ゴルゴダの丘
家庭環境のせいか、小さい頃のわたしは寂しがりやで、しごくテレビを好んだ。古代人が夜更けの丘の上で星を見上げていたのに等しい。
夜深まるころに居間の窓を開けながら見るテレビドラマは、清々しく栄えて映り好きだった。小学校へ通ってもいじめられるだけだから登校を拒否し、夜更かししていた。親はひたすら無関心の容貌を貫いた。
そのころは受験競争が激化し、猫も杓子も参考書を鉛筆で塗り潰していた気さえする。小説では『家族ゲーム』がロングセラーになっていた。優秀な兄が煙草を吸い始めた。それを叱ろうと母が夕飯時に、何食わぬ顔で煙草を混ぜたご飯を家族へふるまう。そして咳き込みながら母は「どうしたの、食べないの」と言う。いつしか兄は無言の仕打ちに耐えかね、嗚咽をしてしまう。今思えば、原作に忠実なシーンの再現をしたテレビドラマだろうが、年齢一桁代のわたしが受けた衝撃は言葉に絶した。
夜な夜な空気に漂うものは「プラスイオン」だろう。そんなやからが飢えた猫のように眼球にかじり付く。認識した神経が記憶中枢に伝わり、頭脳という墓穴へ永久に押し込められる。とくに幼い頭は、やからの餌食に成りやすい。そしてそれが大人という完成品を象る。
ゴルゴダの丘に突き刺さった十字架の板は燃えていた。土に付いたコケは熱で焼かれ、コケの灰は果てしない空を目指し浮遊旅行に出る。
あの幼い瞳が見ていたゴルゴダの丘の炎はますます躍起な赤さを顕し、ただ耐えられない熱さが脳細胞に伝達した。そんな過剰反応さえ、子どもを持つ年代になったわたしの記憶にも焼け残っていた。どこかでそんな映像を見たのだろう。
わたしは幼いころ、よくイエスキリストのことを想念する。彼はわたしの父親であった。寝付く前の重たいまぶたに焼き付いた登場人物たちの魂を、慰霊する。また人生とは……、やがて訪れる大人とは……、いずれ死ぬ母という存在。浮かび上がる生存疑問の、良き相談相手であった。
あの歴史的な空の下ゴルゴダの丘に漂っていた空気は、テレビドラマの次回予告を見終わったあとやって来る「消灯」という沈黙そのものだ。男女の交じりさえ視覚と聴覚への刺激で堪能する時代。子を授かることはない、感覚世界で立ち寄る旅の宿である。眠りの感覚でさえ頭に配線盤を被り、わが深淵で味わう精査な休息行為といえる。
今夜もわたしはゴルゴダの丘の上で、同じ空気感を感じていた。