カイブツ
「吸血鬼?馬鹿言わないでよ。つくならもっとマシな嘘を付きなさいよ」
リリナは吠える。
「あれ?信じてくれないんですか?」
リリナはその顔を睨む。睨みつけられているというのにジークは顔色一つ変えない。逆にリリナを見つめ返してくる。
「アタシはそんなんで落ちるほど軽い女じゃないわよ」
「そんなつもりはないですよ」
話の接ぎ穂を失い、二人の間に無言の時が流れる。言葉の代わりに二人の視線がぶつかる。
(不気味ね)
リリナはいつでも飛び出せるように力を軽く四肢に込める。
ジークの表情からは先程の発言の本意は読み取れない。吸血鬼?そんなおとぎ話のような存在を持ち出されても、たやすく信じるわけがない。
ならなぜ。
だがリリナの内には波紋が広がっていた。
彼の言うとおりシオンの現状には不自然なことがある。
異常な耐久力と回復力。水銀に対する反応。フォレストパンサーを屠ったあの一撃。
彼が吸血鬼ではないにしろ、特殊な存在だということはリリナも薄々気がついてはいた。
だけど。
リリナはゆっくりと息を吐いた。
「でも、そんなの関係ないわ」
急に緊張を解いたリリナにジークはわずかに眉をひそめた。
「?」
「吸血鬼だろうが、それ以外のなにかであろうが、アタシは約束したの。任せてって」
リリナは手をまっすぐ伸ばす。ジークはそれを見て身構えた。
しかしリリナの行動は彼の予想を上回っていた。
「返して」
ただ友人同士のように、なんの他意もなく、返還を求めた。
伸ばされた腕は武器を握るでもなく、手のひらを上に向けてものをねだっていた。時折、返せと言わんばかりにクイクイとスナップを利かせている。
張った胸に不遜な表情。
それを見てジークは声を上げて笑った。
「冗談でしょう?」
「本気よ」
「嘘だ」
「本当よ」
きっぱりと言い放つリリナにますますジークは笑い出す。
「これはお笑いぐさだ!!目の前で首を掻き切られた男が生きているのを見ておかしいと思わないのかな」
「おかしいとは思うわ」
「なら!!」
「だからって見捨てられるほど人間できてないの」
相容れない二人。
それを理解したのかジークはさっきからずっと浮かべていた笑顔をかき消すと言った。
「じゃあ僕が悪なんですか?」
さっきまであった余裕が一切ない、彼の悲痛な声。
「そうは言ってない……シオンが何かをしたのなら然るべきところで……」
突然の変容にリリナは戸惑った。
「あなたはッ!!あなたは失ったことがないからそんなことが言えるんだ。あなたは経験したことがないからそんな顔ができるんだ。家族を…たった一人の家族を殺したこの男を!憎んで何が悪い!殺そうとして何が悪い!」
「殺した?」
激昂する彼からシオンの罪が暴かれる。リリナが答えを求めるように視線を向ける。未だジークに掴まれたままのシオンがリリナたちから唇を噛み締め目をそらす。
それが答えだった。
アイツが殺人を……
彼女は頭を鈍器で殴られたかのように少しふらついた。しかし視線を再びジークへと向けた。
「コイツは…僕のたった一人の家族、姉を殺して逃げたんだ……」
「……それでもこんなこと」
お姉さんが喜ぶとでも
などとは口が裂けても言えなかった。
家族を失ったことはないが、家族と奴隷になってから引き裂かれたリリナには彼の気持ちがわかる気がしたからだ。分かれるだけでも辛いのに、それが一生の別れとなればその苦しみは耐えようもないものになる。
だが彼女は彼女の正義でここにいる。彼にあらがっている。
「罪は償うべきもの…でもこんなの間違ってる!」
まっすぐこちらを見る瞳に。正しいと信じる道を行く彼女に。
ジークはついに。
「そう…なおかばうのか」
掴んでいたシオンの頭を離す。
そしてわかってくれたと緊張を解くリリナに無情の言葉を投げつける。
「なら、その守りたいものの手にかかって死ねばいい」
ジークは指先に風の魔法をまとわせると自分の腕を切り裂く。
鮮血がほとばしった。
リリナたちは彼が何をしようとしているかわからなかった。ただ一人を除いて。
「やめろ!!お前、何をしようとしているのかわかっているのか!!」
シオンがすべての力を振り絞って叫ぶ。これから起こる事態から逃れるために身をよじれば、体に新たな傷が刻まれる。
だがそんなことは気にならない。
ジークの狙いだけは阻止しなければいけない。
「やめろぉぉぉぉ!!」
ジークはもがくシオンの口に自分の傷をあてがう。シオンはとっさに口を閉じた。
リリナは気がついた。彼はシオンに血を飲ませようとしている。
吸血鬼。血。キーワードがつながっていく。
「まさか!!」
信じてはいない。信じてはいないが、リリナの内なる声が止めろと叫ぶ。
本能に従ってリリナは駆け出す。
「さあ、あなたの正義を見せてもらいましょうか」
しかし間に合うはずもなく。
ジークはシオンの口をこじ開け、血を流し込む。その瞬間、先程までもがいていたシオンの動きが急に止まる。カクンと頭をたれ、完全に脱力する。
一体彼の身に何が……。
彼女がそう思った次の瞬間。
彼の体からこれまで以上に煙が吹き出し、たちまちあたりを白く染め上げる。血の匂いのするその風圧にリリナは吹き飛ばされそうになる。
「シオン!」
リリナは彼がいた位置に必死に呼びかけ前進する。近づくほど鉄の匂いは濃密になっていく。おかげでリリナの鼻はきかなくなっていた。この煙の先にいるはずのシオンの匂いが感じられない。
「もう遅いんですよ」
少し進んでリリナは立ち止まる。ジークの言葉のせいではない。
全身が粟立った。
かつてない感覚。五感を超えた何かが警笛を頭の中で何度もならす。
フォレストパンサーと対峙したときよりも強く感じる。
煙の中心。
シオンがいた場所。
「あ……あぁぁぁ」
口から情けない声が漏れる。膝が笑っている。顔が引き攣る。視線が定まらない。
「ね、わかったでしょ。あなたが今まで人間だと思っていたやつは正真正銘の化物だって」
震えるリリナにジークはそう告げると踵を返した。
「さすがにこの状態になってしまっては僕が勝つ可能性はゼロに等しい。今日は撤収しますよ」
あっけらかんと言ってのけるジーク。
__アンタはなんで平気なの。こんな存在の前で。
口もうまく動かせないリリナの心の内を読んだかのように、ジークは軽く振り返る。
「覚悟が違うんですよ。僕とあなたとでは。では、さようなら。あなたが偽善者ではなく本当に正義の存在ならきっともう二度と会えないでしょう」
そう言うとジークは風に包まれてかき消えた。
残されたリリナはシオンに意識を向けられなかった。向けたら最後、飲まれると知っていたからだ。抵抗する気すら失せ、死を待つだけの存在と化すことを知っていたからだ。そもそもそれはシオンなのか。そこまで圧倒的存在がそこにいる。
音が聞こえた。
鎖が壊されるような、そんな音。
奇跡だった。無意識にとんだ瞬間彼女はそう思った。思わず飛んだために着地を失敗して倒れ込む。
煙が突如飛来してきた物体によって切り開かれる。物体が地面と接触し、その凄まじい衝撃が伝わってくる。土砂が吹き飛ばされ、飛んできた小石がリリナを叩く。
リリナは思わず見てしまう。それはきっと彼女がまだ嘘だと思いたかったから。
この存在はきっと彼ではない。
ならジークの居なくなった今、彼を回収し逃げられれば。
そんな願望があったから、彼女は見てしまった。
さっきまで彼女が立っていたところにクレーターができていた。彼女一人がゆうに収まるほどの大きさ、深さ。彼女が飛ばなければ、彼女がそのままそこにいたならば、ミンチになってしまっていたであろうことは容易に予想できた。
そしてこの状況を作り出したのは。
「シ…オン」
ゆらりとクレーターの中心から立ち上がったのは紛れもなくシオンだった。
黒髪だった髪は半分を残して、ほかは銀髪へと変わっている。病的なほど肌が白くなっていた。だがそれはシオンだった。
不気味な紅い目をして、遠目からでもわかるほど犬歯が発達していたが、それはシオンだった。
違う。
それは見た目こそ彼だったが違う。
違う。
ソイツがこっちを見た。
殺される。
抵抗しなきゃ。にげなきゃ。
リリナは体を動かそうとするがピクリとも動かない。ソイツを見たまま固まってしまった。
抵抗しても無駄。逃げても無駄。生きられない。逃げられない。
はっきりとわかったのだ。アレは捕食者だ。そして自分はただ食われるだけの存在。ジークの言っていたことは本当だった。
リリナはもう動けなかった。
ソイツもそれがわかったのか、クレーターの傾斜を登ると動けないリリナにゆっくりと歩を進める。
一歩…一歩…。
死を体現した存在が近づいてくる。
近づいてくるほどにリリナの震えが強くなる。彼女の顔は……笑っていた。それは極度の恐怖で顔中の筋肉が働いたために起こる表情だった。
そんなリリナと怪物の間に少女が一人。
「シオン」
いつものようにその名を呼ぶ。
「……」
果たして彼のうちに彼としての意識がまだ残っているのだろうか。名を呼ばれた怪物は立ち止まる。
ルビーよりも暗く不気味な眼に可憐な少女が映る。
「シオン」
また名を呼ぶ。
「だめ…ニーナちゃん…それはッ!もうアイツじゃ…」
殺される。
アタシはあの子に任せてって言ったのに。アイツも取り返せず、そしてあろうことかアイツにニーナちゃんを殺させるなんて。
そんなの絶対だめだって。わかってる。わかってるのに……。
「動きなさいよぉ…」
情けなくて泣きそうだった。
足が動かない。アイツの注意を向けるため大声を上げる勇気もわかない。だというのに口だけが泣き言を云うためによく回る。
どうせ、殺されるのだ。どうせ。
彼女の胸中は諦念に埋め尽くされていた。
だから彼女はニーナが無防備に怪物に近づくところを見ることしかできない。
ソイツは狙いをニーナに移したようだった。獲物が近づくのを見て、怪物は歩を止めた。ニーナは臆せず、その小さい足で歩みを進める。やがて手が触れられるような距離まで近づく。
ニーナは顔をあげ、怪物の目を見る。燃えるような血の色の眼球。彼女はその瞳を素直に美しいと思った。そしてその瞳には間違いなく彼女が映っていた。
「これが…シオンにとってのわたしの価値?」
問い。彼女はずっとわからなかった。彼は依頼されたからという理由だけで彼女を保護したと言っていた。ならなぜ、奴隷として彼女を手元において置かなかったんだろう。なぜ、十分すぎるほどの食事を与え、服を買い与えたのだろう。なぜ人として接してくれたのだろう。結局彼ははっきりと答えてはくれなかった。
「どうして優しいの?」
彼と過ごした短い日々。しかし彼女の記憶には彼の無数の笑顔があった。悪辣な醜悪なそれではない、笑顔。
そしてそれを見るたび、自分も幸福に満たされていた。
そんな幸福に対価がないことはありえない。
「わたしの血を吸えば喜ぶの?」
ニーナも吸血鬼という存在は知っていた。昔の遠い記憶。なくなった過去。そこで学んだ。
彼が自分を家畜として、獲物として育ていた。そう考えれば彼の行動にも合点がいく。それなら自分のすることは。
そっと手を伸ばし怪物の頬を挟むと、ゆっくりと首筋へと引き寄せる。陶磁器のような白く美しい首筋に怪物が抵抗なく吸い寄せられる。子が母乳を飲むかのごとく自然と怪物のアギトが開かれ、牙が外気に触れる。
そして。
ニーナが一瞬痛そうに顔をしかめた。しかしすぐに表情を戻すと、怪物の頭を抱きしめる。彼女の服の襟が次第に真っ赤に染まっていく。
「シオン…ありがと」
彼女は血を吸われているというのに感謝の言葉をつぶやく。それからより一層、相手の体温を感じられるように強く抱きしめる。深々と牙が突き刺さっているというのに彼女の顔はこれまでにないくらい穏やかだった。
彼の匂いがする。安心させてくれる匂い。
彼女は子供が母に抱かれているときのように、怪物に身を任せ、瞳を閉じる。
血が吸われると冷たさをおぼえる。だが彼女の心は穏やかで暖かった。それがなんという感情によるものなのか、彼女にはわからなかった。もっと知りたいと思った。けれど。
これで本当に死んでしまうのか。
死んで、拾われて、救われて、また死ぬ。
でも今度は一人じゃない。彼のために、彼の中で自分は死ぬのだ。きっとこれが彼が最後にくれるもの。
しかし、彼女は頬に感じた寒さで目を開ける。彼がなぜか離れたのだ。
よろよろと後ずさった彼は彼女の腕からも離れ、その場にうずくまる。
「……シオン?」
「グォォォォォォォ!!」
怪物が雄叫びを上げる。
みると、彼の体に傷が刻まれていた。それはみるみるうちに増えていき、全身に現れた。攻撃?いや、違う。
これは再生したはずの傷がまた開いているのだ。
今まで受けたおびただしいほどのダメージが再出する。ジークに切られた喉からも出血する。
全身が真っ赤に染まった彼は、ついには倒れ伏す。その間も血は何かを吐き出すかのようにとめどなく流れ続ける。
「何が…」
リリナがふらつきながらも立ち上がる。彼女が先程まで感じていた圧のようなものはすっかりなくなっていた。
それが彼の異変と関係あることは理解できた。
「シオン!」
ニーナが華奢な腕でシオンを抱き起こす。彼はかすかに唸り声をあげ苦悶の表情を浮かべる。結んだ口の端からタールにも似た黒い血が流れる。
彼の髪は徐々に黒に戻っていた。そして完全に銀が無くなり黒に戻る頃、ニーナの服を濃く染め上げていた血が止まる。傷が再びあの尋常ではない回復力でふさがったのだ。
だがシオンは目を開けなかった。呼吸はしているが不規則で弱々しいものだった。
油断できない状況であることには変わりなかった。
「リリナ…シオンが…」
ニーナの助けを求める目にリリナは応えてやることができなかった。目をそらしてしまう。
彼女は憶えてしまった。狩られる側の恐怖を。
恐怖の根源たる、彼に近づくことはもう彼女には出来なかった。
目をそらしたリリナをニーナは責めることはしなかった。何かを理解し、黙ってシオンの肩に手をまわすと担ぎ上げた。意識のない成人男性の体重が細い体にのしかかるが、彼女はしっかりと立っていた。
彼女が歩くと血でぬかるんだ地面が二人分の体重で沈み込む。
どこへ行くの?
その小さい背中にそんな言葉すらリリナはかけられなかった。
聞いてなんになるというの。どうせもう関わる気なんてないくせに。
アタシは所詮、偽善者に過ぎないということ。
「リリナ」
去っていく小さな背中から呼ばれる。
「服…ありがと」
「……」
やがて少女の姿が見えなくなる頃。リリナは泣き崩れた。
◇
宿屋タンカードでバイツェルはベッドで酒を煽っていた。高級なワインとチーズ。女の暖かさの残るシーツ。しかし彼の心は晴れない。
夜風を取り入れるため開け放たれた窓に影が映る。
「きたか…どうだった?」
「今回は失敗とも言えますし成功とも言えますね」
影はジークだった。バイツェルの問いに笑って答える。窓の縁から軽く飛び降りるとバイツェルに向かって一礼する。
さっと彼の全身をバイツェルがチェックする。おびただしいほどの返り血と腕の傷。
バイツェルはふんと鼻を鳴らす。
「手短に言え、ヤツはやったのか?それとも情けなくおめおめと帰ってきたのか」
「そう冷たく言わないでくださいよ。これでも健闘したんですよ。ただイレギュラーがありましてね」
「イレギュラー?」
「はい。やつの連れていた少女です」
そう聞いてバイツェルは記憶を探る。確かにあの忌々しい瞬間リリナの横に誰か居たような気がするが、状況が状況だったのであまり良く憶えてはいない。
「没落貴族とはいえ、お前を退けるほどか」
「はっきりいって異常でしたよ。殺気を感じさせず、魔法も使わずに速度で僕を圧倒。おまけにおそらくギフト持ちかと」
「何!?なぜそのような人材がやつのもとに!」
前のめりになったせいで手に持っていたグラスからワインがこぼれて高そうな白いシーツにシミを作る。
「類は友を呼ぶというやつですかね」
「冗談ならあとにしろ。で、どういう能力だった?」
「触れたものの魔力を乱す能力でしょうか」
ジークはあの戦闘を思い出す。風の鎧も防御壁も彼女には効かなかった。さらには手刀を防いだときの魔力の枯渇。そこから導き出されるのは彼女がギフト持ちだということだった。
しかし彼女のあの身体能力の謎は説明がつかない。人間の範疇を大きく超えた瞬発力。彼女は獣人のようには見えなかった。そしてあの顔。考えてもわからないのでジークは一旦そこで思索を断ち切り、報告に務めることにした。
「おかげでやつの殺害は阻止されました。ですが、きっと今頃死よりも苦しい事態になっていることでしょう」
「ほう…」
バイツェルが顎のひげをサラリと撫で、興味深そうな顔をする。
「苦しい、とは?」
「同士討ちですよ」
思わぬ言葉にバイツェルの口角が上がる。湧き上がってきた気持ちの高ぶりを抑えるべく、ゆっくりとワインをあおった。先程までまずいと感じていた酒がこの上なく美酒に感じる。
「酒の肴にちょうどいいな」
「えぇ。やつが負けても、勝っても僕たちには良い結果しか残りません」
「そうか…」
バイツェルはシーツの上に置かれた盆から空いていたグラスを持ち上げるとワインをなみなみと注ぎ、ジークへ突き出した。
「受け取れ」
「よろしいんですか」
「あぁ」
ジークが近づきグラスを受け取る。
バイツェルがグラスを高々と上げる。グラスの曲面に下卑た笑みを浮かべた顔が映り込む。
「では、ヤツの地獄に乾杯」
「ええ。乾杯」
◇
町の門番であるケトが最初に気がついた。
「おい、あれ」
隣で鎧のズレを直していた親子ほど年の離れた後輩であるサンダに声をかける。呼びかけられてサンダはぱっと顔を上げるがケトが何を言っているのかわからない。
すかさずケトが指を指す。
その先をたどってみると、森の中から何かが出てくるのが見えた。しかし人影と言うには少々いびつな形だった。
「モンスターですかね?罠が作動しなかったんでしょうか?」
「馬鹿言え、あれはこの前点検したばっかだろうが。となるとあれは…人か?何かを抱えているように見えるな」
どれどれとサンダは目を凝らしてみるが、若いはずの目ではぼんやりとしか見えなかった。
「ひゃー相変わらずケトさんは目がいいですね。俺にはなんにも見えません」
「おい、ちょっと見てこい」
「えっ!!嫌ですよ」
「いいから」
嫌がるサンダの背中をケトは押した。よろよろと前に押し出されたサンダはうらめしそうにケトを見るとため息をついた。
「はぁ〜俺が死んだら、末代まで呪いますからね」
恨み節を吐く彼にケトはさっさといけと手で追い払う。サンダはもう一度ため息をつくとトボトボと影の方へ歩いていった。
やがて彼の背中が米粒ほどになると、ケトは鋭い目で影を見た。
「ここまでとはなぁ…」
ぼそっと呟き、空を見上げた。空は丁度太陽が雲に隠れたところだった。熱気をはらんだ光線が一度途絶えたことでかすかな冷たさを感じさせる。
「ケ…ケトさーん!!」
遠くからサンダが叫んでいる。ケトは持っていた槍を担ぐと、遠くからでもわかるほど慌てているサンダの方へと向かっていった。
◇
森の奥でリリナは泣いていた。あの存在に対する恐怖。生き残った安心感。そしてあの二人についていくことが出来なかった己の弱さ。
ジークは言っていた。本当の正義の存在なら生き残ることはないと。だが無様に自分は生き残った。
少女に約束した交渉もできず、彼がああなってしまうことを阻止できず、その存在に恐怖し。少女が血を吸われているのをただ震えて見ることしか出来なかった。立ち去る二人に何も声をかけられなかった。
あの男の言うとおりだ。
自分は偽善者なのだ。奴隷から解放してくれた恩人を見捨ててまで生にすがりつく情けない女。
悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。
力がないことに、勇気がないことに、芯がないことに。
しかし自分でも不思議だった。
__なぜこんなにも自分の心はかき乱されているのだろうか。
恩人とはいえ、たった数日しか行動をともにしていないあの二人を、どうして。
そしてまた彼女は泣いた。
◇
宿屋の主人は突然の来客に唖然とした。
血だらけの男とそれを担いでいるこれまた血だらけの少女。それが急に来たものだから、酔っていたこともあって思わず椅子からずり落ちてしまう。
「お、お客さん!?」
上ずった声の主人に少女は何かを投げつけた。受け取るとそれは札だった。酔の冷めた頭で思い出すと、そういえば奴隷がいるというのに二人分の宿代を払った物好きな客が居たことを思い出した。
しかし流石に血だらけじゃ宿に入れるわけには行かない。
「おいちょっと嬢ちゃん……ぶぺっ!」
止めようとする主人はまた何かを顔に投げつけられた。なんだか生暖かくて血なまぐさいヌメヌメしたものだ。ぞっとして慌てて引き剥がしてみると、何かの内臓だった。
「て…てめッ!どういうつもりだ!!」
内蔵を床に叩きつけると主人は怒鳴った。しかしその剣幕に少女が動じることはなかった。静かに主人の顔をみる。
その子供らしからぬ落ち着きに主人は若干気圧され、言葉に詰まる。
「あげる…薬」
それだけいって何食わぬ顔で少女は男を担いで二階へ上がっていった。
短時間で起こった出来事と、そもそも少女が大の大人を担いでいるという異常さに主人にはもう止める気力はわかなかった。
混乱で戸惑う視線を床に向けると少女が投げつけた内臓が汚い木の床に更に汚いシミを作っていた。
「なにが薬だよ、お前にこそ薬が必要なんじゃないのか…ッたく、落ち着いたら自警団に突き出してやる……ん?こいつは……」
ひとまず処分するために顔についた内臓の血やらなにやらを袖で拭い、しゃがみこんだ宿屋の主人はなにかに気がついた。
◇
ジークとバイツェル。リリナ。ニーナ。三つの立場が絡み合う先には何があるのか。
このエルジオンの町に嵐が迫っていた。