大狼王子と蛇鷲神話 5
天空城の客間を勝手に陣取り、城のあちこちで踏ん反り返るような態度の演技をして二日。フェンリスが化物の振りで、次々と「エリニス派」や「反ジョン派」を保護。後は、エリニスが動くのを待つだけ。
窓の向こうで、朝焼けの空に薄い紫色の霧がかかっている。呪いの霧と呼ばれているらしい。あれが現れてから、熱と斑点が出る病が流行りだしたから。ぼんやりと窓の外を眺めていたら、小さな地震が起きた。これも最近、頻発しているという。僕は、その理由を知っている数少ない人間。巣を荒らされ、愛する子蟲を殺されたインセクトゥムからの報復。天罰のような出来事と化物のような王により、人の世は荒れ、殺し合う。攻め入り、自ら殺すよりも、その方が手間が省けるし、滑稽だと笑える。それが、彼等の判断。
セレーネが「蛇神の怒り」を語り歩き——というか、させられ——エリニスは王権神授を騙る、一世一代の芝居の準備中。間も無く、それが終わる。
「伝承には偽りが含まれている……、か……。蛇鷲神話そのものが、エリニスのような者が作りあげた虚像かもな……」
誰もいない部屋の窓辺で一人呟く。今、僕等は時代の狭間、神話の中を生きているのかもしれない。新たな神と女神になろうとしている、エリニスとセレーネ。二人は神話の中心で燦々と輝くのだろう。しかし、僕は端で眺めるだけの者。悔しいし、腹も立つが、諦めている。僕は非凡で、セレーネの横には並べない。
コンコン。
突然、目の前の窓の向こうにセレーネが現れた。白地に赤い花柄の法衣で、顔は見えないけれど、服を用意したのは僕なので分かる。どこを掴んでぶら下がっているんだ? コンコン、コンコンと窓をノックされる。慌てて窓を開くと、セレーネが部屋へ飛び込んできた。くるりと回転し、見事な着地。シャルル王子の看病をしてくれているはずなのに、何故ここにいる? どうやって来た?
「おはよう、レクス」
この声の出し方はエリニース。雰囲気もセレーネとは異なる。内心、慄いたが平静を取り繕った。
「おはようございます、エリニースさん」
「声色は変わらないのに、やはり微妙な変化にも気がつくのだな」
「微妙な変化? 全く違います。あの、ご用件は?」
フードを脱ぐと、エリニースが僕に近寄ってきた。妖艶な笑みを浮かべるセレーネというのは、とても本人には見えない。こんなの、間違えようがない。
「用件? そうではなく、こう聞きたいだろう? セレーネで何をした、と」
見抜かれている。僕はゆっくりと首を縦に振った。
「蛇の王子の後押しの為に、民衆を更に煽った。しかし、忠告する。あの男が用意するものでは彼等の気は治まらない」
「エリニスが元凶であるジョン王子を差し出し、謝罪させます。勿論、罪に相応しいのが死ならば、従ってもらうのみです。この国は、きちんと正しい王を選び、不可侵の誓いを受け継いで守っていきます」
「いいや、エリニスは読み間違えている。君もだ。自分の頭でよく考えろ。真の王に相応しいのは誰だ? あと、この件に必要なのはエリニスではなく君。エリニスは表向きではこのアシタバ半島の人を救うかもしれん。しかし、本当に必要なのはそれではない。このままでは溝が深まる」
どういう意味だ? セレーネの手が僕の頬に伸びてくる。思わず後退りした。彼女の意識ではない体で触れられる、セレーネの知らないところで接触するのは憚られる。
「ふむ、生真面目というのは真実らしいな。まあ、時期に分かる。あまり娘と離れないでくれ。いいか、これで二度目だ。三度目は無い。娘に必要で信頼しているから任せている。それを忘れるな。それとも娘の優先順位が低いのか? 私の目が狂っているのか?」
ぐらり、とセレーネの体が揺れて、彼女の目は閉じられた。僕に向かって倒れ込んでくる。セレーネを抱きとめて顔を覗き込むと、苦悶の表情で眠っていた。もつエリニースは去ったらしい。言われたことを反芻し、途方に暮れた。セレーネがエリニスと行動していた時は何も忠告されなかったのに、今回はされた。その違いは何だ? あれこれ疑問が湧き上がるけれど、愛する人の親に認められている雰囲気なのは喜ばしい。セレーネを寝台に運んだ。近くに椅子を運び、ほんのり滲んでいる汗もハンカチで拭く。
「エリニースさんの発言は、どういう意味だ?」
独り言が霧散して消えていく。淑女の寝顔を盗み見は良く無いので、セレーネに背を向けて座り直す。あれこれ考えながら、色々と整理してみた。しかし、エリニースからの忠告の意味を汲み取れない。何を期待されている? どうして彼は遠回しな事しか言わない? やはり、試されている?
しばらく悩んでいたらノック音がしたので、応えた。このリズムはニールだ。
「レクス王子、ニールです」
「入れ」
立ち上がった時、扉が開いた。
「ジョン王子より戦場指揮官任命書を賜ってまいりました。それから、フィズ様と一度帰国せよと。陛下は手土産を所望されておりました」
入室してきたニールの顔色は悪い。
「父上の生首が見たいとは良い趣味だ。まあ、取り戻したらこちらのもの。さっさと帰ろう」
「ええ……。フィズ様もそのように……。それから……ドメキア王が永眠されたと……」
自然と目が丸まる。
「ジョン王子の戴冠式は二週間後だそうです」
「それで、式に合わせて東へ出陣か? で、その前までに父上の生首を持ってこい。そんなところだろう。ニール、僕等を信じてついて来て欲しい」
「ええ、仰せのままに。我らの王陛下」
突然、ニールが膝をついて頭を下げたので、更に驚いた。
「我らの王陛下?」
顔を上げたニールの、燃え上がるような瞳。僕は思わず後退りしていた。
「エリニス王子とレクス王子が必ずやこの大蛇連合国を照らしてくれる。俺はそう信じているだけです。でも、俺だけではありません」
立ち上がると、ニールは屈託のない笑顔を浮かべた。
「いやあ、俺も出世だ出世。戴冠式にて、連合国中の王と共に異議申し立てをするのですよね? エリニス王子が王。フィズ様やルイ様が宰相候補で……流星国にはレクス王が誕生。未来は明るい」
「ニール……それはどこから……」
「どこから? あちこちで囁かれて……レクス王子? 真っ青ですが……」
「真の王に相応しいのは……」
エリニス。そうだエリニス。蛇神に愛され、インセクトゥムの王とも話をしている。
「それならレークス様は直接エリニスと交渉……」
「レクス王子? ブツブツ呟いて、どうしたんですか? ん? あれ、セレーネ?」
ニールが目を丸め、その次は頬を引きつらせた。振り返ると、セレーネは寝台から上半身を起こしていた。目が真っ赤だ。インセクトゥムの憎悪に巻き込まれたセレーネか、レークスか、どちらだ?
「再度通告する。アピスは前線指揮官にして司令官。境界線にて王を待つ。賠償を提示せよ」
セレーネは立ち上がると、窓際へと後退していった。手にはナイフ。どこから出した? 法衣の内側か?
「罪には罰。牙には牙。罪を贖え」
罪は不可侵の掟を破ったこと。子蟲を攫い、殺したこと。なら、それに相応しい賠償は何だ?
「セレーネ? どうした? 目が真っ赤だ」
ニールの問いかけに、セレーネは無反応。返事も表情の変化もない。ただ真っ赤に変化した目だけが火炎のように揺らぐ。そこに一瞬落ち葉色が現れすぐに消えた。大きな目から一筋、流星のように涙が流れ落ちる。
「セレーネ、飲み込まれるな。君はアピスでは……」
——化物じゃないわ……。私を拾って育ててくれた……
大粒の涙を流したセレーネが蘇る。そうだ、インセクトゥムは化物ではない。人の為に大地を耕し、海産物を運び、雨に毒消しを混ぜたと言っていた。その「礼」が巣への不法侵入、蹂躙、子殺し。化物はどっちだ? 彼等は憎しみと悲しみに囚われて、必死に耐えている。多分、そうだ。今のセレーネの態度がそう伝えてくれている。ナイフを握って震えているのに、その刃先は床。激昂の唐紅の瞳を揺らしているだけ。新しい王は信用出来るので許して下さい。そんな理屈が通じるか? 無理だ。そして、インセクトュムのアピスはセレーネの恩人で家族……。それに気がついた時、窓ガラスが割れた。次々とアピスが飛び込んで来る。三つ目が真っ赤な、子供だろう小さなアピスの群れ。産毛が赤い。流星国近くにいたアピスの子は緑色の産毛をしていた。ギギギギギという威嚇のような鳴き声を立てて、セレーネを取り囲む。セレーネは僕とニールに背を向けて歩き出した。
「セレーネ!」
追いかけてベランダへ出る。
「待ってくれ、アピスの子達!」
セレーネの姿は消えていた。空が鉛色に覆われている。点々と並ぶ紅。
「ひっ! なんだあれ! うわっ地震!」
手摺に掴まり、ニールを支える。激しい地響き。
「愚かな王に従うならば、このシュナが裁く。境界線にて新たな王を待つ。誓いと賠償を提示せよ」
この声、セレーネ。しかし、話し方はレークスだ。セレーネは背中に透明な羽を背負い、空中で法衣を翻している。まるで宗教画の天使。落ち葉色の髪が風に畝り、靡き、頭上でとぐろを巻いた。まるで冠のようだ。周りをアピスの成蟲が囲んでいる。
「シュナ? シュナって女神のシュナ? いや、あれはセレーネだし……おいレクス! まさか本当に女神だったとか言わないよな⁈ 」
ニールに体を揺らされる。下の階のベランダに次々と人が出て来て、空を化物が覆っていると悲鳴を上げた。それから、誰かがこう告げた。
「魔女だ! 魔女が化物を連れてこの国を滅ぼしに来た!」




