モウヒトリトノデアイ
チョットこれはまずい。
まぁ予想するに?ニーナがこの袖を引っ張っているわけなんですが?ええ、そこが問題です。
彼女は水浴びを仕掛けていました。すると当然裸なのです。服も脱ぐようにばっちり注意しましたからね。まず間違いありません。
だから、さわやかな笑顔で「ん?どうしたんだい」と振り返るとそこには一糸まとわぬ姿のニーナがいるわけです。よってこの反応はアウト。
で、第一候補としてはまず振り向かなければいいわけです、はい。顔を固定したまま「ん?どうしたんだい」と言えばよいのです。なんだ簡単じゃないですか。気が動転していたのですね。
じゃあ言いましょうせーのっ……。
おっと問題が起きました。
ニーナさんがまさかの袖を引くどころか体を密着させてきたのです。腰に手を回してガッチリとホールド。まだ水には全身浸かっていないので冷たいということはありませんが、しかしむしろ人肌の温かさが服越しに伝わってくるわけです。
マズイ。まずすぎます。
あうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあう。
彼女の小さなおなかに収まった干し肉よりもカチコチになりながらシオンは固まっていた。
「ダメ」
ニーナが念を押すように強く言う。と同時に抱きしめる力が増す。
おい待て待て。なんかこれ以上は死ぬ。訳が分からないが死ぬ。
「ななななぜダメなんだ?」
シオンは壊れたオルゴールのように「な」を連呼しながら尋ねる。どうにかこうにか口から出た質問だったが彼女は沈黙を貫いた。
(震えている?)
固まって動けないので何気なく下をみるとニーナの細い腕が見えた。風はあったが冷たいというほどではない。だというのに彼女の腕は震えている。
「……行っちゃダメ」
蚊の鳴くような、しかしそこには切実な思いが詰まった声でニーナはつぶやく。
なるほど合点がいった。彼女の行動の意味が分かった瞬間、シオンの頭は不思議なことにさっきまでとは違いクリアになっていた。
そっと彼女の手に自分の手を重ねる。背中越しに彼女の頭が上がるのを感じた。
「わかった。どこにもいかない。ここに居る」
「……本当?」
不安そうな彼女の声。自分はこれにめっぽう弱い。そう自覚しながら、安心させるようきっぱりと力の入った語調で答える。
「ああ、ほんとだ」
その言葉を聞いて、彼女の腕の力が緩む。もう大丈夫だとシオンもそっと重ねた手を解く。背中にくっついていた温かいものが離れていく。背中がすこし寒くなった。
そして再びパシャパシャと音が聞こえてきた。
「しっかりと洗っとけよ!」
自分はいるぞと示すために大きな声で呼びかける。返事は水音で聞こえなかったが、長く続く微かなチャプチャプっという音を聞く限り大丈夫そうだ。そうして十分ほど水浴びをさせた後、頃合いだとシオンは上がって来いと呼びかける。そうでもしないと延々と洗ってそうだったからだ。
すぐに水の中を動く音が聞こえ、気配がシオンのすぐ後ろにまで迫ってくる。一応念を押しておく。
「俺の前には立つなよ?」
間に合ったようで彼女は足を止めたようだ。で、気が付く。
あ、タオルねぇや。
「タオルとってくる」
「……」
また捕まえられた。仕方がないのでそのまま荷物を置いてあったところまで戻る。距離は幸い近かった。
ふと地面を見ると焚火に照らされた二人のシルエットが見えた。シオンにぴったりとくっつくニーナの体は手足と同じように細く折れそうだった。
彼女がいまだ健康体ではないことを見せつけられているようでシオンは苦い気持ちになる。しかしあれだけ食っても細いままというのも問題だ。
血色はよくなっているので食事の効果はあると信じたい。何かしらの栄養阻害要因があるのだろうか?
タオルを探し出すと後ろ手に渡す。タオルがこすれる音がシオンの耳に入った。
「ふいたか?」
「ん」
で、また気が付く。あ、服置いてきてるわ。
「ニーナ、俺の裾をつかんでくれ」
無言で裾をつかまれる。この状態で先ほど服を脱いだところまで動くために180度旋回する必要があった。よちよち歩きで用心して進む。肩越しに見えるかもしれないので目はつぶっている。
記憶と対応させて探り探りで歩く。
しかし先ほど立てたばかりのキャンプ地なので覚えているはずもなく普通に岩につまづく。
さらにニーナを後ろにくっつけているのでバランスを崩してしまう。
(この流れはぁぁ!)
シオンは知っている。これは暴れてはいけない。手を伸ばしてはいけない。そうしたが最後なんかふにっとしたものをつかんでしまい、平謝り無限回コースに違いない。
だがここでシオンが変に倒れてしまったら後ろのニーナもそれにつられて倒れてしまう。ただ手をつこうにも、ニーナによって自由が利かない。
空いている方の手があるが、彼の知識だとその手を使うが最後、なんだかんだでハプニングになってしまうのがお決まりというやつだ。
彼女は今裸だ。ケガすることは必至。女性の肌に傷をつけるなんて極刑とあの聖職者も言っていた。ならば。
手をつこうとする本能に。顔を守ろうとする本能に。すべての本能に逆らってそのまま倒れること。それが最適解。
頭からへの字に倒れ込んだシオンは凄まじい激痛に襲われた。
「痛ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
目の裏にぱちぱちと火花が散る。頭で鐘がなっている。その激痛に耐えながらゆっくりと沈み込んでいく。そっと姫を運ぶ騎士のように、静かにニーナを下ろしてあげる。そこでシオンは力尽きた。
「……ニーナ悪いが、服着てきてくれ」
「……嫌」
まだ裾を握っているニーナがしばし考えたのちぽつりと言った。嫌ですか……。そうですか。しかしさっきの「ダメ」といい、自分の意見を言うようになったなぁ。
なんでだろうか、というのはこの頭痛がおさまってからでいいか。しばし付きまとうであろうこの痛みにしばらく動けないシオンは平伏する。
「…しばらく復旧に時間がかかるから、そこにある雨具にくるまってて」
「ん」
◇
ニーナは倒れたまま動かなくなったシオンを見守る。ふっきゅうというのが何かはわからないが命に別状はなさそうだ。裾を握ったまま器用に体を伸ばし、皮でできた雨具をとると体に巻き付ける。
ニーナはこの雨具がお気に入りだった。くるまれていると暖かいし、シオンのにおいがする。
(握ってる)
その感触を確かめるように指をこすり合わせる。間に挟まれた裾の布は少しゴワゴワとしていたが、何故か飽きさせない感触だった。
(握ってしまった)
ニーナは立てた膝に頭を乗せる。さらっとその長い髪が垂れ下がった。
彼女は先ほどの自分の行動を思い返す。遠ざかっていく足音、背中、闇の中へ消えていく彼。遠くなってしまう彼。
それに恐怖を感じて、気が付いたら裾をつかんでしまっていた。わがままは言わないと決めていたはずなのに、それはあっさりと破られた。その時彼女が感じたのは恐怖だった。
この握っている裾が虫けらを払うように払われたら。その先は考えたくなかった。頭が拒絶していた。
しかし堰を切ってもう溢れ出した以上彼女は止まらなかった。
「ダメ」
無意識に口走っていた。いった後彼女は後悔して唇を強くかんだ。彼の拒絶の言葉がたまらなく恐ろしかった。
彼は答えることはせず「なぜ」と聞いた。その声に動揺はあったが、拒否の色はなかった。それにひとまずニーナはほっとした。しかし彼女は彼の質問に対する答えを用意していなかった。
彼女の行動は自分自身でもわからないものであり、様々な感情の名を忘れた彼女には酷というものだった。
彼の質問に答えられない。それが意味するもの。
『このッ役立たず!』
石造りの牢獄、日の光も届かない底の底。罵声、鞭、痛み、鞭、痛み。いつのものかわからない記憶がフラッシュバックした。なんでもないその光景。ただ一つ違ったのは鞭をふるう男。
その顔は…シオンだった。
心臓が冷水に浸かった。
彼が自分を打つ。何の感情も浮かんでいない瞳で。彼の顔が嗜虐の喜びに溢れていたら彼女の心がこんなにも苦しくなることはなかった。その瞳に自分がどんな姿であれ映っているのであればどんなに辛くても……。だから…。
そんな目で見ないで。その目の中に私を入れて。そばにいて。
「……行っちゃダメ」
まただ。縋るように祈るように。気が付けば口をついて言葉が出ていた。言えば言うほど苦しくなるのに締め付けられるのになぜ言ってしまうんだろう。
会話ができないもどかしさに苦しんでいたというのに、今度は自分の考えない発言に苦しんでいる。どうにもならない自分の体。
どうしておとなしくできないの?どうして……彼にこれ以上近づこうとするの?
自分の体をばらばらに引き裂いてしまいそうな疑問を終わらせたのは、感じた暖かさだった。
重ねられた手。
じんわりと日の光にも似たあたたかさが彼女の冷たくなった心臓をほぐした。
そして彼が言った。
――わかった。どこにもいかない。ここに居る
その言葉の一振りは彼女の疑念とそこからくる恐怖を一瞬で吹き飛ばした。
(本当にそばにいてくれるの?)
思い返したニーナは袖をさらに強く握りしめる。この手を離さないように。彼が行ってしまわないように。
「……そう強く握らなくても、うごけねぇよ」
突然かけられた言葉にニーナは驚く。そんなニーナをよそにシオンはむくりと起き上がった。まだ頭が痛むのか頭をさする。その時、彼が腕を急に上げたため握っていた袖から手が離れる。
(あっ……)
ニーナは手を伸ばしたままで固まる。その手をさらに先へ伸ばしていいかわからなかったからだ。
「そう悲し気な表情するなよ…なにか悪いことをした気になるだろ?」
シオンは呆然とするニーナに少し困った顔をした。それから自分の頭に置いていた手をニーナの頭の上に置いた。ニーナは自然と手を下ろしていた。
「ニーナに何があったかはわからない。。でも、さっきも言ったが俺はここにいるから。だからそんな捨てられた子犬みたいな顔すんな。精神が削れるわ」
そう言ってシオンは微笑んだ。ニーナは言葉が紡げなかった。ふるふるとくちびるが震えだす。
「そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔して、変なこと言ってるわけじゃないだろ!?……え、やっぱ変かな?ちょっとギザだったって自分でもっておいおいおい泣くなよ……なんでだよぉ!泣きたいのはこっちだよぉ!?」
気が付くとまたニーナは泣いていた。彼と話すとなぜこうもおかしな涙があふれてしまうんだろう。ニーナにはそれがたまらなく不思議だった。
◇
ようやく気が付いた。彼女の異様に高い警戒心を最初は「孤独を作りに行っている」と思っていた。だが、離れていく自分の裾に必死に縋りつく彼女を、そして自分の言葉に泣いていた彼女を見てからずっと考えてようやくたどり着いた。
彼女は孤独を作りたかったわけではない、孤独を恐れていたんだ。
近づけば、踏み込めば、自分と他人との距離感が嫌でも変化する。それが彼女には恐ろしかったのだろう。距離感の変化はマイナスにも働きうるからだ。
だから守るし離れる。磁石が反発するように相手の動きに合わせて下がれば常に同じ距離を保てる。
彼女の過去がどういうものだったかはわからない。
しかし彼女が彼女として見られていた機会というのは彼女をみるに決して多くはなかったはずだ。だから彼女は手に入れた自分との距離を守りたかったのだ。
でも、人間の距離というのは離れて終わりというわけではない、何気ないことでつながりもするし、何もしなくても何故か離れていくこともある。彼女にはそれがわからなかった。
ゆえに自分の言葉で枠組みを与えられたとき彼女は孤独の呪縛から解放されたことに安堵したのだろう。
離れていく磁石も枠の中ではその外へはいけないように、彼の「ここにいる」という言葉が精神的な距離は抜きとして、物理的な距離限界を彼女に約束させたのだ。彼女は今その希望に縋っている。
さてどうしたものか。
もともとただの孤児院にぽいっと預けるのは問題があると思っていたが、彼女の厄介ごとが仮に解決したとしてもすぐにさよならというわけにはいかない。
シオンが予想するに彼女は自分に現在依存している。その要因は、この道中誰一人とも会っていないことが挙げられる。
このままだとうぬぼれかもしれないが、彼女は自分との距離感だけを気にするようになるだろう。孤独から逃れるという原初の目的を強固に持ち続けるならば、自分といればひとまずその問題は解決されるからである。
彼女の中での価値観が完全に決まってしまうデッドラインまであとどれくらいかはわからないが、早いとこ他人との交流をしなければ彼女にとって良いことにならない。
その意味でも町が近づいているというのは僥倖だった。
(まあ、交友関係がまともになれば、俺から離れていてもこの顔じゃどこでもやっていけるだろ)
下心ありきかもしれないが、きっと彼女はちやほやされるに違いない。どんな形であれ自分を認めてくれる人がいるということは彼女の価値観を変える一助となるはずだ。
もっとも、変なことにならないように彼女に世の酸いも甘いも教えておかなければならないとは真剣に思うが。
しかし本当に誰も通らないとは不可思議を通り越して不気味だ。何かしらの規制がはられているのか。
その原因は意外にも早くに判明した。
「もうすぐ町か?」
シオンは横を見ながらつぶやいた。その視線の先には祠のようなものがあった。ずいぶんと風化して今にも崩れてしまいそうである。
実はこのようなものが道中何個もあった。これはオドポストと呼ばれるものでよく使われる街道に置かれているものだ。オドポストは等間隔に並んでおり、これを見て旅人は自分の速度を把握する。
シオンが数えて計算してみたところ地図上ではもう間もなく見えてくるはず。しかし国の中枢が持っているような軍事機密レベルの精巧な地図ではなく、母親がお使いする子に持たせるものに毛が生えた程度しかなく信頼性は低いというべきものである。
それでも誤差はそれほどひどくはないはずで、悪くても歩いて一日二日の違いだろう。…結構ひどいかもしれない。
「だいぶペースが速いな。ニーナ大丈夫か?気分が悪いなら言えよ」
「ん。平気」
その言葉に嘘はなく足取りも軽かった。その足にはシオンの靴があった。
シオンはそれを視界に入れるとバレない様に心の中でため息をついた。彼は裸足である。
この裸足もニーナの食欲と同じく厄介だった。
舗装された道と言ってもあくまで馬車が通りやすいようにしたものである。鋭くとがった小石がそこら中にある。そこを裸足に慣れていないものが歩いたらどうか。結果は言うまでもない。
初日は皮が裂け血があふれ、ひどいありさまだった。それゆえ大量に消費し回復しなければならなかった。それがしばらく続き、ようやく度重なる損壊と回復に体が順応し始めたのはつい昨日の事だった。足の裏に分厚い皮の層ができたのである。
これでようやくまともに歩けるようになった。ペースが速くなったのもこれが一つの要因かもしれない。
しばらく歩いているとまたオドポストが見えた。
「やっぱり速いな、本当に今日中につくかも……ん?」
シオンが立ち止まると何かの異変を捉えて右手に広がる雑木林の奥を訝し気にみる。何があるのだろうとニーナもその視線を追った。だがただ木が見えるばかりで、それが交差している奥は全くの闇だった。
しかしシオンは何かを捉えているようでじっとその場から動かなかった。
「こいつは……襲われている?」
「?」
ニーナはシオンが何を見ているのかさっぱりわからなかった。
「ニーナ少し道をそれるぞ」
何が起こるのか分からないままに、ニーナはコクリと頷いた。シオンが固い顔をしたまま横道に入っていった。ニーナもそれに続く。
森の中の道とも言えない道を進んでいくと、シオンが止まる。
「……やるしかなさそうだ」
そう言ってシオンは腰に下げていたホルダーから例の金属製の箱状のものを抜き出す。ニーナは初めて見るので、視界に現れたその美しい物体に目を奪われた。白金よりも純粋で鉄よりも固く金よりも人の心を奪う。まさしくすべての金属の長所を集めたかのような得体のしれない物体。
それが今シオンの眼前に構えられいた。
「ニーナ、耳をふさいで後ろを向いて」
ニーナは何が起こるのか後ろ髪が引かれる思いでくるりとその場で後ろを向くと、細く白い指で耳の穴をふさぐ。
「大銅貨一枚」
そうシオンがつぶやく。そして、そっと引き金を引く。箱の前方にあるたった一つの穴から光線が放たれる。血よりも赤い光。それが耳をつんざくような悲鳴を残して彼方へと進んでいく。木々にとまっていた鳥が恐れをなして一斉に飛び立った。
耳をふさいでも届く轟音にニーナは肩を震わせた。
何がおこっているの?
混乱するニーナの肩にシオンの手が置かれた。振り向いて目を見開いた。
しゃがみこんでこちらを覗き込むシオンの肩越しから見える景色。シオンの真後ろの木にこぶし大の穴が空けられていた。その穴の出口の先はまた穴につながっており、その先もまた。
それがニーナの視界が及ぶ限り延々と続いている。穴の淵は黒焦げておりシュシュウと煙を上げていた。
すべての穴は均一の大きさになっている。それがどれだけの威力によってなせる技かはニーナにもおよその見当がついた。そしてそれが尋常ではないことも分かった。
木が割れもせず、倒れもしない。収束された高威力の暴力が振るわれた跡だった。
ニーナは戸惑いながらシオンに視線を移した。
「……ッ!?」
シオンは何かこみあげてくるものを耐えるように唇を固く引き絞っていた。シオンの弱弱しく不安げに揺れた瞳にニーナは息が詰まった。シオンはニーナが見ていることに気付くとさっと顔をそむけた。
「あ…………」
こんな時どう声をかけていいかわからなかった。情けなく喉から声が漏れたが意味を持つ言葉となることはなかった。
「…行こう。まだやることがある」
苦々しく吐かれた言葉にニーナは何も言えずに頷かざるを得なかった。
「……」
無言で歩き始めるシオン。その背中が怒っているように見えてニーナは近づき難いものを感じた。だがその背中が遠ざかることには耐えられなかった。小走りでその後ろにつく。
シオンはまっすぐ穴が続くほうへと歩いていく。このさきにはきっとこの破壊の結果があるのだ。
ニーナは何故か緊張していた。心音がやけに頭に響く。
シオンが辛そうだった、その事実だけがニーナの脳内でリピートされていた。
◇
ほかの木より頭二つ分も高い大きな木があった。大人数人が手をつないでようやく囲めるといった直径の大木だ。長い年月を経たことを証明するようにその表皮には苔がむしていた。
あまりにも高いその木のせいで日光争奪戦に勝てなかったのかほかの木々はなく、そこは大木を中心として円形に開けていた。大きく広げた枝葉の間をぬってところどころ光がまっすぐに差し込んでいたが全体としては僅かな光量だった。
地面はほとんどが日陰になっているせいか大木の表面と同じく苔が絨毯のように埋め尽くしている。
そこに少女がへたり込んでいた。血にまみれ、細身な体に不釣り合いな剣をもって、死にそうなほどあえいでいた。死にそうな、そう彼女はまさしく死がかすったのである。
彼女がもつ剣が向いている先には、大きな頭があった。フォレストパンサー。それがこの命をなくしたモンスターの名前である。
その名の通り森に隠れ住む人の五倍はあろうかという大型モンスター。猫科特有の鋭い牙と爪で獲物に忍び寄り圧倒的な臂力により瞬殺する。暗緑色の毛と相まって視認することは難しく、よしんば事前に発見したとしても見かけに似合わず俊敏な動きで距離を詰められなすすべもなく嬲られる。
まさしくこの森の生態系の頂点に立つ王である。
それが少女の目の前に眼光を消し横たわっている。頭と胴は二つに分かたれていた。かつて繋がっていた首の断面は熱で焼かれており、焼けた肉と毛が悪臭を放っていた。
少女の剣には血糊が少しも付いていない。彼女は怯える目で腰が抜けたまま剣を構えた。絶えたモンスターではなく木々向こうから向かってくる気配に向かって。
少女の三角形の耳が頭上でピンと立っていた。おそらく彼女自身の血によって赤く染まってはいたが、わずかに金色の毛並みが見えていた。
それがせわしなく周囲の音を聞き洩らさないようにくるくると動いていた。
彼女の耳がはっきりと音を捉えた。足音だ。柔らかい音と固い音。柔らかい音の間隔は広く、固い音の間隔は狭い。
しかしどういうわけか固い足音がするたびに微かにしゃりしゃりといった音がする。
男と子供?正体がどうやら人間だとわかったが、彼女は警戒を緩めない。さきほどから何度も立ち上がろうとするが出血と先に体験した恐怖とで足に力が入らない。
足音が近づいてくる、匂いもはっきりとしてきた。
間違いない。男と、少女。二人がこちらに来ている。
味方か敵か。毒の臭いはない。血の臭いは、自身の血のせいでわからない。情報が足りず少女のうちには焦燥が広がった。
そして姿が見えた。一言でいえば妙な組み合わせ。不吉な黒い髪にさえない顔の青年と粗末な衣服と相反するように整った顔を持つ少女。
「おーい、大丈夫ですかー」
あちらの方も少女の姿が視認できる距離になって声をかけてきた。敵意がなさそうな間の抜けた声である。
少女はそれに急に毒気を抜かれ肩の力が抜けた。正直気を張っているのもつらかったのである。あとは彼女自身の感が敵ではないと告げていた。彼女は自分の感覚に素直に従うタイプである。
「えぇなんとかね」
剣を下ろして少女は答えた。
「そうか。立てそうか?」
近づいてきた青年が尋ねる。少女は首を振ると肩をすくめて見せた。しかし力が入らずわずかに肩が動くだけにとどまる。
「無理そう。悪いけど向こうの方に私のバッグがあるから持ってきてくれない?」
「バッグ……あぁあそこに見えるやつか。わかった」
少女が指さした方向には確かにバッグがあった。青年は快く頷くとバッグのもとへ向かう。バッグは口があいており、中身が散乱していた。液体が入った瓶もいくつか割れていた。青年はそれらも丁寧に拾い集めると少女のもとに持ってくる。
「ありがと。……回復薬は結構ダメになっているみたいね」
少女は無事な液体の瓶を手に取ると、先を手で折って口を付けた。すると彼女の体に無数にあった裂傷にわずかに肉が盛り上がる。回復には痛みを伴うので少女は顔をしかめながらも、次の瓶を取り出す。
そうして無事だった五つの瓶すべてを飲み干した少女の体には傷が無くなっていた。しかし血は失ったままなので顔色はすぐれない。
「ふぅ……本当に助かったわ」
「バッグをとるぐらい誰にでもできるさ」
肩をすくめた青年の発言に少女の目が鋭く光った。
「あそこのあれ、あんたがやったんでしょ」
少女が言ったのはフォレストパンサーの頭だった。青年は少女の言葉には動じなかった。
「だとしたら、お礼になにかくれるか?」
「えぇ、命の恩人ですもの。もちろんよ」
青年は無言で少女の足元からバッグをとると金の入った袋を取り出す。ここで少女の目に敵意が宿った。それに青年の隣に無言で立っている少女が反応する。しかし敵意の先にある青年はそれにも動じることなく中身を確かめると、慎重に手を差し込んで二枚の大銅貨を取り出した。
「もらうぞ」
「え…えぇ、それぐらいなら」
青年の取り出した金額が予想以上に低かったために少女は面食らった。財布を取られたときには全額かそれに近い金額をとられると思っていたのだが、大銅貨二枚は相場からも安すぎる。
敵意むき出しから一転、こいつは相場を知らないのか、だとしたらだましているようで申し訳ないような気がしてくる。
だが、大銅貨二枚を取ったということは
「認めるのね。あれをやったのが自分って」
「ん…あぁ」
ずいぶんと適当な返事に肩透かしを食らった気分だが、彼は認めた。
さっきまで自分を殺そうとしていたフォレストパンサーを見る。食らいつこうとぽかんとあけた口のまま息絶えている。
死んでしまえばただの物だが、生きているコイツと対峙した彼女はその時コイツがこうなるとは想像もできなかった。絶対的な強者として立ちふさがっていた。
それが一瞬で命を刈られた。横から現れた閃光によって。
それを放ったのがこの青年だというのか。
「どうやったの?」
青年はそれには答えなかった。固い顔で手を差し出す。少女は釈然としないながらもその手を取って立ち上がる。青年の手は思ったより柔らかかった。武器を握ったことがないような傷一つない手であった。
「…少しフラフラするわ」
少女は頭を手で押さえながらうめく。急に立ち上がったもので頭痛とめまいがしたのだ。
「泊まっているところは?」
青年が少女を支えながら尋ねる。少し頬が赤くなっていた。少女はおや?と思った。どこか自分を触る手も恐る恐るといった感じだ。
「この先の町よ」
「…なら俺たちと一緒だ。その調子じゃまともに歩けなさそうだから手伝うよ」
ぷいっと顔を背けながら青年は話す。先ほどの探りを警戒して?そうではない。その証拠に彼の耳はこれ以上ないくらい真っ赤に染まっていた。
何かに勘付いた少女が体をわざと押し付けると、限界があると思っていた赤みはますます紅に染まり、もう血が滲み出ているのではないかと思うほどになった。
少女は体の疲労を忘れていじの悪い笑みを浮かべた。青年は顔をそらしているのでそれに気が付くことはない。
「おんぶしてよ」
「は?」
「だから、歩くの辛いからおんぶしてよ」
青年は何かを言おうとしたが、それよりも早く少女がおよよと崩れ落ちた。白々しい演技である。
その意図にさすがに気が付いたが、同時に自分がおんぶをしない限りこの女はてこでも動かなさそうなことを察した青年はため息をつくと背中をみせてしゃがみこんだ。
「ありがと」
急に元気になった少女はひょいっと身軽に青年の背に乗ると、わざと青年の横顔に自分の顔を寄せてお礼を言う。
彼女がなにを考えこうしているのか分かっていながらも青年は赤面という形で反応せざるを得ない。
「てめぇ…命の恩人に向かって」
文句を垂れる青年。しかし当の本人は彼の背に乗って意気揚々と「レッツラゴー!」などと抜かして居る。足をバタバタするものだからバランスが崩れそうになるし時折膝に少女のかかとがあたって痛い。
猛烈にこの場に置き去りにしたい衝動に彼が駆られたのも無理はない。それを抑えた青年の精神力は相当なものだ。
「くそっ!じゃあ立ち上がるぞ」
悪態をつきながら腰を上げたところではたと気づく。重大な事実が判明した。
「ん?ん?どうしたおぉ~?」
彼女も分かっているようだ。ゲスい声でおちょくってくる。彼女は調子にのるととことん乗るタイプである。乗った先に大波が待ち構えていようともとにかく乗るのが彼女である。人の弱みを見つけるととことんおちょくるのも彼女である。
きわめて煽ることにたけている女であった。
「ほらぁはやくぅ。おんぶしてよぉ」
ぐぬぬぬぬぬ。青年は歯噛みする。しかしここでひよっていては彼女の思い通りになってしまう。
震える手で彼は腕で彼女のお尻を支えた。
途端普段は鈍感な彼の腕の神経が一斉に敏感になる。ふにゅんとした柔らかさの奥に鍛え上げられた筋肉の芯を感じる。布越しに感じる温かさ。それらを意識すると青年もなんだかくらくらしてきた。
「あん」
「お、おまっ変な声出すな!」
腕を少しでも動かすと耳元で嬌声が聞こえる。これは何の拷問だ?青年の額には脂汗が浮かんでいた。
それにさっきから無言を貫く貫頭衣の少女がなぜだか怖い。
「くっ…離れろ。背負いにくい」
「そしたらバランスが崩れるでしょ?くっついたほうが楽よ?」
ぎゅうっと少女が首に回した腕の力を強めてくる。体が密着して熱を感じる。
「ほれほれどうだぁ~。幸せか?ん?幸せか?」
「う、うるさい」
「こうしてアタシみたいな美少女に胸押し付けられてんのよ?幸せじゃないはずないじゃない」
胸…。どういうわけか彼の数倍にも鋭敏になった背中の感覚は熱とゴツゴツした感触以外の情報は伝えてこない。少女は胸当てのような防具はしていなかったように見えるが……。
「………そうだな」
「そこは赤面しろっ!!!」
ガスッと青年は理不尽にも脳天にチョップをされた。