大狼王子と蛇鷲神話 6
けたたましい鳴き声が響き渡る。空に広がる唐紅の激情。巨大な様々な蟲が、瞳を一様に紅にして空中静止している。そして彼等の背に乗るセレーネ。確かに、牙を剥き出しにする化物と、その遣いの悪魔に見えなくもない。
「あく、悪魔? セレーネが?」
ニールが不安げに僕を見つめる。考えるよりも先に、首を横に振っていた。
「彼等は巣を荒らされ、子を殺されて怒っているだけだ。セレーネは……」
彼等の王に乗っ取られている。そうは言いたくない。彼等は得体の知れない化物ではない。知恵も感情もある、僕等と同じような生き物だ。ニールには誤解されたくない。
「巣を荒らされ? 子を殺され……まさかジョン王子? 化物の殻で兵器を増やすって噂を聞い……いいっ」
更に鳴き声が大きくなった。どの形のインセクトゥムも牙を剥き出しにして、歯軋りのような音を出して叫んでいる。城のあちこちから悲鳴や怒号が飛ぶ。
不意に疑問が湧いた。牙? 何故草食のインセクトュムに鋭い牙がある?
襲うため?
何のために?
守る為?
それなら誰を誰から?
「誰を……自分達を……人から……人こそ化物……」
城壁からいくつとの砲撃が放たれた。眼下は街。インセクトュムに避けられた弾が、市街地へと落ちる。自滅だ。これが彼等のやり方。己の手を汚すつもりはない。セレーネの体を使う、レークスの嘲りの表情がそれを物語っている。
「止めろ! 何もされていないのに、彼等を撃つな!」
叫んでも僕の声は喧騒に消えてしまう。砲撃場所も遠過ぎる。空に向かって次々と矢が放たれ、届かず、落ちていく。
セレーネの腕が真一文字を作るように動いた。セレーネの炎の揺らめきのような瞳が僕を見据える。
「王? レクス? レクス王子⁈ これはどういうことですか⁈」
真っ青な顔のニールが僕にしがみついた。分からないので首を横に振るしかない。
「誓い……」
誰が、いつ、どうやって、何故、インセクトュムと誓いを交わした? 地を耕し、海産物を運び、毒消しを雨に混ぜ……そこまで親切に……。
——恩を仇で返す、恥知らずの愚かな人など死ねば良い!
今までこの地の人々は、ドメキア王はどうやって恩を返してきた? それが答えだ。それは何だ?
思い出せ! 思い出せ! 思い出せ! セレーネやエリニース、レークスは何て言っていた?
——アピス達はね、レクス達が好きだから近くに巣を作ったみたい
——この国とは助け合えるって。私、分かるわ。この国の人達って、意地悪しないどころか、親切だもの
——この辺りの人間は、与えられた領地を越えて、アシタバアピスの子を楽しそうに殺害した。10年以上経つけど、王達はまだ怒っているわ
——フィズ国王陛下が必死に手当てしてくれたって
——領主が選んだ人の王、フィズ国王陛下
エリニスではなくて王に選ばれるべきなのは父上か? そうではない。己の勘がそう告げている。そういうことではない。流星国辺りの人間は、かつて巣に入り、小蟲殺しをして……そうだ、今のこの国のように奇病が流行った。そして、蛇神が現れ……父は冠を授かり母は生まれつきの風土病が治り、豊かさを得た。蛇神に選ばれた王と、蛇神の寵愛を受ける王妃。
——下等生物はそうやってすぐに忘れるが、我らは永劫忘れない
——我らは次の王と協定を結ぶ。もしくは千年続いた協定の破棄だ
千年前に何があった?
「この馬鹿力! 離しやがれ! 俺の邪魔をするな! ティダさん! いやティダ! 離せ!」
この声、エリニス? 声の方向を見上げると黒い法衣の者が黒い法衣の者に馬乗りになり踏んづけていた。
「ふははははははは! だから忠告しただろう! 君は見誤っている。彼等の真の怒り、憎しみ、そして望み。エリニス、未熟な小蛇の王子よ、真の王を用意しろ! あんな小物、蛇の王達は気に入らん」
「おいレークス! バジリスコス! ココトリス! 話が違う! 支援すると言っただろう! セレーネ! 台詞が違う! 全員で図ったな!」
押さえつけられて暴れているのがエリニスか。状況が読めない。
「戴冠式にて、このシュナが裁定する! 下等生物め、牙には牙、賠償提示がないなら必ず報復する!」
凛とした声で告げると、セレーネはくるりと背を向けた。その寸前で、一瞬目が合ったように感じた。セレーネが蜻蛉のようなインセクトュムに飛び乗り、遠ざかっていく。他のインセクトゥムは不動。ここでセレーネと離れたら二度と会えない予感がする。この先どうなるのかを考えるよりも前に、自分にしがみつくニールの手を払い、ベランダから飛び降りていた。帯刀している剣をベランダに放り投げ、背中に隠す小型ナイフも同じように捨てた。
「うわああああ! レクス! なんで飛び降りるんだ!」
ニールの悲鳴は最もだ。しかし、確信がある。一心不乱にセレーネの背中を見つめる。
「信頼すれば無防備に背を預ける!」
僕は嵐の夜にアピスの子に手を差し伸べた。怪我をしてまで助けた。御礼に毒消しを貰ったが、それでは足りないと、助けてくれるに違いない。父がかつてアピスの子を助けようとした見返りは、未だに続いているのだから。
さあ、来い。化物ではないと、見ている者に見せつけてくれ。僕は思いっきり空気を吸い込んだ。腹の底から声を出す。
「私だ! 私が誓う!」
アピスの子達が次々と僕に向かって飛んで来た。風のように速い。やはり、助けてくれるのか。報復したい気持ちを抑えて、脅迫だけで暴力を振りかざさない道を選ぼうとしている王。その民。そして子供達。人だ。人こそが彼等に歩み寄るべきだ。セレーネと踊った幸福な夜が蘇る。治った腕に力を込める。僕は、断絶された世界のその先を行きたい。憎悪がぶつかり合うなら、間に入る。
「忘却に消えているものは、このレクスが掘り起こす!」
アピスの子達に腕や背中を体を掴まれた。
「レクス!」
セレーネの絶叫が響き渡った。僕の大好きな、夜空の煌めきを閉じ込めたような落ち葉色の瞳が僕を見つめている。アピスの子達は僕をセレーネのところまで運んでくれた。もう、すぐ目の前。僕は近寄ってくるセレーネの体に腕を伸ばした。彼女の手首を掴み、思いっきり引っ張る。
「ここ何処? 私……何で……」
セレーネの体を腕の中に閉じ込めると、僕は彼女の耳元で囁いた。
「君の優しい家族は僕を見捨てないと思ってさ。僕は君と離れたくない。その君には、彼等もついてくる」
得体の知れない女性を愛してしまったものだ。おまけにとんでもない父親。けれども、ちっとも嫌になれない。うかうかしていたら、彼女の心はエリニスに奪われてしまう。自己卑下して嘆いているよりも、兄を超えようと励む方が良い。大丈夫、僕は誰よりも努力家だ。僕達を運ぶアピスの子達の産毛を撫でる。羊毛よりも柔らかくて肌触りが良い。
「家族を殺した者の血縁者でも助けてくれるんだな。信じて良かった」
会話は出来ないので、アピスの子達の返事は不明。ただ、僕が産毛を撫でるのを全く嫌がっていない。ふよふよ飛びながら、アピスの子達は僕とセレーネを、ムカデに羽が生えたようなインセクトュムの上に乗せた。
「セレーネ、僕は知りたい。人の世で暮らしていては分からない世界。紡がれてきた歴史。君が繋いでくれれば、きっと鮮やかな未来が訪れる。脅迫ではなく、何かもっと歩み寄る方法があるはずだ」
気持ちが昂ぶって、ついセレーネの左手を取り、唇を寄せていた。セレーネの目を見ると、顔が真っ赤。よし、まだ脈ありだ。大丈夫、何年かかっても口説き落とす。
「君と神話になるのは僕。君が許してくれるなら、他の者に譲りたくない。死後も寄り添うふう……っ痛!」
突然、額に激痛。セレーネの滑らかな手も急に引き剥がされた。
「はな、離してお父さん! レクスにドングリを投げないで!」
突如現れた黒法衣の者。セレーネが後ろから羽交い締めにされた。
「子狼王子改め大狼王子レクス。ようこそ、我等の世界へ。協王候補として歓迎しよう。娘を嫁にするのを許してやる。なので直下として、馬車馬のように働いてもらうぞ」
セレーネの声ではなく、頭上から男の声。一度聞いた、エリニースのもの。巨大なアピスの背に乗り、黒い法衣をはためかせる堂々たる立ち姿。フードに隠れているが、風が揺らすのでチラチラと見える嘲りのような笑み。しかし、瞳の奥の光は優しさで満ちている。いつの間にか暗くなっている。インセクトュムの群れが集まって、壁のようになっていた。
「よ……よ、嫁っ⁈ レクスが私なんかをお嫁さんにしてくれる訳ないじゃない!」
「えっ? 良いんですか? 協王? ん? セレーネ、私なんか? っ痛!」
また額に激痛。何かが空へ吸い込まれていく。ドングリだろう。
「そう、我等の側に立つ人の王。レクス、私は容赦しない。一先ず、戴冠式の準備を手伝え」
え? 動揺していたら、またドングリが額にぶつかった。痛い。
「お父さん! 止めてってば!」
セレーネがエリニースの黒い法衣の袖を掴み、背負い投げしようとした。しかし、反対に投げ飛ばされる。止めようとセレーネの手首を掴んだので、一緒に空中へ放り投げられた。アピスも他のインセクトゥムも助けてくれない。体が地へ吸い込まれていく。地響きがして、次々と土柱が上がった。鉛色の体に太陽の光が乱反射する。僕達の真横にも土柱。セレーネが僕の体を引き寄せ、担ぎ上げ、岩の上を駆け出した。岩から岩へと飛び移って下へと降りていく。
ふと見たら、巨大な二匹の蛇が現れている。鷲のような頭部の少し小柄な蛇と、角がいくつもある城くらい大きな蛇。海で会った海蛇の王。バジリスコスとココトリス。大咆哮で空気が震える。インセクトゥム達が霧散するように、バラバラに飛び始め、上空へと去っていった。蛇達も次々と去っていく。ボンヤリしていたら、僕とセレーネの目の前に黒い法衣が翻った。その隣にはフェンリス。
「さて、エリニスに格の違いを見せつけて、神話の作り方を教える。真の王を決めるのは我等である。表向きの王など誰でも構わん。しかし、多少の好みはある。エリニスの作戦は却下された」
「それは……エリニスが祭り上げようとしていた、ルイ・メルダエルダは好まないということですか?」
「左様。それに私の個人的な意見だが、化物を追い払った王という神話では、軋轢を深める。もっと美しく、それでいて道徳的な神話でないとならん。君がアピスに自分を助けさせたようなこと。歴史は巡る。残すものは美麗で、幸福に満ちたものでないとならない」
エリニースの腕が伸びてきて、僕の頭を掴んだ。わしゃわしゃと髪を撫でられ、その後胸に拳を突きつけられた。三回、トントントンと胸を叩かれる。
「期待している」
そう言うと、エリニースは僕の手を取り、掌の上に何かを乗せた。白銀製の指輪が二つで、円に正十字の台座がついている。そこに緑と青の小さな宝石が飾られていた。
「戴冠式の夜に、誓いの丘で娘に渡しなさい」
優しく微笑んだ後、エリニースは僕の頬を殴った。激痛で失神。目を覚めたら馬車内にいて、ニールと父上と共にいた。




