずっといつも食べてるとな。味わうというよりただの栄養補給だ」
「ずっといつも、か」
そういえば、宮田が俺の弁当から卵焼きを強奪しない。いや、いつも強奪するのはソーセージだっただろうか。最近の宮田は俺の弁当のおかずに見向きもしなかった気がする。記憶が混乱する。
「ああ、すまん、卵焼きもソーセージも、飽きるほどもらった」
「焼きそばパンは飽きないのか?」
「とっくに飽きてるけど、焼きそばパンについて語ると話が長くなる」
「そうか」
少しずつ話が見えてきた。あまりに突拍子もない話なので認めたくないが、今のところ、それが事実であることを、状況が示している。
宮田は同じ時間を繰り返している。
「宮田、お前、何回目なんだ?」
宮田は残りの焼きそばパンをコーヒー牛乳で流し込みつつ、人差し指を立てて自分の口に当てた。おっと、確かに、こんな誰が聞いているかも分からない教室でする話じゃないな。
☆
昼食を済ませて、学校の屋上に出る。この学校の屋上は、人工芝で覆われており、周囲を鉄柵とネットで囲まれて、生徒が軽い運動したりごろ寝したりできるように開放されている。二月の寒さのせいか、生徒はほとんどいない。
宮田と俺は、屋上の隅に移動し、グラウンドを眺めて雑談でもしているような位置につく。ここなら誰にも話を聞かれる心配はないだろう。
時間を遡って同じ日々を何回も繰り返しているというような話は、誰にも聞かれたくないものだ。
さて、とは言ったものの、どうやって話を切り出したらいいものか。宮田が先に口を開いた。
「光夫は、この高校に不思議な力を持った生徒がいるって言ってたが、何人気づいた?」
「ちょっと待て、俺がその話をしたとき、宮田は腹を抱えて笑ったじゃないか」
いや、ちょっと待つのは俺のほうだ。俺はそんな話をしたっけ。それって、いつの話だっけ。
「それは明日の話だな」
うむ、そうか、明日の話か。じゃあまだ言ってないのか。記憶が混乱してきたぞ。
「最初は混乱するけど、何周もしていれば光夫もそのうち慣れる」
「慣れたくないな。宮田は何周目なんだよ」
俺の質問に、宮田は天を仰ぐ。眉を寄せて、何か数えているようだ。
「正確には覚えてない。千周くらいかな。抜け出す方法をずっと探してる」
「千周?」
月曜日から始まって、木曜日の修学旅行まで、四日間。いや、月曜の昼前から木曜日の昼くらいまでだから、実質三日くらいか。
三日間を千周って、考えたくないが、八年以上か。高校を二回卒業してもお釣りがくるじゃないか。
「俺が明日、言っただろ。ここ何年かで一番笑ったって」
そうだ。言っていた。
それだけじゃない。宮田と一緒に昼飯を食べるのも、俺が弁当で宮田が焼きそばパンなのも、何年も変わらない習慣のような気がしていた。
宮田にとっては、そうか、本当に何年も変わらない習慣だったんだな。
「で、何人気づいた?」
「ん、ああ、どんな力かは分からないが、白蕗空さん、日向茜さん、それから」
おや、思い出せないぞ。
「弓道部のクールビューティーだな」
「ああ、そうだ、思い出した。雲川潤さんだ。弓道部の練習で、遠的で二十射連続で的中してた」
「それは今日の放課後だな」
えっ、そういえば。言われてみればそうだ。俺はまだ見ていない。記憶が混乱する。
「ふむ、なるほど、白蕗の言ってたとおりだな」
宮田は一人納得している。俺にも説明してほしいところだが、宮田は宮田で何か確認しているのだろう。
白蕗さんの言っていたことを思い出そうとしてみる。しかし、思い出せない。廊下でぶつかりそうになって何かを言われたような気もするが、宮田が一緒にいたような気もする。記憶が混乱する。
「それで、光夫が気づいてるのはその三人だけか」
「ああ、たぶん」
「そうか。実は、それ以外にも光夫の言うことろの不思議な力を持った生徒が」
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「ちょっと待て、今いいとこだろが、昼休み短けーよ」
宮田がチャイムに文句を言うが、こればっかりはしょうがない。時間は過去には戻せないんだから。いや、ああ、うん。
しょうがないから、午後の授業を乗り切って、話の続きは放課後にしよう。
教室に戻ろうとする俺を、宮田が呼び止めた。
「ちょい待った光夫、ひとつだけ頼みがある」
「授業が始まるぞ」
「おはようって言ってくれ。さっき昼休みになったときに言ってもらいそこねた」
「はぁ?」
何だそりゃ。そういえば、いつも宮田に「光夫、おはよう」って言われて、釣られて「おはよう」って返事をしてしまっていた気がする。
いつもって、いつだ。記憶が混乱する。まあいいか、とりあえず言うだけ言ってみよう。
「おはよう。これでいいのか?」
「ああ、助かる」
そこにいるのは、何日も徹夜したかのような憔悴しきった顔をしていた宮田ではなく、ぐっすり8時間睡眠して爽やかな朝を迎えたような宮田だった。
「よーし、授業に遅れるぞ、教室に戻ろうぜい」
宮田が満面の笑みで親指を立て、元気に教室に向かって駆け出す。いや、ちょっと待って。えっ。なんだそれ。
記憶が混乱する。




