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インモータル/セクステット  作者: はいろく
1/11

デアイ



 降りしきる雨の中。夜の森は不気味なほど暗く、光はない。あるとすれば一瞬の雷光のみ。暴力的なまでに強い雨が滝のような轟音を放っていた。


「追え!!」


 雷鳴に交じって何者かの怒鳴り声が聞こえた。声の主は馬に乗っていた。撥水性のあるコートを身にまとい、ぼろ布を顔に巻き付けているため顔まではわからない。声からして男だろう。


 男はマチェットと呼ばれる鉈を手に持っていた。片手で手綱を器用に操り馬を駆る。その後ろにはさらに四頭の馬が見える。

 全部で五頭の馬に騎乗した男たちはみな殺気と興奮と粘つくような欲を顔を見なくてもわかるほど溢れ出させていた。


 彼らの目的は彼らの目線の先にある馬車。二頭の馬が牽くタイプの至ってシンプルなつくりの馬車である。


 しかし、本来幌で作られる荷台は木製でできており、その点で通常の物とは異なっていた。木製は重量が重くなるため輸送には向かないのである。だが、あえてそうする理由があるとすればそれは何であろうか。

 

 輸送以外、たとえば移動用の馬車は客車部分が木製になっているものもある。確かにその場合もあるが、この馬車の荷台部分はまるで檻のように窓もなく格子もなく、密閉された箱といった感じだ。およそ「人」を乗せるものではない。


 まるで積み荷の中身を絶対に見られたくないかのようだった。



「ひぃっ!!」


 馬車を操る男は必死の形相で追手から逃げていた。だが、それも直に終わる。道が開けてきたのだ。その途端、追手はスピードを上げる。並走状態に持ち込むようだ。


 それに馬車の男も当然気づいた。それぐらいの冷静さはまだ残っていたらしい。震える手で手綱を操り蛇行することでなんとか阻止しようとする。

 しかしぬかるんだ道での蛇行はうまくいかず、さらには失速という事態を招いてしまった。車重があれば加速もままならない。

 

 馬車の男はぞわりと背筋が冷えるのを感じた。いやだ。まだ死にたくない。

 なにか、なにか打開策はないかと男はあたりを見渡す。

 だが。


「あっ」


 間抜けな声を上げた男の目に映ったのは自分に向かって弓をつがえている追手の姿だった。





「手こずらせやがって」


 だみ声の男がそう言って足元に転がっている男を蹴った。ひっくり返され仰向けになった男の顔には恐怖が張り付いていた。右目を貫通した矢は脳を貫通しており、即死だったことがわかる。

 苦しまずに死ねたこと、それだけが唯一の救いなのだろうか。


「奴は?」


 だみ声の男は死んだ男の物品をしゃがみこんで物色しながら、後ろに立つ三人の手下に尋ねた。


「馬車にうまく乗りました。しばらくしたら止まるでしょうぜ。ボス。……こいつは大したものは持ってないようですから先に行きましょうよ。あいつが先に何かくすねないか気になるんですよ」

「ん、まあ、確かにそうだな。最悪馬車ごと盗みやがるかもしれねぇ、早いとこ行くに越したことはねぇか」


 遺品の中で唯一高そうなロケットをポケットに忍ばせると、だみ声の「ボス」と呼ばれた男は立ち上がり、すぐそばにいた馬に乗る。


「さて、久々の大物だ。何が出るやら……」


 男はそうつぶやいた。それにニヤリと一人が笑う。


「サンテ商会の荷物で訳ありですぜ?何が出たって…ねぇ?」

「あぁ、そうだ。やばいものであることは違いねぇ」


 だみ声の男はそういうと馬を走らせた。遅れて手下たちも付いてくる。雨脚はさらに強く、鋭くなり、痛いほど体を打ち付けてきた。コートをこじ開けるように冷たさが身を削る。

 

 しかし男たちは殺人の興奮と積み荷への期待でそんなことなど気にも留めなかった。


「これからどうするんです?」


 一人が前を行く男に尋ねた。豪雨の中なので、自然と声が大きくなる。男が振り向いて何か言ったがよく聞き取れない。仕方なく、馬のペースを上げて男に追いついた。


「てめぇ!馬に不必要な無理させるんじゃねぇよ!!」


 男は追いついてきた仲間を一瞥すると怒鳴った。彼らにとって馬は稼業を営む上での大事な道具である。長時間の追跡と最悪なコンディションで、さすがに馬も疲労していた。

 そんな状況での急加速はいらぬ事故を招くことにつながる。男はそれを危惧したのだ。手下は言葉に詰まる。


「まぁいい。はやる気持ちはわからんでもない。安心しろ、どう転ぼうが必ず金は手に入る」

「?」

「俺らの目からでも価値のありそうなもんは当然売っ払う。そうじゃない場合は交渉するのさ」

「交渉ですかい?」

「なんたってあのサンテ商会が極秘裏に護衛も雇わずこんな夜中に運ぼうとしたもんだぜ?財宝じゃなかったら、考えられる可能性は一つしかないだろ」


 おそらくそれは「知られたくないもの」。

 手下の一人もその答えにたどり着き、布の下で納得の表情を浮かべる。


「脅すんですね?」

「人聞きの悪い。あくまで交渉だ。だが、なにせ大商会、金にならないはずはない」


 一度の脅しでもたんまり儲かるだろうが、二度三度ぐらいは続けてもおいしい思いができるかもしれない。さすがに何度も繰り返すと手痛いしっぺ返しを食らうだろうから、それぐらいがギリギリだろう。


 一度売れば終わりである商品とは違って情報は何度煎じてもそこそこの利益を生む。積み荷が何であっても金にはなるだろうが、できれば金銀財宝よりむしろ「弱み」であってほしいと男は思っていた。


 男とその仲間は並走しながら進む。やがて道から外れた木々の中にある少し開けた場所に馬車が止まっているのが見えてきた。


 暴走を防ぐため繋がれていた馬は放されていた。馬も御者もいないそれはまるで棺桶か何かを男に錯覚させた。ふとよぎったそんな不吉な感覚を男は積み荷への期待で無理に塗りつぶす。

 

 男たちは馬車の後ろに馬をつけると、ぬかるんだ地面に降り立った。靴がずぶずぶと沈み、足を引き上げるたびに粘着質な音を立てた。それに辟易しながら男は、馬車の前でしゃがみこんでいる今まで別行動だった手下の後ろに立つ。


「どうだ?」

「……なかなか手ごわいですが、もうすぐいけると思います」


さすがにカギがかかっていたようだ。しかし魔術的なロックのほうは掛かっていないらしくで簡素な錠前がついているだけであった。先行したこの手下は細い針金を使ってピッキングを行っていた。念のため罠を警戒したが、探知に引っかかるものはなかった。

 男は何か妙な違和感を感じた。


(……積み荷を見られたくないなら高度な魔術封印の一つや二つあると思ったが、こいつは…罠か?)

 

 まるで開けられてもかまわないかのようなカギの付き方。

 男たちが見守る中しばらくしてカチッという子気味良い音がした。豪雨の中でその小さな音がはっきりと聞こえたことにそれぞれ驚きながら無言で目を見合わせる。


「開けます」


 扉は観音開きになっていた。雨を吸ってわずかながら重くなり、そして体積が増加している扉をぐっと力を込めて開ける。男たちは中身を見ようとさりげなく立ち位置を変える。


「……」


 金か、宝石か、はたまた機密文書か。だが男たちのニヤケ顔はそこで固まった。


「どういうことだ……?」


 一瞬の間のあと、ようやく男が声を発した。男はひどく自分ののどが枯れていることに気が付いた。夜の雨の冷たさと対抗するように自分の中にふつふつと湧き上がる感情を感じた。


「どういうことなんだよっ!!!!」


 男の叫びを聞いて仲間がびくっとする。その反応がさらに彼の激情をあおる。男が土を蹴りあげた。ぬかるんだ土はたやすくブーツにすくわれ、彼の目の前にいた扉を開けたままの恰好で呆然とする手下にかかった。それでも反応がない。

 

 男は背中を見せているそいつに近づくと左肩に右手をかけ、思いっきり引いた。勢いで、ぐんと振り向くのに合わせて男は強烈な左ストレートを顔の真ん中に食らわせる。鈍い音がした。後ろに倒れた手下は荷台のへりに頭をぶつけてから崩れ落ちる。


「くそっ…!!」


 ジンジンと波打つような痛みも煩わしい。男は無言で倒れた手下に近づくと、胸ぐらをつかんで恐ろしく静かな声で言った。


「…どこに隠した?」


 手下はおびえた目で男を見ると首を横に振った。男はその目に怯え以外の混乱も見て取った。そしてそれが殴られたことによるものだけではなく、本当にこの事態について訳が分からないことによるものだ、とも直感で感じ取った。

 

 彼に非はなかった。だからと言って男が謝るはずもなかった。

 

 舌打ちをして手下を突き飛ばす。実際手下が隠していないことは薄々気が付いていた。なぜなら手下があの時間で隠すことができる大きさであれば、サンテ商会はわざわざこんな目立つ方法で運ぶ必要がない。普通に個人が身に着けるかして運べばよいのだ。

 仮に結構な大きさのものを隠すことができるのだとしても、これからしばらくは一緒に行動するので手下がすきを窺って隠し場所に取りに行くということは考えにくい。

 

 つまり手下を殴ったのは完全に八つ当たりで、なぜこの手下だったかといえば近くにいたことと、日頃の鬱憤があったからである。手下からすれば完全にいい迷惑であった。


「……ガセってか…畜生」

 

 男はそうつぶやいた。

 この事態に陥ったのは「情報提供」によるものだ。こういった稼業は案外、信頼を大切にする。「情報提供」を行った者とは過去幾度か仕事をしており、何度もおいしい思いをしてきた。そのため今回の件も成功すると嵩をくくっていたのだが……。

 

 もちろん信頼だけではなく、しっかりと吟味して引き受けてはいる。今回の案件、一つでも情報と違うところがあれば手を引くつもりであった。しかし護衛がいないという情報も、ルート上に村や町が存在していないという情報も、何一つ違うところはなかった。

 

 それなのに「もの」だけがおかしい。

 

 それで奴に何のメリットがある?契約条件は「もの」の価値の15%を「情報提供者」に後払いで渡すことになっている。こいつにそもそも価値がるのか?

 

 だがわざわざガセネタで信頼を落とすメリットがない。罠の可能性も考えたが、不慮の事態に備えて設置していた生体感知器に今のところ人が引っかかった形跡はない。

 

 となると、「情報提供者」すらこのことを知らなかったか、あるいは本当にこの「もの」が目的であったのか。これは面倒な交渉が必要だな。


男は恨めしそうな目で荷台の奥を見つめた。瞬間、雷鳴がとどろいた。その一瞬の光に荷台の奥が照らされる。そこには馬車の隅に力なく寄りかかり、こちらをじっと見つめる子供がいた。




 「参ったな……」


 いくら近道とはいえ、ここをこんな夜中に抜けようなんて逸るんじゃなかった。頬をたたきつける雨を、意味はないと知りながらも濡れた袖で拭いながら若い男がぼやく。

 

 男は皮をなめしてつくったレインコートを擦り切れボロボロになったマントの上から羽織っていた。

 

 フードをかぶっているためその顔の詳細はわからないが、黒い髪が一筋顔を出していた。後ろには驚愕に値するほどの大きなリュックを背負っていた。中に入っているのは食料など長期の旅に必要なもの一式である。

 

 本来馬車に積むような量を背負っているためにその重量はかなりあるのだが、それを背負っていることから彼の力は相当なものだということが窺えた。

 

 簡易な雨具しかもっていなかった彼の体はびしょ濡れだった。強く吹く風も相まって体感温度は歯を鳴らすほどまでになっていた。しかし雨をしのげる場所など見つかるはずもない。


 それでも必死に探すが、その間にも体の熱は恐ろしい速さで奪われていく。体力も奪われていたし今更走って温めるという気力もなかった。

 

 いざとなったら懐の小瓶があるのだが、できれば使いたくはないのだ。

 

 目視で見る限りこの先に身を休ませられそうな場所はなく、イチかバチかで彼は横道に入ることを決めた。


「参ったな……」


 しかし彼はそのあとしばらくしてまた同じセリフを吐くのだった。


◇ 


少女はあいまいとした意識の中で、自分を見る男たちを見ていた。


 (今度は誰が私を買うの)


 少女は奴隷だった。無理やり奴隷にされた時から散々こき使われ、動けなくなるとまた売り飛ばされた。様々のところを転々とし度重なる重労働と空腹で彼女の体と精神はボロボロだった。 次、働くときが自分の最後になることが彼女にはわかっていた。


 自分の最後を思うが、別に悲しくともうれしくもない。彼女が奴隷になり、日々肉体と精神を苛め抜かれた結果、彼女はおおよそ感情と呼ばれるのを捨てた。奴隷になる前の記憶も、思い出すと辛いためとっくの昔に忘れた。


 それでも自ら命を絶たないのは不思議だった。


 (私は何故生きようとしているの)


 記憶を無くす前、どれほど死んで楽になろうと思ったことか。それだけは覚えている。しかし、それが実行に移されることはなかった。今でも食事を一食でも抜けば死ねるかもしれないのに、食事とも言えないものに飛びついて……。


 (何をそんなに生きたいの?)


 過去幾度となく繰り返してきた自問自答の答えは死が間近に迫ったとしても出てこない。


 (いったい私は……)


 段々と瞼が重くなってくる、どうやら働かせられる前に限界が来たらしい。閉じていく目に外の雷光を映しながら、少女は。


 (……何のために生まれてきたの)


 再び答えの出ない問いを繰り返す。



(ここは……)


少女は目が覚める。目の前には見慣れた馬車の天井。


(死んだの?)


最後の記憶。彼女は死の淵に片足を突っ込んでいたはずだ、となるとここは死後の世界ということになるのだろうか。死後の世界といっても現実と同じなのだな、と思い体を試しに動かしてみる。


 死ぬ前には動かすこともできなかった体が動いた。この変化が死んだことを証明しているようだった。


 死後の世界は痛みや苦しみ、空腹はないと聞く。ならば、空腹と疲労で動けなかった自分が手や足を動かせるのは当然と言ったら当然なのか。しかし死んだからといってどうするわけでもない。今のところ彼女が思うに死後の世界とは、現世の延長線上にあるもののようだ。


(死んだけど何も変わらない)


もっとも、奴隷として自分を苦しめる者もいないわけだから変化がないわけではない。

けれども少女は変わらない。彼女は一人だ。

 

 急に胸が苦しくなってきた。その変化は突然に現れた。

 

 一人。

 

 自分が心に浮かべたその言葉がこれほど重く冷たいものだと彼女は知らなかった。痛みを伴う冷気が身体を、心を侵食する。

 

 思わず今はよく動く両手で己が肩を掻き抱いてみても温まることなどなかった。むしろそれはさらに自分しかいないという事実を突きつけてくる。

 

 なんの意味もなく生きて、死んで、それから先もずっとこのまま。今ならわかる。自分は死に救いを求めていたのだと。この永遠に続くとも思われる苦しみからいつか解放され、そして、もうそれがどういうものかも思い出せない温かさにあふれた世界へ旅立てるのだと。

 

 体は死を拒絶する一方、心はそれを求めていた。狂信していたといってもいい。だが、現実はこの様だ。彼女を、彼女として受け入れる世界なんてありはしなかった。


「うっ……うぅぅ」


気が付くと泣いていた。涙なんて奴隷になって心を殺してから流したことなかったのに、死んでから流すなんてと少女は皮肉に思う。だが、ここには泣いたからといって鞭打つ者すらいない。あふれる感情のままに彼女は泣いた。


 当然に死というゴールが存在しない死後の世界。ならば救済はないのか?ずっと未来永劫この虚無の寒さとともに存在しなければならないのか?

 

 誰が私を見つけてくれるの?何のために生きてきたの?だれか私を……。少女が苦しみに押しつぶされそうなその時。


「ど、どうした?」


 

若い男の声。泣いていた少女がはっとして顔を上げるとそこには一人の青年がいた。見慣れない黒い髪。どこか普通の人とは趣が異なった顔に樫のような浅黒い肌をしていた。


「痛いところがあるのか?



これが彼女と彼の出会いだった。


「あ…あっ」


 彼女は言葉を忘れていた。命令だけが絶対の口答えすら許さない環境が彼女から言語を奪っていた。少女はそれでも彼に自分でもわからない何かを伝えようと、彼をつなぎとめようと必死だった。

 

 赤子のように意味のない音を発する彼女をしばらく青年は見ていた。やがて青年は覗かせていた顔を引っ込めると、どこかへ消えた。

 

 少女は戸惑う。なにか怒らせてしまったのだろうか?興味をなくしてしまったんだろうか?もう、何でもいい。どんな形でもいい。自分に関わってほしい。

 

 少女は足に力を入れた。力強いとは程遠くとも、歩けるぐらいの力はあった。膝を立て、ゆっくりと起き上がる。少しふらついた。だが、彼女は青年が消えたほうに向かってゆっくりと歩きだす。たとえその先に生前よりもひどい未来があったとしても。

 

 しかし彼女には根拠のない、だけれども確かな感覚があった。それは自分をさげすむ無数の目を感じていたからこそ分かるものであった。

 

 馬車と外とのちょうど境界線。外は昼だった。差し込む光がその位置に立つと一層強く感じられた。

 

 目を細め空を見る。森の木々の間から青が見えた。どこまでも高く、奥の見えない青に彼女は目を奪われた。


 その時パキッと何かが子気味良く折れる音がした。見ると、あの青年が拾った小枝を折って中をあらためていた。時折、折った枝を投げ捨てている。

 

 彼女の目と彼の目があう。一瞬彼女の目は大きく開かれたが、青年の方はちらりと見ただけですぐにまた作業に戻っていった。彼女は声をかけることもできずにただじっとその作業を見ていた。

 

 しばらくして彼が集めた枝は結構な量になっていた。ここでようやく彼女は青年の意図に気が付く。思ったとおり、彼は石を敷き並べた上に腕いっぱいの枝を落とすと懐から出した道具で火をつけ始めた。白い煙がわずかに出て、それからだんだんと勢いよく燃え始めた。

 

 青年は火が出たことを確認すると彼女の視界の及ばないほうへ行ってしまった。彼女はあわてて馬車のへりにしゃがみこむと、恐る恐る地面に足を延ばす。雨を吸った地面はひんやりとしていた。そのまま体重をかけていくとわずかに沈み込む。泥が指の間を通り抜けていった。

 

 泥の上に彼女は立つ。馬車の中では感じられなかった風が頬をくすぐった。そして風とともに匂いが運ばれてくる。嗅いだことのない匂い。だが不快ではなく、むしろ今まで意識してこなかった「胃」という器官が主張し始めるほどであった。


(おなかは空くの?)


 死後の世界でも空腹が存在する、それは問題である。この世界でも食料は自給自足、あるいは生前のころの社会のように売買で調達するならば、体のダメージは無くなったとはいえ、そもそもが非力な体、狩猟や十分に稼げるような労働は不可能である。

 

 そして空腹は、当然だが満たされるまで延々と続く。死後故、「死」が存在しないとしたら。自分は未来永劫その苦しみを味わわなければいけないというのか。

 

 自然と視線が匂いのもとへといく。その先は青年が持つ鍋であった。どうやら彼は馬車の横で作業をしていたらしい。


「あ、ちょっと待っていてね」


 青年が突然話しかけてきた。



 横道にそれた後。雨風をしのぐのにちょうどいい馬車があったので中に入ってみると貫頭衣を着た子供が倒れていた。それを見たとき青年は激しく動揺した。粗末な服を着ており、汚れで髪の色はわからない。肌に生気はなく土色であった。

 

 扱いに困ったが考えても仕方のないことだとあっさり思考をやめた。疲れからかもしれない。

 後から考えると決めた以上そうとなれば後は体を休めるだけだ、とその子供の隣に座り込むが、はたと気づく。

 

 大丈夫か?

 

 疲労で思考がマヒしていたらしい、まず最初に確かめるべきことを怠っていた。さすがにこればかりは面倒だと投げやりにしてはいけない。そう思い、青年は子供の口元に手をあてがう。かすかに吐息を感じる。しかし新たな問題に気が付いた。ひどく衰弱しているようだ。手のひらに当たる呼吸は弱弱しく不規則だった。見ると全身にひどいあざがある。

 

 この子の受けた暴力を想像し、青年は顔をしかめた。


 ともかく医者ではないが「まずい」状態であることは一目瞭然だった。彼に迷いはなかった。すかさず青年は懐から小瓶を出すと、栓を抜いて中の液体を子供の口に流しいれる。


 異物を流しいれられた喉が小さく動いた。

 すると、


「……なんど見てもなれないなぁ」


 子供の体に無数にあった切り傷やあざが逆再生をしているかのように戻っていく。小瓶の中身がなくなるころにはすっかり傷は無くなっていた。

 呼吸にも力強さが戻ってくる。頬に赤みが差し、十分に「生きている」状態になった。


「さてと、寝るかな」


 ひと段落着いたので青年は横になる。驚くべきことに、わずか数秒後規則正しい寝息が聞こえてきた。屋根を打つ雨音が気にはならないのであろうか。だが、しばらくするとその音は小さくなっていく。断続的に光る雷も、身を凍り付かせるような風もなくなってきた。静寂と一切の光を排除した闇があたりを包む。

 

 彼は子供に背を向けて寝ていた。その後ろ、つまり子供が寝ている暗がりに変化が起こる。


 質が違う、とでもいうのだろうか。暗闇の中にまた別の闇が存在していた。ゆらゆらと不規則に揺れていた「それ」は、しばらくすると意思を持ち始めたかのように一つに収束する。やがて子供の腕ほどになった「それ」はそろりそろりと寝ている青年のほうへと延びていった。

 

 腰に到着した先端は水が溝を流れるかのような滑らかさで、脇腹、肩甲骨、肩、そして首へと進んでいく。首に到着すると今度は鎌首もたげ、耳の真上に先端を持ってきた。当然下には耳の穴が。


 この異質なもののはっきりとした目的はわからないが、この青年の体内に何らかの影響を及ぼそうとしているのは確かだった。

 

 弱弱しい隙間風が吹く。それにあおられ「それ」がかすかに揺れる。揺れが収まるとそのことが契機になったのか、「それ」は一瞬だけぐっと力をため、ばねがはじき出されるように一気に青年の耳の穴へと飛び込んでいった。

 

 しかし、その進路は一本の指で断たれていた。その指の主、青年が起き上がって言う。


「寝耳になんとやらってか。まったく。せっかく気持ちよく寝てたっていうのに……」


 しかし返事はなく、むろん「それ」が発声器官をもっていないのもあるが、そもそもその姿は跡形もなく消え失せていたのであった。何も見えない虚空を青年は眺めて、ため息をつく。


「あ~あ、もう本当に」


 本日三度目の言葉を青年は


「ん?もしかしたら日付が変わってるかも知れないな」


 吐かないのであった。


 子供がこちらを見ていることに青年は気が付いていたが、まずは温かい食事だということで黙々と作業をしていた。いくら傷が回復したからと言って体力が元に戻ったわけではない。以前その体は細すぎるままであった。鳥の骨という失礼な言葉が彼の頭をよぎった。

 

 初対面の子供に対する接し方を青年は知らない。ましてや虐待されていたであろう子供など知る由もなかった。


 しかし、結局人間も獣であり、どんなに獰猛なワンコロも餌付けをすればおとなしくなるのだから、その理論に従えばいいのだろうという思惑のもと彼は水につけて柔らかくした干し肉をちぎっていた。

 

 温かい料理といっても贅沢なものでも美味なものでもない。青年がいつも食べている干し肉と薬草のスープである。青年はこれしか作れないのであった。

 

 しかしこれは仕方のないことだといえる。旅をする性質上、持ち運べる材料、調理器具は限定的になるし、食事を完全に栄養補給のためのものと割り切るなら、簡単にできるものがいいに決まっている。さらに言うなら本来人に対してふるまう類のものではないからして………

 

 と、青年は考えながら作業を続けた。

 

 そうこうしていると材料の処理が終わったので、鍋を持ち上げる。するといつの間にか地面に降りていた子供と目が合った。かと思ったが僅かに視線がずれている。視線を辿ってみると、その先は鍋であった。


(空腹時には五感が増すっていうもんなぁ)


 かわいそうだが、さすがに「はいどうぞ」とやるわけにはいかない。なにせ、食塩水に草と干し肉がぷかぷかと浮かんでいるだけなのだ。


「あ、ちょっと待っていてね」


 子供の肩がびくっと跳ねた。

 

 えっ?何?話しかけただけでこんな反応されるのか。子供の扱いに慣れない青年は内心泣きそうになる。誰か助けてくれ。

 

 しかしここは森の中。誰かが通りかかることはないだろう。


(なんとかするしかないか…)


 そうだ。スマイルだ。人類共通の友好の証。握手とハグもセットでつければ、いがみ合っていた敵同士も仲良くなる魔法のアクション。彼はさっそく顔の筋肉を総動員してにっこりと笑って見せた。


(ニッコリ)

(…ビクッ!!)


 まさかの怯え。どうしてだ。彼は焦る。

 

 そしてはっとした。

 

 そういえば聞いたことがある笑顔とは元来「威嚇」であったと。なんだそういうことか。政治家共のスマイルは「お前を蹴落としてやる」との暗黙のメッセージ、それなら頷ける。敵は敵だもんな。


 笑顔で争いがなくなるならとっくの昔に戦争という言葉は無くなっている。となると赤子が見せる表情もあれか「チチヲヨコセ…」という威嚇か。それをみて笑う親も「ダマレェ…」という……ダメだ、混乱している。

 

 それでもそれ以外の友好的アピールを青年は知らないので、ニッコリ笑顔を張り付けたまま鍋を火にかける。座り込みニコニコ顔で鍋をかき混ぜる絵はもはや不気味であった。

 

 やがてぐつぐつと煮立ってくる。同時にようやく料理らしい香りがあたりに漂う。

 

 青年は笑顔のままなので薄目で子供をみる。子供はただ黙ってこちらを見ていた。その目には空腹時の子供が見せる羨望というか、ねだるような感情は一切ない。指示があるまで待つ、そんな兵士然とした目であった。


 自然と彼の笑顔が解ける。その変化を感じ取ったのか子供の瞳の奥に強い怯えの揺らぎが見えた。

 

 青年はため息を一つつくと、頭を掻いた。


「俺は敵じゃないし、君をどうこうするつもりもない」


 ずいぶん乱暴な言い方だったが、もう取り繕うのはあきらめた。小手先のテクニックで優しさを見せたところでこの子が安心することはないのだろう。いや、むしろ演じていることに対して余計警戒するかもしれない。

 

 子供からの反応はなかった。だが彼は気にせず、木の椀を取り出すと出来立てのスープをそこに注ぐ。歩いて子供の近くへ行くと、スプーンをぶすっと差し入れてから少し干し肉を多めに入れたそれをズイッと目の前に出してやった。


「……まぁ食いなよ」


 彼のその言葉に子供の目が丸くなる。おわんと彼の顔を視線が行ったり来たりする。それにこたえるように彼がお椀をもう一度突き出して見せる。

 

 しかし、ぶつけられると思ったのか子供は身構えてしまった。

 

 青年はため息をつきそうになるが、ぐっとこらえた。ゆっくりと腰をかがめ、お椀を地面に置く。そしてまたゆっくりと緩慢とした動きで後ろへ下がっていく。ある程度距離が離れるともう一度彼は言った。


「食っていいぞ」


 犬か何かを調教している気分だな、と変な考えを思い浮かべながら腕を組んで子供の行動を見守る。


 子供は予想通りというか飛びつきはしなかった。目をこちらから離さず、彼が何かをしようとしたらとっさに身を守れるように体に力を入れながら、しゃがみこんでいく。

 

 それを見ながら、そこまで警戒しているのに、逃げる、という行動を選択しないのは何故か。彼はふと思った。食事を与えられるという可能性に賭けているのか、あるいは森でむやみやたらに逃げても迷うだけであるし、なにより体力が心もとないから逃げるという選択肢を仕方なく捨てているのか。

 

 なんにせよ食事をとったら少しは関係性が変わるのではないかとは思う。そこからどうするか。一番簡単な解決策としては最寄りの町へ行き、そこに孤児院があれば預けておく事だが…。夜の一件で分かったが、なかなかに厄介な事情を抱えているようだ。それゆえ普通の施設に預けにくい。

 

 どうするかな。と青年が考えていると子供がようやくお椀を手に取っていた。青年はひとまずノルマ達成と胸をなでおろしたのもつかの間。次の瞬間、子供が匙も取らず顔からスープへダイブしていくのを見て凍り付いてしまった。


「ちょっとまてぇ!」


思わず大きな声を出していた。子供は湯気がもうもうと立つお椀すれすれのところでピタッと顔を止めていた。


 それからゆっくりと顔を上げて青年を見る。何の感情もない目が彼を捉えていた。それは「やっぱりね」という、絶望をたたえているように見えた。青年はその目を見て一瞬言葉に詰まる。しかし軽くかぶりを振ると、持っていた木製のスプーンを掲げた。


「いいか?これを使って食えよ。やけどするだろ」


 子供は何のリアクションも起こさない。言っている意味が分からないっていうのか?そこまで常識が欠けているとは。青年は軽いショックを受けた。


「こうだよ。こう食べるんだ」


 仕方がないので実演して見せる。スープを掬い、それに息を吹きかける。


「熱いからな、こうやって息を吹きかけてちょうどいい温度にさますんだ」


 いつもなら適当に冷まして食べるのだが、今回は勝手が違う。念入りに冷ますさまを見せつけて食べる。まだ少し熱いがやけどするということはなさそうだ。味は…まぁまぁといったところか。

 

 子供もようやく青年の意図することが分かったらしく、スプーンを順手にもつとスープと青年をちらちらと交互に見ながら見よう見まねで立ちながら食べ始めたのだった。


 

 匙に浮かべた透明なスープを見て彼女は思う。


(あたたかい)


 漂う湯気が匂いとともに優しい温かさを届けてくれる。だが息を吹きかけるとその湯気が飛んで行ってしまう。少しそれを物悲しく感じた。先ほど青年が怒鳴った時、いつもの「世界」に戻ってきた気がした。つらく、冷たく、痛く、寒く、光のない日常。それが当たり前で受け入れていたはずなのに、もう戻りたくないと思ってしまった。

 

 でも違った。彼はまだ優しくしてくれる。まだ明るい世界にいさせてくれる。それが永遠に続くなんて思ってもいない。だけどこの安らかな時ができるだけ続くことを願わずにはいられなかった。

 

 彼と同じ秒数息を吹いたので、大丈夫だろうと口を持っていく。彼を見ると、こちらを見ていた。これであっていたようで止める気はなさそうだ。


 口を近づけるにつれて強くなる匂い。少女にとって久々の食事に舌と鼻がうまく情報を処理できない。じんわりとしたしびれとして情報が脳に伝わる。だがわからなくても自然と手が動いていた。栄養を体が本能で求めているのかもしれない。ぱくりと一口。瞬間彼女は目を見開いた。



 一口食べてから、何かにとりつかれたようにがつがつと食べ始めた姿を見て、彼も自分の分を食べようかとも思ったが、あの勢いだと足りなさそうだなと思いやめる。


 あまりにも急いで食べるのでまた注意しようかと思ったがエサの時間を邪魔される犬がどういう反応をするか思い出した。あまり野暮なことはしたくない。

 

 そうこう考えているうちに、ふと顔を上げると名残惜しそうな目で器を見る子供がいた。


 ――はやすぎだろ。


 口の周りを干し肉からでた油でべとべとにした姿はひどく「食いしん坊」という言葉を連想させた。飢餓状態からの急な食事は体に悪いらしいが、例の薬でそういったリスクはある程度減らせているだろうから彼女の暴食を止めはしない。

 それよりかは食べる元気があることに安心する。助けても栄養失調なんかで死なれては目覚めが悪い。


「まだ、食べるか?」


 いいのという目で見てきた。もちろん彼は首肯した。やはり戸惑う姿を見せるが差し出された器を目の前にして抗えはしなかったようだ。


 おそるおそる近づいて奪うようにとるとまた元の場所に戻りがつがつと食べだした。別にとったりはしないのだが、そもそもやっているのは自分なわけだしと彼は複雑な顔で見守る。 

 

 それにしても。と、彼はがしがしと頭を掻く。

 

 先ほどからこの子は一言も言葉を発していない。しゃべれないのか、それとも何か別の理由があるのか。スプーンの使い方もわからなかったようだし、ひどく痩せていることから相当過酷な環境に置かれていたことが容易にうかがえた。

 

 助けはしたが、さてこれからどうするか。

 

 まぁ、なんにしてもよく食うなぁ……。



 わずか数分後、そこには空になった鍋と、相変わらず表情は変わらないが満足げに見える、かもしれない子どもと、結局スープを食えず、しょうがないと干し肉をもちゃもちゃと馬車のへりに座って食べる男がいた。


 地面だと尻が濡れてしまうので彼が馬車に座ろうとすると、そそくさと子供がお椀をもって対角線上へ位置を変えたのは内緒である。

 

(しょっぱいな…)


 空を見ながら食べていた青年だが、視線を感じる。


 おいおいマジかよ。


 嫌な予感がして視線を下ろすと、干し肉に熱い視線を注いでいる子供がいた。

 

 かくして干し肉も奪われ、手持ち無沙汰になった彼は膝に頬杖をついてぼぉーっとしていた。かたい干し肉は体力が低下している子供にとって強敵だったようだ。幸いにも歯は丈夫らしく干し肉を引っ張っては力任せに食いちぎることを繰り返している。

 

 時折、食いちぎった反動で後ろに倒れるが、すぐさま座りなおすとまた戦い始めた。戦いの度に地面のぬかるみで汚れていく。

 

 野生児というのはこういうものかと青年は思った。結構な時間がかかったが、結局完食してしまった。といっても本人は満足していないようでぺろぺろと名残惜しそうに指をなめていた。一応まだ干し肉はあるが、

 さすがにそれを食われては今後の旅路に支障が出る。

 

 というか最寄りの町まで食料が持つかどうか…。これは現地調達も視野に入れなければならない。


「さて」


 そう一言切り出した。子供は指をなめるのをやめ、こちらを見る。最初に比べればやはり警戒心は薄れてきている。ようにみえる。


「まずは名前だ」


 自己紹介というのは初めてあった人同士が行う定番の行為である。これからしばらくは行動を共にするかもしれないわけだし、円滑なコミュニケーションを図るためには必要だ。


「俺はシオン。旅をしている」


 簡潔な自己紹介だった。もっともべらべらしゃべる必要はないので十分であろう。


「……」


 子供は何もしゃべらない。こちらを見ているだけだ。予想はしていたが……そこでふと青年は思った。この子は一般常識に欠けている。相手が自己紹介したら、自己紹介し返すということを知らないのではないか、と。


「……君、名前をいえるか?」


 というわけでおそるおそる聞いてみる。子供にとってそれは予想外の言葉だったらしく、二、三度目をしばたかせると下を向いた。その様子が異常だったので青年は何かしでかしたと不安になった。



 名前…。少女にとってその「言葉」は、本来何よりも近いはずなのにとても遠くに感じる。彼が自分の名前を求めている。それを裏切りたくはなかった。求められるものを差し出さない、それは役立たずだから。彼が自分から離れていってしまう。

 

 それでも、記憶の底をさらってもなんの感触も得られない。必死に漁るが、何も、引っかからない。ようやく気が付いた。そういえば自分に記憶なんていうものはないのだ。苦痛を耐え、生きている今日と生きたい明日だけを考えていた自分に、昨日なんて言うものも過去なんて言うものもない。

 

 息が詰まりそうだった。ないものを探さなければいけないのに、もともとそれはないものなのだから探せるはずもない。いや、確かにあったのかもしれないがそれを確かめる術は自分にはもうない。

 

 顔は下に向けたまま、わずかに目を動かして青年を見る。そこに青年がいることを確認すると幾分か呼吸が楽になったように感じた。

 

 まだ居る。まだ大丈夫。再び地面に視線を向けると食べ終えたお椀がそこにあった。さきほどまであった温かさがすっかり失せ、冷めていた。


「もしかして、そもそも無いのか?」


 青年がゆっくりとした口調で尋ねてきた。少女は思い出せないことを伝えようとしたが、声を発しようとするたびに喉が痙攣をおこして言葉をうまくつむげない。自分の体がこんなにも不自由だと感じたのは初めて、かもしれない。仕方なく首肯して見せた。

 

 思えば自分を相手に主張する行為も彼女にとって初めての経験、かもしれない。記憶を失っている以上、経験したかどうかなんて分かるはずもないのだ。


「そうか……」


 青年は目をとじて俯くと、何かを考えこむ。その間に少女は事態の解決策を探ろうとする。しかし何度も言うがそれは不可能なことで…。すると突然青年が「よし!」と言う。


 ポンと膝を叩いて青年が立ち上がる。つられて見上げると眩しい日差しが目を刺した。


「最初に聞いておくが、どこか行く当てはあるのか?」


 行く当て?居場所ということならそんなものはない。この世界も前の世界もそんなものどこにもなかったのだ。彼女はゆっくりと首を振る。


「じゃあ、俺と一緒に来るか?」


 彼女は自分の耳を疑った。自分の願望が器官の刺激を錯覚させているのではないか。彼女が目覚めてから一番欲しかった言葉を彼が――。突然視界がぼやけた。はっとして頬に手をやると、ぬめりのある液体が指に触れた。自分が泣いていることに遅れて気づく。

 

 ――でもどうして?


 悲しくはないはずなのに。目覚めてからの涙とは違う。強い日差しのせい?いや、それも違う。その涙は刺激によって滲み出てきたようなものではなく、次から次へと彼女の顔の輪郭をなぞっていく。


 訳の分からない感情に彼女はさらされてしまった。目覚めてからのほんのひと時で彼女は次々と未知の体験をしている。

 

 それに恐怖を感じている自分もいる。だけれど、少し心の奥を覗き見ると恐怖、不安、それらとは全く異なる感情を見つけ出すことができる。

 

 この感情の名は――。


「ど、どうしたってんだ……」


 目の前で彼がうろたえていた。彼女を覗き込む目は不安で揺れていた。それは彼女が見てきた大人たちの目とは違った。

 スープの時もそうだ。自分の一挙手一投足に関心を持ってくれる。自分を見てくれる。死後の世界に救いがあるというのなら、これがその答えかもしれないと彼女は思った。

 

 目の前で子供が泣いているというのは正直気まずい。思いかえすとどうやら自分に原因があり、それゆえ泣いているらしいのでなおの事、罪悪感というか、なんだかいけないことをしているように感じる。

 

 周りに人の目がないのに不思議なものだ。本能レベルで子供を泣かせてはいけないということだろうか?

 慰めようにも原因がわからない。というよりかは原因は自分らしいがそれが泣くこととどう結びつくかが、つまり因果関係がわからない。分からないうちは動かないのが吉ではあるが、やはりどうにも気まずい。

 泣いている子供を前に棒立ちってわけにもいかない。

 

 シオンはパラドックスに陥っていた。

 結果彼が出した苦肉の策は「これは棒立ちではない、落ち着くまで見守っているのだ。今はまだ話しかけるべきではないのだ」と状態の定義を無理やり変えることだった。

 

 子供が今すぐ泣き止む気配はなかった。何度も手で涙をぬぐっては嗚咽を漏らしていた。やはり気まずい。シオンは首の後ろを掻いて「参ったな」と小さく漏らした。

 

 子供が泣き止むまでの間、彼にとってその時間は永遠にも等しいように感じられた。子供がようやく落ち着いたのを「見守る」とどっと疲れが押し寄せた。座り込みたい衝動にかられたが、まだ一仕事残っている。最後の気力を振りしぼらなければいけない。


「落ち着いたか?」


 子供は泣き腫らした目でこちらを見るとこくりと頷いた。


「なんか嫌なことでもあったか?俺がなんかしたとかでさ。だったら謝るよ」


 しかし意外にも子供は首を横に振った。


「違う…?じゃあなんで……」


 泣いたりしたんだ、と聞こうとしたがシオンは最後まで言わなかった。なぜなら彼なりに理解したからである。栄養状態から察するに想像したくない境遇にあった彼女が、温かいスープを食べて腹を満たされて。安心感からか今まで抑えていたものが噴出したのだろう、と。

 

 事実はそれに加え彼の存在もあるが、「自分のせいではない」と先ほどの反応を受け取ってしまったためにその考えはなかった。正確には、子供が意図するところは「嫌なことはされていない」であるのだが。


「まあ、大体のことはわかった。で、だ。今ならさっきの答えをもう一度聞いてもいいか?」


 僅かに緊張して言った質問は子供をきょとんとさせるにとどまった。


「いや、だから一緒に来るかって…」


 こちらの言葉も彼は途中でやめてしまった。というのも言い終わる前に子供が必死に頷くことを繰り返したからである。まさしく必死であった。


「わかった。わかったから首振りをやめてくれ、首を痛めるぞ」


 見ているこっちが痛くなるようだった。子供はおとなしく言うことを聞いて、ぴたっと動きを止めた。その反動も間違いなく首を痛めると思う。


「あー自分で言っておいてなんだけど、俺で大丈夫か?ほら、今日初めて会ったわけだし」


 体感から言って次の町まで四日は掛かる。この子も連れていくとなればさらに遅くなるだろう。そんなある程度の期間、見知らぬ者と一緒にいるのを是としていいのか。というニュアンスを含ませた問いかけ。

 

 ただ、この質問は意味をなさない。なぜならばこの森に一人置いて行かれることはほぼ確実な死を意味する。なればこそ、この子に自分についてくるか、ついてこないかの選択肢ははなっからないのである。

 

 彼もそれはわかっていたはずではあるが、おそらく罪悪感から逃れるための確認作業をとったのかもしれない。もしくはもっと単純に話の間を持たせるものとして返答が期待できるものが欲しかったのかもしれない。

 

 しかし子供にとっても選択肢は一つしかなかった。生死を天秤にかけるまでもなくである。


「……」


 首を振るかわりに子供はシオンをじっと見る。目は口ほどにものをいうとはよく聞くが、シオンも何かをその目から感じ取らざるを得なかった。強い意志の表れがそこにあった。

 

 彼は不思議に思う、この目覚めてからの短期間で何があったのだと。最初の目とは大違いだ。自分との距離感が変わったから?いや、そうではない。それよりも明確に子供自身が変化している。

 

 同じく見つめ返してやるが、その原因はわからなかった。


「ん、わかった。それじゃぁ、ここからが大切なんだが……」


了承を得たことで、彼は次のステップへ移行することを決心した。いささか不躾な提案であるためためらわれたが、今後の行動に関わる重要なことだ。


「ひとまずこれからの予定としては町を目指す。おそらく一週間近くかかるだろう。その間ずっと君を『君』呼ばわりするのは不都合だ、そう思う」

 

 子供はシオンが何を言いたいかいまいちピンときていないようだった。彼は構わず続ける。


「そこでだ。暫定的に君に名前をつけたいんだけど、どうだい?」


 彼の思惑はこうだ。名前を呼ぶという行為がコミュニケーションの初歩の初歩であるとするならば、名前がなければつければいいという思い付きである。名前を付けずに一つの物として運ぶ選択肢もあるにはあるが、そんな気まずい関係性シオン自身が耐えられなかった。

 

 加えて迷子になった時の捜索や孤児院に預けるときなど名前を多用する場面はこれからいくらでも考えられる。そういうわけでこの提案をシオンは行ったのだった。つまり事務的な理由が大きい。


 だが、子供自身にとってその提案は全く異なる意味を持った。一瞬子供は驚いた顔をする。

 シオンは子供がそんな普通の表情を見せたことに軽く衝撃をうける。もっとよく見ようとしたが、すぐに仏頂面に戻ってしまった。しばらく二人の間に無言の時が流れる。


「あ、えっと…で?」


 間に耐えきれなくなりシオンが再度質問する。子供の答えは決まっていた。


「そうか…じゃあ、名前考えなきゃな」


 子供の返答を確認してシオンは虚空に視線をさまよわせながら考える。ひとまず、の仮の名であるからあまり凝ったものをつけるのもなんだ。シオンはそう考えた。なので頭の中でぱっと思いついた名前をつぶやく。


「……ニー、ナ…うん、ニーナだ。君の名前はひとまずニーナだ。よろしくニーナ」


 子供に言い聞かせるようにシオンは何度も名前を言う。

 子供はすっと目を閉じる。まるで何かをかみしめるかのように。口がもぞもぞと動く。


「……」


 それは最初、風の音か何かだと思った。


「…ィ……」


 だがすぐにそれが風の音なんかではないと気づく。繰り返し一定のリズムで聞こえてくる。そしてそれはだんだんと大きく、はっきりと耳に届く。


「ニィ…ナ…」


 声が、聞こえた。

 シオンははっとして子供を見やる。


「しゃべれたのか…?」


 頷く子供。シオンは素直に驚いていた。


「なんで、また…。まぁいいか。それで名前は気に入ってくれたか?」

「う…ん」


 頷きだけではない返答にシオンは少しうれしくなった。たとえとして適当なものかはわからないが、子供が初めてしゃべった時の親の気持ちとはこういうものかもしれないと頭の片隅にふと思う。

 これが名前を付けた効果だとしたらおそるべし。ともかく自分の行動が徒花とならなくてよかった。


「もっともそれは仮の名だから、テキトーなんだよ。しばらくしたらちゃんとした名前をもらいな」

「い……や」


 たどたどしいが明確な否定。それほど気に入ったのか?なんにせよコミュニケーションの第一段階はうまくいった。これで道中、一方的ではない意思疎通ができるだろう。

 

 しかし一つ小さな疑問があった。一応これは解消せねばならない。シオンは特別に緊張することもなく普通に質問する。


「あ、そういえばニーナって女の子の名前だけど、性別はあってる?」

「……」


 なんとなくニーナがむくれた気がした。

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